髻山城(もとどりやまじょう)

髻山城の基本情報

通称・別名

(大城・小城)

所在地

長野県長野市若槻西条

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

上杉謙信

築城年

戦国時代

主な改修者

武田信玄

主な城主

上杉氏、武田氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

若槻山城(長野県長野市)[3.7km]
長沼城(長野県長野市)[4.9km]
内堀館(長野県中野市)[7.5km]
横山城(長野県長野市)[8.0km]
葛山城(長野県長野市)[8.8km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[9.9km]
旭山城(長野県長野市)[10.3km]
井上城(長野県須坂市)[10.8km]
福島正則館(長野県上高井郡)[11.1km]
中野陣屋(長野県中野市)[11.9km]

髻山城の解説文



髻山城(もとどりやまじょう)または髻城(もとどりじょう)は、長野県長野市と上水内郡飯綱町の境にあった日本の城。

概要 

上杉謙信が、川中島の戦いに備えて築いたとされる。北国街道沿いにあり、川中島と春日山城の中間にある交通の要所であった。

主郭部には石垣が残り、謙信が掘った井戸、「観音清水」が残る。

所在地と地形 

髻城には、大城(おおじょう)と小城(こじょう)があった。一般的には大城のことを髻城といっている。本丸の頂上と南斜面は長野市大字若槻西条字髻、北斜面は飯綱町大字平出字泥ノ木と字一杯清水・清水久保にまたがっており、小城全体は長野市大字西条字髻の地籍であった。

大城は三登山(923.0m)山系の東端にある髻山(744.5m)に立地した山城であり、小城は大城の東南麓約350mの位置に突起した小円頂丘火山(650m)に立地していた。

大城は南と東斜面が急峻でことに東斜面は断崖絶壁をなしており、自然の要害であった。小城は南斜面だけがやや急峻で大城ほど険しくはない。大城の東麓、小城との間に竪穴式古墳が発見され、鉄鏃などが出土した。

参考文献 

  • 牟礼村誌・学校誌編纂委員会『牟礼村誌』上巻、297-298頁(所在地と地形)。
  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年

髻山城の口コミ情報

2024年09月08日 信濃守あお
髻山城



グーグルマップで示された登山口看板から県道を北へそのまま走り道沿いの駐車場(5台位停められる)に車を停め、長野市方面へ200メートル歩き、登山口の看板から山の方へ。駐車場から25分程で登城。道や標識は、地元の方が手を入れてくれていて迷うことはない。

2024年06月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
吉の小丸山城[髻山城  周辺城郭]



吉の小丸山城は髻山城の南南東約1.5km、隈取川北岸(左岸)、標高約427mの丘陵地緩斜面上平場に立地したと推測される何かです。該地の西側、吉集落には近世の北国脇往還が南北に通るが、吉から髻山城の東麓を通って平出へ抜け、黒川に入って矢筒城城下に至る古い道筋は、戦国時代、甲越が争った時期には特に重要視されており、髻山城はそのために取り立てられたと言っても過言ではない(広く見れば善光寺平と春日山を最短距離で結んでいる。)。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…長野県道60号、長野荒瀬原線の吉交差点を目指して進めばよいだけではあるんだけど…

まず、色物物件である。「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があり、信濃のお城の神は「村誌よしむら」の記述のみを頼りに調査に入ったようだ。村誌には、「小丸山」の地名の解説として、「古墳である場合が多い。また城郭の本丸、二の丸に由来したもので、小高い所。」とある…

…この記述から調査に入る神も凄いけど、その軌跡を追い続ける信者としては辛過ぎる物件でもある。「小丸山」の地名がかつての城館跡を示唆するもの…かもしれないから、単純に該地にそれを求めてみたて事になる…「古墳である場合が多い。」…は忘れてしまったんだろうか。ちなみに該地の周辺には、古墳65基(現在数)を内包する群集墳、吉古墳群がある。

前述のとおり、「小丸山」と呼ばれる果樹園と化した丘陵が該地である。限り無くその存在が疑われる物件だが、城館の場所としては適地だろう。小高い丘陵上からの展望は開けており、物見の場としても同様である。道押さえの居館城の類いが存在していたとしても何ら不思議な事ではない。但し、城郭遺構が見出せる筈も無く、それ以上の事は頑張っても語れない。敢えて疑問を挙げるならば、後背、上段に吉の集落と近世以前の古道を控えている事であろうか。

リア攻めは殆ど通り過ぎただけの内容だ。該地の写真を6枚撮って早々に陣払い。やる気が全く起きなかった。甲越双方、多くの人数が往来したであろう場所だというのがせめてもの救いだった。

鎌倉時代には太田庄と若槻庄の境目の地であり、該地の吉は吉村として太田庄に属していた。即ち、嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、九番五月會分の条に、「…郷等并大(太)田庄内大倉、石村、吉村…」とあるのがそれで、吉村は太田庄の庄域の南限でもあったようだ。

※ 長野県道60号、長野荒瀬原線は北国街道とも呼ばれる自動車道だが新道であり、旧道とは道筋がやや異なっている。

2024年06月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
若槻西条の城山[髻山城  周辺城郭]



