福島正則館(ふくしままさのりやかた)

福島正則館の基本情報

通称・別名

福島館、福島正則屋敷

所在地

長野県上高井郡高山村高井八幡添195-イ

旧国名

信濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

福島正則

築城年

江戸時代前期

主な改修者

主な城主

福島氏

廃城年

遺構

土塁

指定文化財

県史跡(福島正則屋敷跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

長沼城(長野県長野市)[6.9km]
井上城(長野県須坂市)[7.3km]
中野陣屋(長野県中野市)[9.0km]
高梨氏城館(長野県中野市)[9.1km]
内堀館(長野県中野市)[9.7km]
髻山城(長野県長野市)[11.1km]
若槻山城(長野県長野市)[12.6km]
霞城(長野県長野市)[13.8km]
横山城(長野県長野市)[13.9km]
尼厳城(長野県長野市)[15.2km]

福島正則館の解説文



福島正則屋敷跡(ふくしままさのりやしきあと)は、長野県上高井郡高山村にある史跡。長野県史跡に指定されている。元和5年(1619年)、安芸・備後両国の大名福島正則が広島城の無断普請を理由に領地を没収され、この地に転封を命じられて居住した所である。高井野藩4万5千石(後に2万5千石を返上)の藩庁が置かれた。

概要 

屋敷は103m×70mの方形単郭の平城であったが、東北隅に高さ5mの土塁が残存するのみで、屋敷跡の中央には高井山高井寺(たかいさんこうせいじ)が建っている。[1]

現存する石垣は、安政年間(1854-1860)に高井寺が土塁や空堀を壊して修築の手を加えたものであり、往時の面影はない。

高井寺には、福島正則の遺品として肖像画、槍先、仏舎利、掛軸(正則の高井野での功績をたたえた絵伝)が伝えられている。

福島正則屋敷跡  昭和四十一年三月三十一日指定   長野県教育委員会 一、この旧館跡は東西五十七間半(約一〇四.五米)南北四十間(約七二.七米)面積七反六畝(約七十六アール)あり、四方に高土壘を築き壘の外に空濠を廻らしてあった。 現在東北隅に高さ約二米、長さ約十九米の土壘が残存している。 一、正則は元和五年(一六一九)六月城地没収となり、上高井郡二万石、越後魚沼郡二万五千石併せて四万五千石の捨扶持を与えられ高井野の地に住居を定めたのである。 一、正則の在館年数はわずか数年であったが、領内の検地を行い、高井野原の用水堰を開き、松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に尽くした功績が大きい。 一、寛永元年(一六二四)七月十三日六十四歳で病死した。 正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしたが、故あって位牌は領内雁田小布施の岩松院に納められ廟所も同寺境内に設けられた。  昭和四十一年三月   高山村教育委員会

正則公供養塔 

寺内には安政2年(1855)に建立された正則公の供養塔がある。碑文は、「海福院殿前三品相公月翁正印大居士」。

所在地 

長野県上高井郡高山村大字高井堀之内

交通アクセス 

  • JR長野駅 長野電鉄長野駅から須坂駅、長電バス堀之内下車、徒歩3分

周辺観光スポット 

  • 福島正則荼毘所跡
  • 正則公霊廟(岩松院)
  • 信州高山温泉郷
  • 山田温泉キッズスノーパーク(山田温泉スキー場)
  • YAMABOKUワイルドスノーパーク(山田牧場スキー場)
  • 山田温泉
  • 五色温泉
  • 七味温泉
  • 松川渓谷
  • 雷滝
  • 八滝
  • 高山村五大桜 シダレザクラ(枝垂れ桜)(村内各地)
  • 歴史公園信州高山一茶ゆかりの里一茶館

参考文献 

  • 『自然と人のふれあう村-信州高山村の歴史と風土-』(龍風書房、1997年)
  • 『高山村村誌(歴史編)』(高山村村誌刊行会、2005年)

福島正則館の口コミ情報

2022年06月21日 右近衛中将かげちゃんⅢ号
米子瀧山不動寺[福島正則館  寺社・史跡]

