島津氏館(殿屋敷・島津権六郎屋敷)
島津氏館(殿屋敷・島津権六郎屋敷)([髻山城 周辺城郭])
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島津氏館(殿屋敷・島津権六郎屋敷)の口コミ情報
2024年06月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
ちぇすとーっ!今回の口コミは島津氏のお話しっす。チート級の強さで九州のみならず朝鮮までをも席巻し、明にまで「BADASS島津」の名を轟かせた武家の超有名氏族、慶長五年(西暦1600年)九月十五日、「関ヶ原の戦い」における退き口は戦国時代最強の暴力装置(上方の義弘の人数が少ない事を聞いて畑仕事を中断、そのまま追剝を働きながら単独で上洛した犯罪者、いや、忠義者もいる。主君の事となると善悪の判断を無視して即座に行動に移すイカれた連中をリスペクト…)のみが成せる技だ。但し、信濃の地方史を中心に据えて偏りまくった歴史を勉強するおいらにとっては島津氏=信濃島津氏なんで悪しからず…
島津氏館(殿屋敷・島津権六郎屋敷)は髻山城の北西約3.3km、八蛇川西岸(左岸)、標高約537mの河岸台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地には「殿屋敷」の小字が今も残る。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは島津権六郎とされる。「長野県町村誌」には、「里俗屋敷と云 本村(黒川村)西南の方にあり。南北の方に空壕あり、今耕地となる。隣地に大町、中町、舞台、市之口、家老地、矢倉地等の地名あり。里俗伝に、文亀永正(西暦1501年〜1521年)の頃島津権六郎居住すと云ふ。事跡不詳。」とある。ちなみに権六郎は伝承でしか伝わらない人物だし、これを島津氏の居館跡とするはっきりとした史料も無いんだそう。
該地は水内郡太田庄に属するが、同庄と島津氏の関わりは、承久三年(西暦1221年)五月八日、惟宗(島津)左衛門尉忠久が地頭職に補任された事が最初である。遠隔地故に代官支配が推測されるが、後には一族の中から権益保証のために土着する者が現れ、島津刑部少輔はその一人とされる。太田庄は主に島津宗家と伊作家に分割相続されていたらしい。
…南北朝時代は混乱と騒乱の時代であり、足利氏による武家統治は当初から困難な舵取りを余儀なくされた。南朝方と争う一方、尊氏と舎弟、直義との間に多くの不一致を抱えていた事もその一因である。
建武三年(西暦1336年)十二月一日、金澤弥名寺長老宛、足利直義御教書案には、「当寺領信濃國太田庄内大倉郷、下総國埴生庄内山口郷、南栖立村、加賀國軽海郷、因幡國千土師郷等事、任度々寄付状幷元徳元季十二月二日下知状、可令知行給之状如件、」とあり、足利直義は太田庄大倉郷等の地頭職を金沢弥名寺に改めて安堵(北条貞顕が地頭職であったが、尼永忍の請により鎌倉幕府から金沢弥名寺に寄進されていた。)している。
ところが、建武五年(西暦1338年)正月廿四日、足利尊氏下文には、「下 嶋津判官大夫宗久 可令早領知信濃國太田庄内大倉郷金澤貞顕跡地頭職事 右人、為勲功之賞、所宛行也、早守先例可致沙汰之状如件、」とあり、足利尊氏は島津宗久に勲功の賞として太田庄大倉郷の地頭職を宛行っている。
…両頭政治による弊害だが、事の次第は、島津宗久の代官、保巣長俊が大倉郷において押領を働き、金沢弥名寺の雑掌、光信が幕府にこれを訴える事態にまで発展する。幕府はこれを裁して村上河内権守をして金沢弥名寺に大倉郷地頭職を返付させたが遵行された形跡は無い。
金沢弥名寺と島津氏による大倉郷地頭職を巡る訴訟沙汰は、延文元年(西暦1356年)八月六日、足利義詮下文によって島津宗久の実父、貞久に同郷地頭職等が安堵されるまで続く。その間、幕府の御教書、守護の施行状をもってしても下地は渡付されず、高梨氏と一揆を結んだ島津宗久跡代官等による濫妨は常態化していった。
居館の現況は耕作地、果樹園、雑木林等となっている。河岸台地東縁上に築かれているが、南辺と北辺を洗う小沢は小谷を形成しており纏まりが良い。遺構としては無きに等しいが、西辺から北辺にかけて折れを伴う堀形様の窪みが確認出来る。又、周辺には、「舞台」、「前田」の小字が残り、近傍の方の話によると、居館地から南東側の段々畑が被官衆の屋敷跡だったんだそう。月並みな言い方にはなるが、武士の住まう場所としては申し分無いように思う。
幕府が中央の権威をもってしても島津氏の違乱を停止させられなかったのは当時の複雑な時代背景による。建武政権から離反して九州に逃れた尊氏を助けたのは島津氏と少弐氏であり、島津氏は北朝方として九州の地で南朝方諸勢力と長きに亘って争っていた。後には尊氏と直義との直接的な対立もこれに影響し、決定的な処断が行われる事無く事態が推移していった事情が察せられる。島津氏は早くからの尊氏党でもあった。
※写真④は該地から撮影した同じ髻山城のリア攻めマップにある島津氏の要害城、矢筒城の遠景っす。