若槻西条の城山は髻山城の南方約1.0km、隈取川東岸(左岸)、標高744.4mの髻山山頂から南方へ伸びる支尾根中段上、標高612mの小ピークを中心に立地する何かです。南麓の諏訪神社からの比高は170m位でしょか。南東麓には近世の北国脇往還が山際を南北に通り、山稜を東麓から登る兎沢沿いの道筋は、番場原を抜けて観音清水を経て、最終的には髻山山頂、髻山城に至る。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…誰も行かないと思うんで説明しないけど、前述の兎沢沿いの道筋は該地付近まで車両通行が可能な林道となっている。車で登れば殆ど横付け出来る。

まず、色物物件である。「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があり、信濃のお城の神は「村誌よしむら」の記述から該地を特定し調査に入ったようだ。「城山」の地名が残っているのだから、山稜を山城の跡と考えるのは至極当然の話だろう。

第三次川中島の戦い、通称、「上野原の戦い」は髻山城の周辺が戦いの場と推測されており、長尾勢は同城からこの城山の山稜東側を流れる宇佐美(兎)沢沿いに陣を敷いたとも推測されている。これを鑑みれば、城山は長尾勢によって築かれた陣城の類いて事になるが、残念な事に城郭遺構は見出せず、後世の耕作の跡を除けば殆ど地山である。

兎沢の流れは山塊に深い谷筋を形成し、該当尾根は比較的に急峻ではあるが、登ってしまえばなだらかな丘陵地様地形の連続となり、山頂が一体何処になるのかさえも判り難い。城山の北側は狭小な窪地形となっており、廃家屋1軒、座屈した家屋1軒がそのまま時を刻んでいる。耕作の跡に加えて溜池もそのまま残されており、山中には近年までの生活の痕跡が窺える。

全体的にはファジー過ぎて城域の判定すらままならない。縄張をはっきりとした形で想像する事が出来ない難し過ぎる物件だ。城山山頂を狼煙の場、物見の場とし、なだらかな丘陵地様地形の窪地に人数を入れたものだと考えられるがどうなんだろう。周辺地形をフル活用した一時的な陣城だったとすれば、城山の範囲を更に広く捉える事によって往時の姿が想像し易くなるとは思うのだが…ちなみに位置関係から髻山城の支城である…とか阿保な事は考えない方がよい。

前述した事は現地を実際に訪ねて感じた個人的推測に過ぎない。そもそも論でその存在さえ疑われる非常に悩ましい物件だ。色物物件とは常にそうした物件である事を覚悟すべし。基本的には実像無く地名だけが永遠に残り続ける結果となる。

二度と訪ねる事は無いだろう。この手の物件に再訪はあり得ない。それ故に探索も自分が納得出来る形にはしておきたいものだ。阿保かと思われるかもしれないが、リア攻め時間は1時間30分弱、そこら辺のただの裏山を彷徨う山城廃人…家路は遠いのにすっかり日も暮れてきた感じがする…もう昔の自分には戻れねぇっす…

あ、口コミは変態が勝手に山に入って勝手な事を言っているだけの内容なんで悪しからず…城山も迷惑千万だろう、すまん。

※若槻西条〜中世には若槻庄を構成する本郷の一つであった。ちなみに現在も残る地名だが、紆余曲折を経て若槻東条よりも東方に位置している。

※信濃のお城の神が描いた縄張図は全くやる気が感じられない。

※写真⑧は城山の北東側に残る窪地形、文中でも少し触れたが、上杉勢ともなればそれなりの人数なのだから、こうした場所が陣城として占地されたんじゃないかて個人的には考えている。ちなみにこの窪地から髻山城までの距離は約0.6kmでしかない(小城までは約0.4kmである。)。

2024年06月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
大久保氏館[髻山城  周辺城郭]



さて、夏場になると、おいらのフォトギャラリーは水田と耕作地の写真で埋め尽くされる訳だけど、果樹園の写真も多くなる事を忘れちゃいけない。城館のリア攻めにおいて結構な気を遣うのが後世、果樹園と化した物件、「季下に冠を正さず。」の諺じゃないけど、基本的に怪しまれて当然の行為となる。特に季節を間違えると致命的な結果をもたらしたりするんで、より一層の注意と配慮が必要になったりもする。

大久保氏館は髻山城の西北西約2.9km、成合川西岸(左岸)、標高約646mの丘陵地緩斜面上平場に立地した居館です。該地は丘陵地間を構成する、謂わゆる窪地形の底部に位置する。

