大倉城
大倉城([髻山城 周辺城郭])
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大倉城の口コミ情報
2025年01月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
大倉城は髻山城城の東北東約3.8km、嘉児加川南岸(右岸)、鳥居川北岸(左岸)、上水内郡飯綱町三水地区の高原台地から両川に挟まれて東方へ向かって長く張り出す尾根端部上、標高461.3mの小ピーク、通称、大倉城山を中心に立地する要害です。南麓の国道18号からの比高は90m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。東麓には案内板が立っているし車も捨てられる。登城は凄く楽ちん、はぁはぁする前に城域に辿り着く。
該地の大倉は、近世の川東道の道筋に準ずる中世の古道が飯綱町三水地区の台地上から千曲川の左岸地域へ下りる場所である。広く見れば越後へ抜ける横道の関門の地でもあり、謂わゆる「河西通路」の要衝の一つである。
伝承によれば、築城年代は文治元年(西暦1185年)、築城者は信濃守、小笠原長清の九男、大倉与一郎長隆(十二男、与一長澄の事とも。)である。長隆の子に四郎清隆、五郎隆家があり、清隆の子、弥四郎隆綱の代までは大倉郷に在地し、平地の権太夫屋敷に居していたらしい。
大倉郷が属する水内郡太田庄は、承久三年(西暦1221年)五月八日、惟宗左衛門尉忠久(島津氏高祖である。)が地頭職に補任されている。その後の大倉郷は隣接する石村郷と共に鎌倉幕府執権、北条氏の一族、北条(金沢)貞顕(十日執権で知られる。)が地頭となり、延慶三年(西暦1310年)正月廿二日には、貞顕の養母、尼永忍(谷殿)の請いに任せて金沢称名寺に地頭職が寄進されている。
大倉郷は島津氏が違乱を働き下地を押領、金沢称名寺は幕府にこれを訴えたが、幕府の御教書、守護の施行状をもってしても下地は渡付されず、延文元年(西暦1356年)八月六日、足利義詮下文によって島津宗久の実父、貞久に同郷地頭職等が安堵されるまで訴訟沙汰は続く。
弘治三年(西暦1557年)二月十六日、色部彌三郎(勝長)宛、長尾景虎書状案には、「依之島津(月下斎忠直)方も大蔵之地へ先以被相移候、」との記述がある。書状全体の内容は、長尾景虎が揚北衆の色部勝長に、アプリの登録城、葛山城落去に伴う出陣と対応策を示したものだが、書状の中で景虎は、アプリの登録城、長沼城にあったと推測される島津忠直をまず先に大蔵の地へ相移すようにと指図している。
信長公記には、「四月五日、森勝蔵(長可)川中島海津に致在城、稲葉彦六(貞通)飯山に張陣候處、一揆令蜂起、飯山を取巻之由注進候、則稲葉勘右衛門(重通)、稲葉刑部、稲葉彦一、國枝(頼母)、是等を為御加勢飯山へさし被遣、三位中将(織田)信忠卿より、團平八(忠正)是又被差越、然而御敵山中へ引籠、大蔵之古城拵、いも川(芋川親正)と云者一揆致大将楯籠、四月七日、御敵長沼口へ八千許にて相働候、則森勝蔵懸付、見合、瞳と切懸り、七八里之間追討に千貳百餘討捕、大蔵之古城にて女童千余切捨、以上頸数貳千四百五十余有、此式候間、飯山取詰候人数勿論引拂、飯山請取、森勝蔵人数入置、稲葉彦六御本陣諏訪へ帰陣、稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、國枝、江州安土へ帰陣仕、右之趣言上也、森勝蔵山中へ日々相働、所々之人質取固、百姓共還住被申付、粉骨無是非様躰也、」とあり、川中島四郡を差配する森長可に対して一揆を起こした芋川親正が立て籠った城として「大蔵之古城」が登場する。
お城は素敵なんすよ。皆さんに是非とも訪ねて頂きたい物件なんで多くを語らない事にするけど、連郭式の妙と堀切+竪堀には誰でも感動する事間違い無し。ぽこぽこ、ぽこりんが最高なんだから。特に主郭西側山側背後の大堀切(阿保レベル…)2条を含む5連続堀切なんて開いた口が塞がらない感じ…このお城の大堀切はジレ堀ではあるんだけど、上巾よりも切岸の角度と深さが際立っているんで見ていて実に気持ちが良い。あ、ジレ堀…聞いた事無いっすか?生で見ると凄いけど写真に撮るとどうにもイケてない堀切、ジレンマ堀切の事っすわ…
色物物件をリア攻めした帰りに心の安定を求めて足を運ぶのがこの大倉城、たぶん訪問は今回で7回目の筈…ベンチもあるし景色が良いのでおにぎりを食べによく来ている。
※夏場は肝心の部分が藪に覆われるので冬場に訪ねよう。印象すら変わると思う。ちなみに城域の東端部は採土によって失われているようだ。
※長沼島津氏時代に長沼城の詰城であったとも推測されているが無理があると思う。ちなみに武田氏時代には放棄されていた筈だ。
※「信長公記」の記述にあるとおり、過去には凄惨な殺戮の場ともなった要害である。
※大倉氏〜後のホテルオークラで有名な大倉財閥の創始者、大倉喜八郎は、越後新発田へ移り住んだ同氏一族の後裔を自認する。