米子瀧山不動寺(米子不動尊)
須坂市にある真言宗のお寺さんです。
奈良時代に行基上人(菩薩?)が、米子大瀑布のそばに庵を建てたのが始まりで、戦国時代に謙信公が第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)の時に持参していた不動明王像を寄進したのを機に不動寺になったそうです。で、不動寺の御住職が、真田氏の末裔らしいです。御住職が不在だったので確認してません。御朱印は、寺務所(?)のお守り売り場のインターフォンを押してお願いすれば、対応してくださいます。

2022年05月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
古城[福島正則館  周辺城郭]



古城は福島正則館の南西約2.4km、標高約982mの明覚山西方、標高759.1mのピークから西方へ延びる山塊尾根上、標高約677mのピークの一つに主郭が存します。北麓の須坂温泉からの比高は280m位でしょか。

行き方は複数ありますが、「坂田山・共生の森」でネットを検索するとルートマップを入手出来るのでそれ見て下さい。自分は同じ福島正則館のリア攻めマップにある雨引城から軽い気持ちで縦走しましたが、急登や鎖の岩場等もあるアップダウンを繰り返すのでやめときましょう、距離もあるし凄く面倒っす。折角灰野峠に車を捨てて雨引城の存する明覚山には楽に行けたものを、結果として明覚山→坂田山→大谷山→柏木平の峰→古城→大星の峰→和合峠→桃山→鎌田山て感じのフル縦走になってしまい、帰りにはタクシーを呼んで車を取りに行くはめに…約4kmの山歩きを楽しめる人は楽しめるんでしょう。

築城年代は不明ですが、築城者は須田氏です。須田氏初期の要害と推測されていますが、実際に現地を訪ねると疑問を感じます。むしろ分裂した大岩須田氏が武田方の須田惣領家を監視する目的で築かれた物見台の印象、もしくは二次利用、古城と称しながら存続期間は多く見積もっても天文二十四年(西暦1555年)から永禄二年(西暦1559年)までの僅かな期間のような気がします。古城東側山側背後、一段高い尾根筋の弛みは「のぞき」の地名が残りますが、此処から見える景色は須田惣領家の本城、須田城を中心に捉えています。

お城は完全単郭、主郭東側山側背後は二連続堀切、土橋様地形を経てフェードアウト、主郭西側正面には堀切が1条残ります。小粒ではありますがそれなりに…ただ信濃のお城の神が描いた縄張図における通称3郭を城域とするには少し無理があるように思いやす。

このお城、ネットで検索してもその名称故か全くヒットしないのですが、実際にもお城マニアからは敬遠されていると思います。苦労対効果が非常に悪い。縄張図は薄い上にたぶんどのルートから登っても面倒なのがその理由でしょう、当然単独目標としても成立し難い。須田氏関連の城館コンプリートを目指す方は是非、訪ねてみれば楽しめるとは思います。

※井上城のリア攻めマップに須田古城の名称で須田城がスポット登録されています。が、実際には須田の古城はこちらが正解です。須坂市の捉え方が問題…

2022年05月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
雨引城[福島正則館  周辺城郭]



雨引城は福島正則館の南方約2.0km、標高958mの明覚山山頂部(このお山、山頂とは別に標高982mの最高点がある。)に主郭が存します。南麓の奈良川からの比高は430m位でしょか。

行き方は複数ありますが、最も簡単なのは東方の灰野峠まで林道を車で登りこの峠に立つ案内板からお城を目指すものです。林道の入口はGoogleマップに位置登録されている東南方、明覚山山塊中腹にある弁天さんのしだれ桜を目標に設定して下さい。このルートからだと徒歩で登る比高は130m位になります。ちなみに同じ福島正則館のリア攻めマップにある明覚山北東尾根に存する月生城、北西尾根に存する大岩城からも行けますが、猿山だし尾根筋は大変厳しいらしいのでやめときましょう。

築城年代は不明ですが、築城者は須田氏です。須田氏は戦国時代に生き残りを賭けたのか須田郷を本領とする惣領家と大岩郷を本領とする大岩須田氏に分裂します。前者は武田氏に、後者は上杉氏に随身しますが、伝領された地を保つという点においては結果的にどちらも失敗しました。お城自体は大岩須田氏の持分と考えられ、第二次川中島の戦いの際の和睦の条件の一つであった同氏の旧領復帰の僅かな期間にも機能していたと思われます。