該地の西側を南北に走る長野県道37号、長野信濃線は飯綱町と長野市市街地を最短距離で直接結んでいるが、旧道の方は近世の北国脇往還の裏道に殆ど準じており、坂口から地蔵久保を経て坂中峠を越えて坂中に至り、アプリの登録城、若槻山城の西麓を通って善光寺平の浅川へ抜ける。江戸時代における裏道の通行には厳しい定目が定められていたが、善光寺参りの際にはさぞかし重宝した事だろう。中世にも同様の峠越えの道筋が必ず存在した筈である。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。おいらは前述の県道脇の空地に捨てたが、それが必ずしもベストだったとはよう言い切らん。該地の特定は本来容易だけど、自分がリア攻めマップに落としたスポット位置の僅かな誤りのせいで藪漕ぎしながら崖地を下りる無駄な苦労をした。戒めとしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは大久保某です。「長野県町村誌」には、「古事詳ならず、村上氏の幕下領せしか不詳…」とあり、別に、「里俗伝に年月不詳、本村字築地に某なる者、字下窪に大久保某居住し酋長となり世々統し、永正年間(西暦1504年〜1521年)初て室飯城主島津権六郎の領に帰し、世襲すと云ふ。不詳…」とある。尤もらしい事が書かれているが、詳しい事は昔の事なんでよく判らねぃよて感ぢ?っすかね。信濃のお城の神は単に地士の屋敷跡であろうとする。

居館の現況は…耕作地、耕作放棄地、果樹園等となっている。東西の丘陵地に挟まれた南北に長い見事なまでの窪地であり、南側の一帯を「大久保」、緩い傾斜で下る北側の一帯を「下窪」と呼ぶ。町村誌が居館地とするのは「下窪」だが、信濃のお城の神は聞き込みによって「大久保」の内の2箇所を別に比定している。つまりは狭い範囲に3箇所の比定地を持つ物件な訳だが、遺構が残っている筈もなく、もはやそんなのどうでもよいとさえ思えるのただの窪地だ。

該地とその周辺一帯には今も集落が存在しない。往時もそうだったろう。居館地とするには寂し過ぎる感じがするし、窪地はむしろ隠れ住むて表現がぴったりの印象だ。そうでなければ、道押さえの屋敷か番所の類いであろうか…例えば、殿様が、「おまえにはあの辺の小山をあげる事にする。好き勝手にしてよいから、たまに通る道行く人を見張っておいておくれ。」てな感じ…おいらには想像出来る。一家総出で屋敷周りの畑地を開墾しながら時折通行人を改める地侍、大久保某の姿が…

…もはや病気なんでそっとしておいてくれ。

※怪しまれて当然の行為〜おいらは背負っていたザックを所有者に改められた事がある。誤解を解いたのは携帯に写真として入っていた縄張図だ。

※該地の上水内郡飯綱町は、「りんごの町」とも呼ばれるりんごの名産地っす。何か書くんだったら宣伝しておいてくれと近傍の方に言われたので宣伝する。通販もあるよ。

2024年06月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸山城[髻山城  周辺城郭]



丸山城は髻山城の西北西約3.7km、八蛇川南岸(右岸)、標高約690mの山間台地緩斜面上平場に立地したと推測される何かです。該地は牟礼盆地の底部に流れ込む小河川等が創造した小扇状地の扇央部に当たる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は幅員のある農道に捨てればよい。ちなみに丸山城の正確な位置はそもそも論で不明であり、Googleマップが示すピンの位置は、あくまでこの一帯に存在したであろうていう目標にしかならない。

築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「本村(志賀村)の子(北)の方にあり東西一町(約108m)南北一町回字形をなす、某の居城なりしか不詳。里俗傅に往古城主某僧となり、薬師堂を開基し之に移り、武具を近辺の地に埋め塚を築き、経文を読誦すと云。塚は本村酉(西)の方にあり、今村民之を称して経塚と云ふ。後廃城となり今耕地となる。里人該地を鑿て古城具を得ることあり。」とある。又、町村誌は里俗傅から庸堅なる僧の名を城主に挙げているがその時代は不明である。

明治時代の初頭に成立した「長野県町村誌」には城域の範囲と形状が示されており、少なくともこの時代には城跡として見える形で存在していた事が窺える。又、かつて一帯には、「大丸」、「小丸」と呼ばれる小丘が残っていたらしいが、町村誌が言う経塚とはどうやら違うようだ。

町村誌が「回字形をなす」と言っているのだから周囲に堀を巡らせた単郭方形の居館城が想起される。が、一帯は土地の構造改革によって全て平らげられてしまい遺構は完全消滅、二つの小丘の位置も既に判らなくなっている。周辺一帯は「高坂の棚田」、「夏川の棚田」と呼ばれる田圃と化し、比定出来る場所すら見出せない。従ってリア攻めはどうしようもない。

該地は現在、上水内郡飯綱町高坂に位置するが、農業集落境界データセットによると、隣接する集落に夏川がある。永禄十一年(西暦1568年)十月二日、島津孫五郎(常陸介泰忠)が武田信玄から安堵された知行地の内に、本領として、「夏川 拾八貫」、新地として、「夏川 八十弍貫」があり、夏川が戦国時代には郷村として既に存在していた事が判る。同時代において該地が何処の郷村に属していたのかは不明だが、夏川は最も有力な候補地の一つと考えてよい筈だ。何れにせよ、中世には島津氏の差配を受ける地域であり、時代にも左右されるが、丸山城と島津氏との関係性もどんな形であれ無視する事は出来ないと思われる。

