築地屋敷
築地屋敷([髻山城 周辺城郭])
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築地屋敷の口コミ情報
2024年06月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
築地屋敷は髻山城の西北西約3.8km、八蛇川北岸(左岸)、標高約629mの丘陵地上平場に立地した屋敷です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。「長野県町村誌」には尤もらしい事が書かれているが、全て無視して一向に構わないレベルの内容だ。信濃のお城の神は単に地士の屋敷跡であろうとする。
該地は水内郡太田庄に属するが、同庄は長承三年(西暦1134年)に摂関家に寄進され荘園として成立、長く近衛家に伝領され、一時期には高陽院領であった事が記録に残る。承久三年(西暦1221年)五月八日、鎌倉幕府下知状案には、「可令早左衛門尉惟宗忠久為信濃國太田庄地頭職事、右人可為彼職之状、依仰下知如件、」とあり、惟宗左衛門尉忠久が太田庄の地頭職に補任されている。同年に発生した「承久の乱」における勲功に対する褒賞と考えられるが、同名は言わずもがなの薩摩島津氏の祖だ。
嘉元三年(西暦1305年)十一月の「薄葉景光太田庄神代郷代官職請文」によれば、太田庄地頭職、島津久長が、同庄神代郷(現長野市豊野町、地頭政所が存在し太田庄の中心地であった。)の租税の取立と運上を薄葉四郎兵衛尉景光に代官として請け負わせている。ちょとびっくりしたのは、運上が想像を超える物量であった事…四十二万枚の銭と大量の各種物産が遠隔地過ぎる薩摩へ平然と運ばれている。地頭パワー恐るべし…泣く子と地頭には勝てない訳だ。ジトハラっすわ…
屋敷の現況は…空地、一般住宅とその敷地等となっている。例によって遺構は存在しないかと思いきや、屋敷地の東辺と北辺には段が付いており、北辺には土留めの石積みが確認出来る。個人的には後世のものかとも思うんだけど、信濃のお城の神は「古式の積み方」とするのでたぶんそうなんだろう。又、名称から築地塀の現存を期待するなんてただの異常者だけど、お住まいになられていた方は意外にも高貴な方なんじゃないのかな…とかは想像出来る。
…庭先にお花の手入れをするお婆ちゃんを見留めたので突撃お宅訪問、いきなり何の疑いも持たれずに家の中へと案内される。職業が美少年で本当によかったわ…おいら的には築地屋敷の事を聞きたかったんだけど、当人にとってはどうでもよい事、話はいつの間にかにお婆ちゃんの悩み事が中心に…結構リアルでシビアな内容だったけど2時間弱をお付き合い…お茶と果物を頂いたんで…なんか殆ど聞きっぱなしだったけど、これでも慰めになったんだろうか、帰り際には「顔は覚えたからまた来なさいや。」と笑顔で送り出される。
…当日の予定は狂ったけど、おいらもほっこりした1日を送れたような気がする。血眼になって城廻りするのもよいけど、時々は立ち止まる事も必要だ。旅は人の心を成長させるなぁ…おいらはまだまだ大丈夫て事なんだろう。
※太田庄に島津氏が存在したのは、同庄の権益を保証するために一族の中から土着する者が現われた事による。詳細は長くなるので別の機会に譲るが、中世における信濃島津氏の歴史は当時の武士等のあり方を縮図として見ているようで凄く面白いんでごわす。ちなみに歴史の授業で習った「悪党」を小規模ながらも地で行く存在が信濃島津氏であったと個人的には思っているんでごわす。
※「薄葉景光太田庄神代郷代官職請文」〜長野県立歴史館に常設展示されている。
※写真⑦は要るのか知らんけど北東側農道から撮影した近景っす。
※写真⑧は該地周辺からの展望っす。築地屋敷とは水源管理のための荘園付きの屋敷だったのかもしれない。古くから開発の始まった太田庄は郷数十八、全体で田圃三百四十余町を数える大規模荘園であった。此処に移住してぇ…