お城は山頂から派生する東西に延びる急峻な尾根稜線上に築かれ(東西に長い縄張である。)、明覚山山塊山中を南北に抜ける東方の灰野峠道を監視下に置いています。要所を堀切で遮断、竪堀が目立たないのは急峻故でしょか。主郭は改変も含んでいるとは思いますが、主郭東側正面の愛らしい二重堀切のぷちぽこ感は幸せな気分にさせてくれるのに充分です。

灰野峠道は上杉勢が川中島の戦いの際に利用した通称謙信道と呼ばれる軍道でもありました。第三次川中島の戦いの際に大岩郷の北方、雁田山系山塊南東麓に位置する東条山田荘の領主、原左京亮は武田氏に通じ、大岩郷の大岩須田氏と上杉氏との連絡が不安定となります。上杉勢は左京亮の要害、山田城、更には須田惣領家が城代を勤める武田氏の拠点、福島城を屠り善光寺平の旭山城に本陣を置きますが、大岩須田氏を始めとする周辺の国人領主等に義理を果たしたとも言えるんでしょう。調略においては信玄に及ぶべくもない謙信ですが、利害関係の一致が当初からあったとはいえ北信の国人領主等に頼りにされたのも至極当然だったと思います。

2022年05月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
亀倉城[福島正則館  周辺城郭]



亀倉城は福島正則館の南方約5.8km、米子川南岸(左岸)、北西へ延びる山塊尾根上、標高約729mのピークの一つに主郭が存します。北西麓の萬龍寺からの比高は115m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。前述の萬龍寺付近から養蚕神社、金毘羅神社てのに至る参道が付いているのでこれを登ります。お城は金毘羅神社を過ぎた展望台(木製ベンチのみ…)のあるピークが主郭となっています。

築城年代、築城者は不明です。てかお城に関する情報は皆無でして、信濃のお城の神本(信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編)にも記載が無く、今のところは須坂市誌・歴史編に記載があるのみとなっています。たぶんこれ以外での紹介例としては城友さん作成のGoogleマップのみで、あらゆる媒体において初となると思います。

お城は城域の判定に悩みます。改変されているとはいえ、前述の養蚕神社、金毘羅神社辺りから既に始まっているように感じます。削平されているのみで明確な城郭遺構は見出せないのですが…しっかりとした遺構としては主郭西側正面に堀切が1条、城域東端部に堀切1条が設けられています。又、お城にはびっくりする事にお手製の2枚の説明板が立っていて、それぞれ「城跡」、「堀跡」と書かれています。が、お城の名称が書かれたものは無く須坂市誌に記載される以前にはそれすら無かったと思います。

物見台規模の縄張ですが、周辺諸城を見渡せるロケーション(須田城なんかも眺められる。)は素晴らしく立地としては最適だったと考えます。上州へ抜ける仙仁の大笹道口に当たり、特に南北朝時代には関東から信濃を抜けて上方に至る重要な地域の一つでありました。

お城(展望台)へは登りに使う急坂ルートと下山に使う巻き気味の楽ちんルートが設定されています。急坂ルートを下山に使うと足元が危ない事がその理由だと思いますが、楽ちんルートの獣柵ゲートがゴム式の開閉方式を採用しています。つまり開けるとゴムが「びよよょょ〜ん」て伸びてほっといても自動で閉まるのですが、こんなん初めて見たわ…結構ゴムパッチンばりに勢いよく閉まるので挟まれ注意ですw

2022年03月12日 丸
福島正則公遺蹟碑[福島正則館  碑・説明板]

改易された際、須坂藩二代藩主堀直升の配慮で仮寓した寿泉院に建立されています。高井野に移ったのは嫡男の忠勝が亡くなった後のことで、それまでは須坂藩の館に近いこちらにいたように書かれています。

2021年06月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
米子城-1[福島正則館  周辺城郭]



米子城-1は福島正則館の南方約4.7km、東西に延びる蓑堂山山塊尾根上、標高627mのピークの一つに主郭が存します。西北麓からの比高は90m位でしょか。別称で西の城とも。

行き方は…誰も行かないと思うし、目標が無いのでとりまパス。赤色立体図を見れば一目瞭然ですが、山側を除けば独立して平野部に尾根が延びているので尾根末端から獣柵ゲートを開けて直登して下さい。が、このゲート回転する閂でロックされるのですが、回転させると電流線に直撃します。電流が流れているか否かは運次第となります。