該地は「丸山遺跡」として、昭和五十二年(西暦1977年)、圃場整備事業に伴う緊急発掘調査が行われている。発掘調査のメインは旧石器時代から縄文時代の遺跡と遺物であり、歴史時代のものは結果として国分時代から平安時代初期のものに限定されている。又、Googleマップのピンの位置は丸山遺跡を示す石柱の場所となっているが、少なくとも発掘調査が行われた地点では中世の遺跡や遺物は検出されていない事になる。丸山城の正確な位置を示す手掛かりは依然として田圃の地下だ。

※Googleマップのピンの位置〜信濃のお城の神が縄張図?で示した場所であり、登録者は間違い無くこれを頼りにした筈だ。ちなみに個人的な推測に過ぎないが、丸山城の位置はやや北寄り、夏川集落に近接していたように思うのだが…

※本領として、「夏川 拾八貫」、新地として、「夏川 八十弍貫」〜武田氏時代以前の夏川郷の知行人は島津泰忠だけではなかった事を示す。長沼島津氏、もしくは同氏に関わる者がその内にあった事だろう。

※リア攻め時間は30秒にも満たない。一帯の写真を4枚撮って即座に陣払い。が、該地について色んな事を調べた時間は総計で3時間を超える。書く事無いや…て思ってた口コミも気が付けば2時間弱を要していた。阿保なんでしょか。

2024年06月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)[髻山城  周辺城郭]



矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)は髻山城の北北西約3.4km、八蛇川南岸(右岸)、標高約566.6mの独立山稜、矢筒山(城山)山頂部を中心に立地する要害です。北麓の八蛇川からの比高は65m位でしょか。矢筒山は牟礼盆地のほぼ中央に位置するが、盆地は謂わゆる七沢八谷の湖底盆地であり、往古は湖沼地帯であった事が確認されている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は城域内に建つ飯綱町立飯綱病院の駐車場に捨てられる。該地は後の牟礼村に属するが、中世には太田庄黒川郷の内であったとされ、戦国時代の同郷は千貫文の下地を持つ比較的に大きな郷村であった。

築城年代は不明、築城者は長沼島津氏と推測されている。信濃島津氏は長沼と赤沼の二家が存在し、惣領的役割を担ったのが長沼島津氏である。戦国時代には、長沼島津氏が上杉氏を頼り、赤沼島津氏は武田氏方に転じている。

永禄十一年(西暦1568年)、島津孫五郎(常陸介泰忠)が武田信玄から安堵された知行地の内に、本領として、「堀廻 三十貫」、天正六年(西暦1578年)、同名が左京亮を名乗って提出した指出には、「屋敷廻 三十貫」がある。両所は同一所と考えられ、場所にあっては定かではないが、一説には矢筒城城下の内であったとも推薦されている。ちなみに泰忠が信玄によって安堵された本領が百六十八貫なのに対し、宛行われた新恩は七百七貫、長沼島津氏の旧領の一部が新恩の殆どであろうから、それ以前の長沼島津氏と赤沼島津氏の関係性も推して量れるだろう。又、常陸介の受領名は赤沼島津氏の名乗りでもある。

天正十年(西暦1582年)三月五日、直江与六(兼続)宛、竹俣房綱等連署書状案には、「御書謹而奉為拝見、任御掟、今日むれ井之地まて罷付、齋藤(朝信)、千坂(景親)相侍、御差図次第如在存間敷候、此旨宜御披露所仰候、恐々謹言、」とあり、松本左馬助房重、水原平七郎満家、新津丹波守勝資、竹俣筑後守房綱等は、甲州征伐に伴う武田氏合力のために、今日、「むれ井(牟礼)」の地に罷り越し、齋藤朝信、千坂景親を待ち、その指図によって今後は行動する旨を直江兼続に報じている。軍勢を留めた場所は矢筒城、もしくはその周辺、城下の内だったろう。ちなみに同書状は、近世以降、北国脇往還の宿場町として栄えた「牟礼」の初見である。

矢筒城は交通の要衝に立地する。律令制下の東山道支道が城下を通過すると推測される他、東西南北の各郷村から通じる間道を集める位置に当たる。近世の北国脇往還は平出から北行して城山の東側を通って牟礼宿に至り、城山の北東方には飯山道と古海道への追分を控える。城山の周辺には、「裏町」、「表町」、「居村」、「古屋敷」、「七割」、「町裏」等の中世城下町の形成を裏付ける小字が地籍として今も残り、別に牟礼宿内に立地する浄土真宗の寺院、髻山證念寺は何某かの居館跡とも伝わる。又、西南西約1.0kmの台地上には同じ髻山城のリア攻めマップにある島津氏館が位置し、城山と周辺地域一帯が長沼島津氏にとって枢要の地であった事に疑いは無い。

