矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)
矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)([髻山城 周辺城郭])
髻山城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)の口コミ情報
2024年06月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢筒城(福王寺要害・黒川城・牟礼城)は髻山城の北北西約3.4km、八蛇川南岸(右岸)、標高約566.6mの独立山稜、矢筒山(城山)山頂部を中心に立地する要害です。北麓の八蛇川からの比高は65m位でしょか。矢筒山は牟礼盆地のほぼ中央に位置するが、盆地は謂わゆる七沢八谷の湖底盆地であり、往古は湖沼地帯であった事が確認されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は城域内に建つ飯綱町立飯綱病院の駐車場に捨てられる。該地は後の牟礼村に属するが、中世には太田庄黒川郷の内であったとされ、戦国時代の同郷は千貫文の下地を持つ比較的に大きな郷村であった。
築城年代は不明、築城者は長沼島津氏と推測されている。信濃島津氏は長沼と赤沼の二家が存在し、惣領的役割を担ったのが長沼島津氏である。戦国時代には、長沼島津氏が上杉氏を頼り、赤沼島津氏は武田氏方に転じている。
永禄十一年(西暦1568年)、島津孫五郎(常陸介泰忠)が武田信玄から安堵された知行地の内に、本領として、「堀廻 三十貫」、天正六年(西暦1578年)、同名が左京亮を名乗って提出した指出には、「屋敷廻 三十貫」がある。両所は同一所と考えられ、場所にあっては定かではないが、一説には矢筒城城下の内であったとも推薦されている。ちなみに泰忠が信玄によって安堵された本領が百六十八貫なのに対し、宛行われた新恩は七百七貫、長沼島津氏の旧領の一部が新恩の殆どであろうから、それ以前の長沼島津氏と赤沼島津氏の関係性も推して量れるだろう。又、常陸介の受領名は赤沼島津氏の名乗りでもある。
天正十年(西暦1582年)三月五日、直江与六(兼続)宛、竹俣房綱等連署書状案には、「御書謹而奉為拝見、任御掟、今日むれ井之地まて罷付、齋藤(朝信)、千坂(景親)相侍、御差図次第如在存間敷候、此旨宜御披露所仰候、恐々謹言、」とあり、松本左馬助房重、水原平七郎満家、新津丹波守勝資、竹俣筑後守房綱等は、甲州征伐に伴う武田氏合力のために、今日、「むれ井(牟礼)」の地に罷り越し、齋藤朝信、千坂景親を待ち、その指図によって今後は行動する旨を直江兼続に報じている。軍勢を留めた場所は矢筒城、もしくはその周辺、城下の内だったろう。ちなみに同書状は、近世以降、北国脇往還の宿場町として栄えた「牟礼」の初見である。
矢筒城は交通の要衝に立地する。律令制下の東山道支道が城下を通過すると推測される他、東西南北の各郷村から通じる間道を集める位置に当たる。近世の北国脇往還は平出から北行して城山の東側を通って牟礼宿に至り、城山の北東方には飯山道と古海道への追分を控える。城山の周辺には、「裏町」、「表町」、「居村」、「古屋敷」、「七割」、「町裏」等の中世城下町の形成を裏付ける小字が地籍として今も残り、別に牟礼宿内に立地する浄土真宗の寺院、髻山證念寺は何某かの居館跡とも伝わる。又、西南西約1.0kmの台地上には同じ髻山城のリア攻めマップにある島津氏館が位置し、城山と周辺地域一帯が長沼島津氏にとって枢要の地であった事に疑いは無い。
矢筒城は、「矢筒城館跡」として発掘調査が行われている。詳細にあっては投げっぱなしで申し訳ないけど結果報告書がネットでダウンロード出来るのでそちらを参照するとよい。城山の西側と北側は人を寄せ付けない急峻な崖地、比較的なだらかな東側と南側斜面には腰郭を多段に連ねている。又、城山の東側から南側にかけての山際には内堀と土塁が、その外側には外堀が巡っていたようだが、現在は飯綱町立飯綱病院の建設等に伴い一部分を除いて消滅、外堀の堀形を現在の町道に求めるのが精一杯だ。ちなみに南側斜面はかつて山上近くまで耕作地だった時期もあるらしい。
お城は城山公園として過去に整備されたが、現在は予算の都合なのか放棄されたに等しく城域の大部分は探索をも拒む激藪となっている。従って城山を眺めながら周辺の城館や城下町に纏わる小字地を廻る方がよっぽど面白い。丸裸にしたら結構面白い縄張だとは思うのだが…
※別称が沢山あるがこれ等に加えて室飯城とも呼ばれる。
※成り行き上、城山西側の遊歩道から取り付いたが、道筋が不明となったので西側崖地をよじ登った。四足歩行以外は受付けない斜面だし、背丈程の熊笹藪の密度が兎に角、凄まじい。遺構は腰郭ぐらいなので無理に探索する必要も無い。
※内堀と外堀の間は今も居館跡と推測されているが、発掘調査結果報告書は部分的調査に留まった事を前提に芳しい成果が得られなかった事を認めている。
※写真①は東麓の古屋敷地籍から撮影した近景っす。
※写真⑧は外堀の一部、通称三日月堀の部分を撮影したもの。段上は文中にあるとおり居館だったと推測されている。