何でも伯奢にも同名の米子城があるらしいのですが、信濃の米子城は1〜3まであるのでこっちの勝ちですかね。伯奢の方は石垣が大変立派らしいですが、こっちは岩場というか岩盤層が凶悪に露出する登城路?なんで必要無いです。わざわざ無理して比べるまでもないですね…悲しくなるのでやめましょう。

築城年代、築城者は不明ですが、南北朝時代の観応三年(西暦1352年)、米子城に尊氏方の小笠原為経に属した佐藤元清が立て籠り、京都を脱した直義方の諏訪直頼を撃退、更に押し寄せて来た村上勢をも撃退する合戦があった事を伝える記録が残ります。又、この際に須田入(入氏)又四郎なる在地国人領主の須田氏の一族の者が奮戦したそうです。が、今に残る米子城がこの時既に存していたのか、観応時代の米子城と同一視してよいものなのかは難しいところです。

米子城-1は戦国時代にも改修が施され利用が続けられていたと考えられ、我々が想像する山城として間違いは無いのですが、2と3は自然地形以外に見出せるものが殆どありません。2と3とはただ単に物見が置かれた場所だったという事だと純粋に感じました。米子城-1で圧倒されるのは尾根末端から主郭に至るまでの登城路?で、突飛な巨石と垂直の岩盤層(後世に石丁場だったのかな?矢穴の残る巨石が散見される…)が連続するその尾根筋ときたら…思わず進退極まります。何とかトラバースしてやり過ごしましたが、比高がそんなに無いからと言って舐めて掛かると痛い目に遭うでしょう。

※米子城-2と3は凄く暇な時にでも紹介します。

2021年05月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
二十端城[福島正則館  周辺城郭]



二十端城(つつはたじょう)は福島正則館の北西約4.1km、標高786.6mの屠屋場山から北西へ延びる尾根上、標高544mのピークの一つに主郭が存します。北西麓の長野県道358号線からの比高は210m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北西麓の小布施霊園を目標に設定して下さい。丁度この場所は県道を挟んで北西尾根の末端下となります。ただ獣柵がぐるりと尾根末端を囲んでいますので、霊園に車を捨てたら100m位県道を南下し獣柵の途切れた所から直登して下さい。いきなり藪からスタートして悲しくなったりしますが、上へ登るに連れて藪は消えていくので最初だけ頑張りましょう。

築城年代は不明ですが、築城者として在地土豪の萩野氏が推測されています。この地域に高梨氏の勢力が伸張すると雁田小城、雁田大城、滝ノ入城と共に高梨氏支配領域の南端を守る城砦群の一つとして整備されていたようです。

お城は素晴らしいです。そして全国的に見ても珍しい縄張を持っています。二十端とは幾重にも山が連なる事を意味し、尾根上に総延長で約1.5km、尾根端部から屠屋場山山頂に存する滝ノ入城まで遺構が残ります。とても在地の一土豪の築城レベルとは考えられないので、やはり高梨氏による拡張、改修と考えるのが自然でしょう。

信濃のお城の神はこのお城をAからEまでのブロックに分けて解説しています。お城の主郭は通称Cブロックに存していると考えられ、城域全体は堀切、竪堀、段郭等が急斜面を除いて間断無く設けられている印象です。細かな説明は省きますが、登城した方は時間や苦労を忘れて最終ブロックに到達する事でしょう。

同じ福島正則館のリア攻めマップにある滝ノ入城でも口コミしましたが、確実に熊さんの棲むお山であります。自分はちんどん屋も真っ青な騒音を鳴らしながら登城、保険に熊除けスプレー(1年位前に買ったんだけど、風向きによっては自分にも危ない代物、今まで持って行った事がありません。)を装備、登城中はそれでも不安が拭えず常に緊張を伴いました。リア攻めに集中したいのなら寒いけど冬の時期に行くのがよいでしょう。その価値が此処にはあります。

2021年05月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
大岩城(水沢城)[福島正則館  周辺城郭]