矢筒城は、「矢筒城館跡」として発掘調査が行われている。詳細にあっては投げっぱなしで申し訳ないけど結果報告書がネットでダウンロード出来るのでそちらを参照するとよい。城山の西側と北側は人を寄せ付けない急峻な崖地、比較的なだらかな東側と南側斜面には腰郭を多段に連ねている。又、城山の東側から南側にかけての山際には内堀と土塁が、その外側には外堀が巡っていたようだが、現在は飯綱町立飯綱病院の建設等に伴い一部分を除いて消滅、外堀の堀形を現在の町道に求めるのが精一杯だ。ちなみに南側斜面はかつて山上近くまで耕作地だった時期もあるらしい。

お城は城山公園として過去に整備されたが、現在は予算の都合なのか放棄されたに等しく城域の大部分は探索をも拒む激藪となっている。従って城山を眺めながら周辺の城館や城下町に纏わる小字地を廻る方がよっぽど面白い。丸裸にしたら結構面白い縄張だとは思うのだが…

※別称が沢山あるがこれ等に加えて室飯城とも呼ばれる。

※成り行き上、城山西側の遊歩道から取り付いたが、道筋が不明となったので西側崖地をよじ登った。四足歩行以外は受付けない斜面だし、背丈程の熊笹藪の密度が兎に角、凄まじい。遺構は腰郭ぐらいなので無理に探索する必要も無い。

※内堀と外堀の間は今も居館跡と推測されているが、発掘調査結果報告書は部分的調査に留まった事を前提に芳しい成果が得られなかった事を認めている。

※写真①は東麓の古屋敷地籍から撮影した近景っす。

※写真⑧は外堀の一部、通称三日月堀の部分を撮影したもの。段上は文中にあるとおり居館だったと推測されている。

2024年06月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
島津氏館(殿屋敷・島津権六郎屋敷)[髻山城  周辺城郭]



ちぇすとーっ!今回の口コミは島津氏のお話しっす。チート級の強さで九州のみならず朝鮮までをも席巻し、明にまで「BADASS島津」の名を轟かせた武家の超有名氏族、慶長五年(西暦1600年)九月十五日、「関ヶ原の戦い」における退き口は戦国時代最強の暴力装置(上方の義弘の人数が少ない事を聞いて畑仕事を中断、そのまま追剝を働きながら単独で上洛した犯罪者、いや、忠義者もいる。主君の事となると善悪の判断を無視して即座に行動に移すイカれた連中をリスペクト…)のみが成せる技だ。但し、信濃の地方史を中心に据えて偏りまくった歴史を勉強するおいらにとっては島津氏=信濃島津氏なんで悪しからず…

島津氏館(殿屋敷・島津権六郎屋敷)は髻山城の北西約3.3km、八蛇川西岸(左岸)、標高約537mの河岸台地上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地には「殿屋敷」の小字が今も残る。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは島津権六郎とされる。「長野県町村誌」には、「里俗屋敷と云 本村(黒川村)西南の方にあり。南北の方に空壕あり、今耕地となる。隣地に大町、中町、舞台、市之口、家老地、矢倉地等の地名あり。里俗伝に、文亀永正(西暦1501年〜1521年)の頃島津権六郎居住すと云ふ。事跡不詳。」とある。ちなみに権六郎は伝承でしか伝わらない人物だし、これを島津氏の居館跡とするはっきりとした史料も無いんだそう。

該地は水内郡太田庄に属するが、同庄と島津氏の関わりは、承久三年(西暦1221年)五月八日、惟宗(島津)左衛門尉忠久が地頭職に補任された事が最初である。遠隔地故に代官支配が推測されるが、後には一族の中から権益保証のために土着する者が現れ、島津刑部少輔はその一人とされる。太田庄は主に島津宗家と伊作家に分割相続されていたらしい。

…南北朝時代は混乱と騒乱の時代であり、足利氏による武家統治は当初から困難な舵取りを余儀なくされた。南朝方と争う一方、尊氏と舎弟、直義との間に多くの不一致を抱えていた事もその一因である。

建武三年(西暦1336年)十二月一日、金澤弥名寺長老宛、足利直義御教書案には、「当寺領信濃國太田庄内大倉郷、下総國埴生庄内山口郷、南栖立村、加賀國軽海郷、因幡國千土師郷等事、任度々寄付状幷元徳元季十二月二日下知状、可令知行給之状如件、」とあり、足利直義は太田庄大倉郷等の地頭職を金沢弥名寺に改めて安堵(北条貞顕が地頭職であったが、尼永忍の請により鎌倉幕府から金沢弥名寺に寄進されていた。)している。

ところが、建武五年(西暦1338年)正月廿四日、足利尊氏下文には、「下 嶋津判官大夫宗久 可令早領知信濃國太田庄内大倉郷金澤貞顕跡地頭職事 右人、為勲功之賞、所宛行也、早守先例可致沙汰之状如件、」とあり、足利尊氏は島津宗久に勲功の賞として太田庄大倉郷の地頭職を宛行っている。

…両頭政治による弊害だが、事の次第は、島津宗久の代官、保巣長俊が大倉郷において押領を働き、金沢弥名寺の雑掌、光信が幕府にこれを訴える事態にまで発展する。幕府はこれを裁して村上河内権守をして金沢弥名寺に大倉郷地頭職を返付させたが遵行された形跡は無い。

