丸山城
丸山城([髻山城 周辺城郭])
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丸山城の口コミ情報
2024年06月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸山城は髻山城の西北西約3.7km、八蛇川南岸(右岸)、標高約690mの山間台地緩斜面上平場に立地したと推測される何かです。該地は牟礼盆地の底部に流れ込む小河川等が創造した小扇状地の扇央部に当たる。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は幅員のある農道に捨てればよい。ちなみに丸山城の正確な位置はそもそも論で不明であり、Googleマップが示すピンの位置は、あくまでこの一帯に存在したであろうていう目標にしかならない。
築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「本村(志賀村)の子(北)の方にあり東西一町(約108m)南北一町回字形をなす、某の居城なりしか不詳。里俗傅に往古城主某僧となり、薬師堂を開基し之に移り、武具を近辺の地に埋め塚を築き、経文を読誦すと云。塚は本村酉(西)の方にあり、今村民之を称して経塚と云ふ。後廃城となり今耕地となる。里人該地を鑿て古城具を得ることあり。」とある。又、町村誌は里俗傅から庸堅なる僧の名を城主に挙げているがその時代は不明である。
明治時代の初頭に成立した「長野県町村誌」には城域の範囲と形状が示されており、少なくともこの時代には城跡として見える形で存在していた事が窺える。又、かつて一帯には、「大丸」、「小丸」と呼ばれる小丘が残っていたらしいが、町村誌が言う経塚とはどうやら違うようだ。
町村誌が「回字形をなす」と言っているのだから周囲に堀を巡らせた単郭方形の居館城が想起される。が、一帯は土地の構造改革によって全て平らげられてしまい遺構は完全消滅、二つの小丘の位置も既に判らなくなっている。周辺一帯は「高坂の棚田」、「夏川の棚田」と呼ばれる田圃と化し、比定出来る場所すら見出せない。従ってリア攻めはどうしようもない。
該地は現在、上水内郡飯綱町高坂に位置するが、農業集落境界データセットによると、隣接する集落に夏川がある。永禄十一年(西暦1568年)十月二日、島津孫五郎(常陸介泰忠)が武田信玄から安堵された知行地の内に、本領として、「夏川 拾八貫」、新地として、「夏川 八十弍貫」があり、夏川が戦国時代には郷村として既に存在していた事が判る。同時代において該地が何処の郷村に属していたのかは不明だが、夏川は最も有力な候補地の一つと考えてよい筈だ。何れにせよ、中世には島津氏の差配を受ける地域であり、時代にも左右されるが、丸山城と島津氏との関係性もどんな形であれ無視する事は出来ないと思われる。
該地は「丸山遺跡」として、昭和五十二年(西暦1977年)、圃場整備事業に伴う緊急発掘調査が行われている。発掘調査のメインは旧石器時代から縄文時代の遺跡と遺物であり、歴史時代のものは結果として国分時代から平安時代初期のものに限定されている。又、Googleマップのピンの位置は丸山遺跡を示す石柱の場所となっているが、少なくとも発掘調査が行われた地点では中世の遺跡や遺物は検出されていない事になる。丸山城の正確な位置を示す手掛かりは依然として田圃の地下だ。
※Googleマップのピンの位置〜信濃のお城の神が縄張図?で示した場所であり、登録者は間違い無くこれを頼りにした筈だ。ちなみに個人的な推測に過ぎないが、丸山城の位置はやや北寄り、夏川集落に近接していたように思うのだが…
※本領として、「夏川 拾八貫」、新地として、「夏川 八十弍貫」〜武田氏時代以前の夏川郷の知行人は島津泰忠だけではなかった事を示す。長沼島津氏、もしくは同氏に関わる者がその内にあった事だろう。
※リア攻め時間は30秒にも満たない。一帯の写真を4枚撮って即座に陣払い。が、該地について色んな事を調べた時間は総計で3時間を超える。書く事無いや…て思ってた口コミも気が付けば2時間弱を要していた。阿保なんでしょか。