大岩城(水沢城)は福島正則館の南西約1.0km、標高982mの明覚山から北方へ延びる尾根上、標高677.1mのピークの一つに主郭が存します。西麓の蓮生寺(須田氏居館跡)からの比高は250m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は大岩須田氏で須田氏居館の詰城として築かれました。

行き方は幾つかありますが、西麓の蓮生寺から登るものと北尾根を登るものが判り易いです。自分は蓮生寺からのルートを等高線を見て断念、北尾根からのルートを選択しました。登城路入口は目標が無くて物凄く説明し難い…とりまGoogleマップに位置登録されている北東麓の高村木工所を目標に設定して下さい。この木工所から南西へ直線距離で最も近い獣柵ゲートが登城路入口となります。中に入るといきなり激藪で泣きたくなりますが、少し登ると道が付いてますので後はひたすら尾根筋を登るだけ(岩場のトラバース箇所あり。)となります。

お城は素晴らしいです。南北に長い縄張ですが、北側半分位はほぼ自然地形の岩場です。が、主郭部を中心とする遺構の濃さには感動する事間違い無し!主郭を中心に概ね南北に五つの郭を持つ連郭式の縄張ですが、通称4郭の南側山側背後の巨大な堀切とそこから延びる竪堀には思わず絶叫する事でしょう。

戦国時代の合戦としては異常なまでの死傷率の高さで有名な第四次川中島の戦いですが、参陣した上杉勢の中に大岩須田氏の当主、須田満親の名が記録されています。満親にとっての川中島の戦いは正に旧領回復のチャンスでした。全体を通せば結果から武田氏が概ね目標を達成出来たこの一連の戦いですが、満親はこれ以降主に越中に活躍の場を移す事となります。そして満親が再び川中島四郡に足を踏み入れるのは天正壬午の乱の際となりました。

明覚山に存する大岩須田氏関連のお城は他に雨引城、月生城があり一応縦走出来ます。が、かなり厳しい(道はほぼ無い。)と思いますし、猿山で終始お猿さんにストークされます(タイマンなら勝てると思うのですが、囲まれるとぼこぼこにされそうなので断念しました。)ので個別訪問を推奨します。

2021年05月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
月生城[福島正則館  周辺城郭]



月生城は福島正則館の南東約1.2km、標高982mの明覚山から北東へ延びる尾根上、標高約716mのピークの一つに主郭が存します。北麓の浄教寺からの比高は220m位でしょか。お城の東麓には謙信道と呼ばれる軍道が南北に走り、この道は灰野峠を越え若穂へ抜けて松代に至ります。

築城年代は不明ですが、築城者は大岩須田氏が推測されています。今に残る優れた縄張から戦国時代を通して利用が続けられていた事は明白ですが、天正期以降は上杉氏、それ以前は概ね武田氏の領分でした。

行き方ですが、最も近い東尾根を登るルート?が現在砂防ダム建設中により立入禁止となっています。従って北東尾根を登るルート?が現在最も判り易いルート?となっています。とりまGoogleマップに位置登録されている北東麓の(株)シオカワ高山工場を目標に設定して下さい。この工場の林道沿い南側に獣柵ゲートがありますのでこれが登城路?入口となります。中に入るといきなり激藪で泣きそうになりますが、水路を南方へ辿り登り易い場所から北東尾根に取り付きましょう。尾根上までは急坂の藪漕ぎ直登となりますが、尾根筋はすっきりしているので少しだけ我慢して下さい。北東尾根は本来の地形としては緩やかな方だと思いますが、十数段に及ぶ段郭が今も機能しています。攻城するつもりで頑張りましょう。

お城は素晴らしいです。主郭部からは5方向へ尾根が延びていますが、堀切、竪堀、段郭、土塁等で何れも厳重と言えるでしょう。特筆すべきは主郭部西側斜面に畝条竪堀が付いている事で、主郭南側山側背後の堀切+竪堀に並走する形で落ちています。廃城からほぼそのまま時を経た様な遺構の残存率は総じて良好だと思います。