金沢弥名寺と島津氏による大倉郷地頭職を巡る訴訟沙汰は、延文元年(西暦1356年)八月六日、足利義詮下文によって島津宗久の実父、貞久に同郷地頭職等が安堵されるまで続く。その間、幕府の御教書、守護の施行状をもってしても下地は渡付されず、高梨氏と一揆を結んだ島津宗久跡代官等による濫妨は常態化していった。

居館の現況は耕作地、果樹園、雑木林等となっている。河岸台地東縁上に築かれているが、南辺と北辺を洗う小沢は小谷を形成しており纏まりが良い。遺構としては無きに等しいが、西辺から北辺にかけて折れを伴う堀形様の窪みが確認出来る。又、周辺には、「舞台」、「前田」の小字が残り、近傍の方の話によると、居館地から南東側の段々畑が被官衆の屋敷跡だったんだそう。月並みな言い方にはなるが、武士の住まう場所としては申し分無いように思う。

幕府が中央の権威をもってしても島津氏の違乱を停止させられなかったのは当時の複雑な時代背景による。建武政権から離反して九州に逃れた尊氏を助けたのは島津氏と少弐氏であり、島津氏は北朝方として九州の地で南朝方諸勢力と長きに亘って争っていた。後には尊氏と直義との直接的な対立もこれに影響し、決定的な処断が行われる事無く事態が推移していった事情が察せられる。島津氏は早くからの尊氏党でもあった。

※写真④は該地から撮影した同じ髻山城のリア攻めマップにある島津氏の要害城、矢筒城の遠景っす。

2024年06月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
長老山[髻山城  周辺城郭]



さて、たまにはリア攻め中にテンションと血圧がどんどん下がって思わず意識を失いそうになったりもする物件、びっくり物件でも投下しよう。真面目に探索してても最終的には阿保らしくなって陣払いするのがこれ等物件の常なんだけど、結果は判っているのに訪ねなきゃ気が済まないのも事実…「行かなきゃいいのに…」て思うかもしれないけど、お城廻りの目標を定めたおいらには避けては通れない道だ。この長老山をびっくり物件とする理由にあっては後述する。

長老山は髻山城の北西約0.9km、標高673mの丘陵頂部に立地する何かです。北麓の農道からの比高は50m位でしょか。信濃のお城の神は山名で呼ぶが、これを城砦跡とするのが憚れるからなんだろう。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…誰も行かないと思うので説明しないけど。長野国際カントリークラブから鞍部を挟んだ南方の小山が該地だ。ちなみに道形が僅かに残ってたけど、激藪過ぎるんで適当な場所から適当見当付けて適当直登した方が遥かにましだと思う。

「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載がある。信濃のお城の神の著述によると…

「この山名の由来は分からないが、明神山の項でもふれたが、平出村は往古には、現在地より西にあったようで、この山の麓に近く村があったことになる。その立地は髻山城との関係とは無縁と思われず、従って甲越戦争の際には兵火にあったのだろう。」

「…平出村の往古の位置からすると、後背の山になり、髻山の西側を越える山道がこの山の下を通過する。以上のように、この山の付近には、甲越戦争の際には、重要な間道があり要所要所には道押さえの物見などが設けられていたことが想像される。しかし、この山については、確かな史料や伝承は聞くことができない。」

…つまりは、信濃のお城の神が地勢的条件から何らかの城砦が存在したであろう事を想像し、周辺地域から適地を探し出して新たに提起した場所が該地て事になる。史料、伝承等を欠き、根拠となるものは一切存在しない。推測地にもならないだろうてのが正直なところだ。

まず、縄張図がやる気無し…国土地理院地図を拡大して手描きで起こしたのみ。特に何かを付け足す事もない。丘陵頂部は削平てか東西に長く平べったい不整形な楕円形、当たり前だが城郭遺構は何も見出せない。展望は樹木に遮られて最悪レベル、何も見えないや…

そもそも論で周辺地域一帯は丘陵地を形成しており、城砦を築くとしたら別にこの小山でなくとも構わない筈だ。長老山についてはどんなに頑張っても他に書く事が無い。敢えて付け足すなら、第三次川中島の戦い、通称「上野原の戦い」は、髻山城の周辺地域が主戦場であったと推測されている。想像を逞しくすれば、上杉勢にとってその後背地に当たる該地の平出はさぞかし騒がしかった事だろう。

「信濃の山城と館」はおいらにとって欠かす事の出来ないバイブルだ。ところが神は信者に気紛れに踏み絵を突き出す事も度々である。無視して構わないとは思うんだけど、神の軌跡を追い続けるのも信者の使命だ。人が入らなくなって久しいそこら辺の裏山を城砦跡との不確実な前提のみを頼りに探索する…もはや変態を通り越してただの異常者っすわ…

※今回の口コミはそこら辺の裏山レポートて感じ…根本的に見なくてよいっす。

※物件として信濃のお城の神に追従したのは今のところおいらだけの筈…

※この日の成果は居館1、屋敷3、色物物件2、びっくり物件2…ノーマルなめぐら〜からしたら阿保なんだろう。

※写真①は要るのか知らんけど東麓から撮影した長老山…正直言って適地とは言い難いような…

※写真④は要るのか知らんけど北東麓から撮影した長老山…正直言って何故にこの小山なのか…

2024年06月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
寨城[髻山城  周辺城郭]



たんぼ、田んぼ、田甫!はたけ、畑、畠!

