若槻西条の城山
若槻西条の城山([髻山城 周辺城郭])
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若槻西条の城山の口コミ情報
2024年06月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
若槻西条の城山は髻山城の南方約1.0km、隈取川東岸(左岸)、標高744.4mの髻山山頂から南方へ伸びる支尾根中段上、標高612mの小ピークを中心に立地する何かです。南麓の諏訪神社からの比高は170m位でしょか。南東麓には近世の北国脇往還が山際を南北に通り、山稜を東麓から登る兎沢沿いの道筋は、番場原を抜けて観音清水を経て、最終的には髻山山頂、髻山城に至る。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…誰も行かないと思うんで説明しないけど、前述の兎沢沿いの道筋は該地付近まで車両通行が可能な林道となっている。車で登れば殆ど横付け出来る。
まず、色物物件である。「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があり、信濃のお城の神は「村誌よしむら」の記述から該地を特定し調査に入ったようだ。「城山」の地名が残っているのだから、山稜を山城の跡と考えるのは至極当然の話だろう。
第三次川中島の戦い、通称、「上野原の戦い」は髻山城の周辺が戦いの場と推測されており、長尾勢は同城からこの城山の山稜東側を流れる宇佐美(兎)沢沿いに陣を敷いたとも推測されている。これを鑑みれば、城山は長尾勢によって築かれた陣城の類いて事になるが、残念な事に城郭遺構は見出せず、後世の耕作の跡を除けば殆ど地山である。
兎沢の流れは山塊に深い谷筋を形成し、該当尾根は比較的に急峻ではあるが、登ってしまえばなだらかな丘陵地様地形の連続となり、山頂が一体何処になるのかさえも判り難い。城山の北側は狭小な窪地形となっており、廃家屋1軒、座屈した家屋1軒がそのまま時を刻んでいる。耕作の跡に加えて溜池もそのまま残されており、山中には近年までの生活の痕跡が窺える。
全体的にはファジー過ぎて城域の判定すらままならない。縄張をはっきりとした形で想像する事が出来ない難し過ぎる物件だ。城山山頂を狼煙の場、物見の場とし、なだらかな丘陵地様地形の窪地に人数を入れたものだと考えられるがどうなんだろう。周辺地形をフル活用した一時的な陣城だったとすれば、城山の範囲を更に広く捉える事によって往時の姿が想像し易くなるとは思うのだが…ちなみに位置関係から髻山城の支城である…とか阿保な事は考えない方がよい。
前述した事は現地を実際に訪ねて感じた個人的推測に過ぎない。そもそも論でその存在さえ疑われる非常に悩ましい物件だ。色物物件とは常にそうした物件である事を覚悟すべし。基本的には実像無く地名だけが永遠に残り続ける結果となる。
二度と訪ねる事は無いだろう。この手の物件に再訪はあり得ない。それ故に探索も自分が納得出来る形にはしておきたいものだ。阿保かと思われるかもしれないが、リア攻め時間は1時間30分弱、そこら辺のただの裏山を彷徨う山城廃人…家路は遠いのにすっかり日も暮れてきた感じがする…もう昔の自分には戻れねぇっす…
あ、口コミは変態が勝手に山に入って勝手な事を言っているだけの内容なんで悪しからず…城山も迷惑千万だろう、すまん。
※若槻西条〜中世には若槻庄を構成する本郷の一つであった。ちなみに現在も残る地名だが、紆余曲折を経て若槻東条よりも東方に位置している。
※信濃のお城の神が描いた縄張図は全くやる気が感じられない。
※写真⑧は城山の北東側に残る窪地形、文中でも少し触れたが、上杉勢ともなればそれなりの人数なのだから、こうした場所が陣城として占地されたんじゃないかて個人的には考えている。ちなみにこの窪地から髻山城までの距離は約0.6kmでしかない(小城までは約0.4kmである。)。