夏場になるとおいらのフォトギャラリーを埋め尽くすのはこいつ等だっ!時間が経つと何処の写真なのか撮った本人にも判らなくなる悩ましい写真群、おいらの口コミ〜訪城記録が膨大なストック量を抱えたまま一向に遅々として進まない最大の原因でもある。

寨城(とりでじょう)は髻山城の北西約3.2km、八蛇川南岸(右岸)、前川北岸(左岸)、両川に挟まれた標高約570mの丘陵地上平場に立地した砦です。北麓の八蛇川からの比高は5m位でしょか。登るてよりは一段上がればよい感じ…城域の西側は後背の丘陵地上段と連続しているしね。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう、アプローチ箇所によっても変わるんで…該地の特定は割とすんなりだ。

築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「村(柳里村)の辰巳(南東)の方字明専寺にあり、要害堅固の地にして左右に川を繞らし外郭に濠井を構ひ、西は平坦にして広潤の地なり。里俗伝に養和中(西暦1181年〜1182年)木曽義仲之を築くと云ふ。確呼たらす。今只其名を称するのみにして跡地概ね耕田に就き濠井涸れて只形跡を存す。」とある…周辺地域には他にも木曽義仲に纏わる伝承地が幾つか残っている(同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある田草城等…)らしいがこれもその一つて事なんだろう。但し、おいらは当地に拠った太田庄地頭職、島津氏に関わるものであったと考えている。あくまで個人的想像に過ぎないが、荘園経営に欠かせない水源を管理する城館て位置付けがぴったりだし、そもそも論で同じ髻山城のリア攻めマップにある島津氏館の上段後背地に当たる。

城域の部分は八蛇川(乱流だったとも。)と前川の合流点に向かって東方へ張り出す舌状台地を形成しており、既にそれだけで城館として成立する。地形自体に大幅な改変はないと思われるが、台地上は水田等と化しており城郭遺構は認められない。又、町村誌の記述を見ると外郭の存在をも窺わせているが、信濃のお城の神は窪地を挟んだ南側の小丘陵、茶臼山の位置にそれを求めている。従って窪地は引水された「濠井」であったと考えるのが適当だと思う。

城域には殆ど被らないが、周辺一帯の一部は「明専寺・茶臼山遺跡」として昭和五十五年(西暦1980年)に発掘調査が行われている。発掘のメインは旧石器時代〜縄文時代の遺物であり、荘園に関わる条里遺構も検出されていない(開発は遅れていたと考えられる。)。

該地周辺には律令制下の東山道支道が通り(近世には北国脇往還が通り、北行すれば牟礼宿に至る。)、該地の西側は、現在の上水内郡信濃町柏原に建つ浄土宗本願寺派の寺院、明専寺の旧地、田圃中にはその石碑が建っている。戸隠の顕光寺と並ぶ修験道の聖地、霊仙寺へ通じる道筋は、平出から黒川を抜けて中宿を経て新井坂へ至る(逆を辿ればアプリの登録城、髻山城の西麓を通って吉へ出た後、南行して善光寺に至る。近世の北国脇往還の道筋と一部が重複する。)。この内の中宿にかつてあったのが明専寺であるが、周辺地域一帯は戦国時代、甲越が争った時期に荒廃した。

今回アップした写真を他人が見たらゴミ写真に等しいと思う。大多数の方は撮影する意義を理解出来ないだろう。で、でもちょっち待ってくれ…解ってくれとは言わないが〜♪信長の居館跡て呼ばれる水田があったら誰でも見に行くだろう。秀吉が幼少期に住んでいた納屋の跡て呼ばれる耕作地があったら皆の興味を引くだろう。こんな物件でもおいらにとっては常にそれと同義だ。

※飯綱町の埋蔵文化財としての登録が無く色物物件に近い。

※水源管理の城館〜獲った獲られたの戦国時代を考えると意外かもしれないが、中世の地頭には地域の開発領主としての側面がある(領家のためでない事は明白だが…)。善光寺平の北八幡堰は島津氏によって開削され、六ヶ郷用水の開削は和田氏から高梨氏に引き継がれた。高梨氏の城館跡は往時の堰の延長線上に築かれたものが多い事が指摘される。ちなみに島津氏には居館地から要害城(同じ髻山城のリア攻めマップにある矢筒城だ。)まで運河に舟を浮かべて登城していたて伝承が残っている。

※展望は開けておりすこぶる眺めが良い。初夏の長野県といえば安曇野市が最良と思ってたけど、最近のおいらは飯綱町や信濃町に入れ込んでいる。

2024年06月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
築地屋敷[髻山城  周辺城郭]



築地屋敷は髻山城の西北西約3.8km、八蛇川北岸(左岸)、標高約629mの丘陵地上平場に立地した屋敷です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。「長野県町村誌」には尤もらしい事が書かれているが、全て無視して一向に構わないレベルの内容だ。信濃のお城の神は単に地士の屋敷跡であろうとする。

該地は水内郡太田庄に属するが、同庄は長承三年(西暦1134年)に摂関家に寄進され荘園として成立、長く近衛家に伝領され、一時期には高陽院領であった事が記録に残る。承久三年(西暦1221年)五月八日、鎌倉幕府下知状案には、「可令早左衛門尉惟宗忠久為信濃國太田庄地頭職事、右人可為彼職之状、依仰下知如件、」とあり、惟宗左衛門尉忠久が太田庄の地頭職に補任されている。同年に発生した「承久の乱」における勲功に対する褒賞と考えられるが、同名は言わずもがなの薩摩島津氏の祖だ。

嘉元三年(西暦1305年)十一月の「薄葉景光太田庄神代郷代官職請文」によれば、太田庄地頭職、島津久長が、同庄神代郷(現長野市豊野町、地頭政所が存在し太田庄の中心地であった。)の租税の取立と運上を薄葉四郎兵衛尉景光に代官として請け負わせている。ちょとびっくりしたのは、運上が想像を超える物量であった事…四十二万枚の銭と大量の各種物産が遠隔地過ぎる薩摩へ平然と運ばれている。地頭パワー恐るべし…泣く子と地頭には勝てない訳だ。ジトハラっすわ…

屋敷の現況は…空地、一般住宅とその敷地等となっている。例によって遺構は存在しないかと思いきや、屋敷地の東辺と北辺には段が付いており、北辺には土留めの石積みが確認出来る。個人的には後世のものかとも思うんだけど、信濃のお城の神は「古式の積み方」とするのでたぶんそうなんだろう。又、名称から築地塀の現存を期待するなんてただの異常者だけど、お住まいになられていた方は意外にも高貴な方なんじゃないのかな…とかは想像出来る。

…庭先にお花の手入れをするお婆ちゃんを見留めたので突撃お宅訪問、いきなり何の疑いも持たれずに家の中へと案内される。職業が美少年で本当によかったわ…おいら的には築地屋敷の事を聞きたかったんだけど、当人にとってはどうでもよい事、話はいつの間にかにお婆ちゃんの悩み事が中心に…結構リアルでシビアな内容だったけど2時間弱をお付き合い…お茶と果物を頂いたんで…なんか殆ど聞きっぱなしだったけど、これでも慰めになったんだろうか、帰り際には「顔は覚えたからまた来なさいや。」と笑顔で送り出される。

…当日の予定は狂ったけど、おいらもほっこりした1日を送れたような気がする。血眼になって城廻りするのもよいけど、時々は立ち止まる事も必要だ。旅は人の心を成長させるなぁ…おいらはまだまだ大丈夫て事なんだろう。

※太田庄に島津氏が存在したのは、同庄の権益を保証するために一族の中から土着する者が現われた事による。詳細は長くなるので別の機会に譲るが、中世における信濃島津氏の歴史は当時の武士等のあり方を縮図として見ているようで凄く面白いんでごわす。ちなみに歴史の授業で習った「悪党」を小規模ながらも地で行く存在が信濃島津氏であったと個人的には思っているんでごわす。

※「薄葉景光太田庄神代郷代官職請文」〜長野県立歴史館に常設展示されている。

※写真⑦は要るのか知らんけど北東側農道から撮影した近景っす。

※写真⑧は該地周辺からの展望っす。築地屋敷とは水源管理のための荘園付きの屋敷だったのかもしれない。古くから開発の始まった太田庄は郷数十八、全体で田圃三百四十余町を数える大規模荘園であった。此処に移住してぇ…

2021年12月03日 かわわろ若狭守のめしこき
髻山城

このお城の城主だったという伝承が、新潟県妙高市の除戸にある願生寺さんに残っているそうです。このお寺自体も現在の真宗大谷派新井別院に元々は所在しており、教義をめぐるゴタゴタで江戸時代に越後から信濃に、ごく一部の寺宝以外は本山に取り上げられ所払いにされ(寺号も!)70年前に寺号だけは取り戻したという数奇な運命を辿った寺院です。

髻山城の周辺スポット情報

 大倉城(周辺城郭)

 若槻西条の城山(周辺城郭)

 髻山城(髻城・小城)(周辺城郭)

 三日城(周辺城郭)

 石村城(周辺城郭)

 殿屋敷(周辺城郭)

 荒古旗塚群(十三塚)(周辺城郭)

 長老山(周辺城郭)

 明神山(周辺城郭)

 島津氏館(殿屋敷・島津権六郎屋敷)(周辺城郭)

 丸山城(周辺城郭)

 高野氏館(周辺城郭)

 築地屋敷(周辺城郭)

 寨城(周辺城郭)

 矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)(周辺城郭)

 大久保氏館(周辺城郭)

 吉の小丸山城(周辺城郭)

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