第二次川中島の戦いの際の和睦の条件の一つとして井上氏、島津氏、大岩須田氏の旧領回復を武田晴信は認めています。これら北信の国人領主の存在は後の合戦の推移に少なからぬ影響を与え続けました。第三次川中島の戦いの後に武田氏は中野小館(高梨氏城館)を攻略、中野小館の南方約10kmに所領を持つ大岩須田氏もこの際に影響を受けたと思われますが、それを伝えるものはありません。善光寺平において犀川以北を確保したい上杉氏にとってこれら上杉方の国人領主が所領を持つ高井郡はその重要な緩衝地帯であり、第四次川中島の戦いの引鉄の一つになりました。

2021年05月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
苅田城大城・小城[福島正則館  周辺城郭]



雁田大城は福島正則館の北西約3.7km、標高786.6mの屠屋場山から西方へ延びる尾根上、標高約528mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の岩松院からの比高は170m位でしょか。

行き方は同じ福島正則館のリア攻めマップにある雁田小城を参照して下さい。雁田大城までは20分位ですが、足場の悪い岩場の急坂を登る事になります。

築城年代は不明ですが、築城者として在地土豪の苅田氏、萩野氏が推測されています。この地域に高梨氏の勢力が伸張すると雁田小城、滝ノ入城、二十端城と共に高梨氏支配領域の南端を守る城砦群の一つとして整備されていたようです。

謎な感じの雁田小城と違い、大城の方はしっかりと山城しています。小城はこの大城の物見の任を担っていたものとする解説もありますが、本城より低い所に物見を築くとは到底考えられないので、純粋に大城の前哨線、もしくは居館城だったと個人的に思います。自分は両城を別に紹介していますが、実質的には一つの城として機能していた事でしょう。

お城は素晴らしいです。大きく見て3つの郭で構成されており、それに小郭が幾つか付随しています。急峻な為か尾根筋を外す事は一切ありません。城域は7条の堀切でぶった斬っていますが、その中の4条で4重堀切を構成しています。又、土塁や石積みなんかも確認する事が出来ますね。

主郭には東屋が建っていてほっこりさせてくれますが此処にも固定熊ベルが設置されています。登山道は大城までなら比較的安心出来ると思うのですが、熊さんの行動半径は広いし、南西麓にも下りて来るらしいので用心に用心を重ねましょう。自分は何事かを叫びながら固定熊ベルを狂ったように鳴らした後に写真撮影を始めました…側から見たら気狂いですわ…

整備されている登山道が城域を貫通しているのでとても散策し易いです。夏場の時期、藪が酷くなると堀切なんかがもやっとしてしまいますので、時期を選んで行くとよいでしょう。お近くに来たら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

※スポットは城友さん作成のものを活用させて頂きました。ちなみに雁田、苅田のどちらでも正解ですが、自分は信濃のお城の神に準じました。往時付近は狩田と称する地名の記述があったりもします。



2021年05月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
雁田小城[福島正則館  周辺城郭]



雁田小城は福島正則館の北西約3.9km、標高786.6mの屠屋場山から西方へ延びる尾根上、標高約455mのピークの一つに主郭が存します。南西麓の岩松院からの比高は100m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の岩松院を目標に設定して下さい。このお寺さんの裏手に滝ノ入城の一部とされる千僧坊と呼ばれるピークに至る登山道が付いており、雁田小城→雁田大城→滝ノ入城の順に縦走出来ます。雁田小城は登山道を少しだけ登れば到着します。たぶん5分位かな。

築城年代は不明ですが、築城者として在地土豪の苅田氏、萩野氏が推測されています。この地域に高梨氏の勢力が伸張すると雁田大城、滝ノ入城、二十端城と共に高梨氏支配領域の南端を守る城砦群の一つとして整備されていたようです。

お城は個人的に変態城に分類されています。細分化すると石積み系変態城で、小諸市の富士見城、長野市の霞城、千曲市の鷲尾城と同系列となっています。特にこのお城が変わっているのは、ほぼ正方形の主郭の西辺、南辺に段郭状に帯郭が付いている事で、その数は何れも4段、そしてその全てに石積みが施されている事(石積みは5段となる。)です。見たら誰でも「うっそ〜ん」とか呟く事でしょう。石積みは信濃のお城では決して珍しいものではありませんが、何て言うか余りにも整然(石段まで付いている。)とし過ぎているんです。後世の寺院か何かの改変かなとも思うんですが、そうなると何の役にも立たない帯郭を4段も造る必要が無いし、再訪してもやっぱし訳解らん困ったちゃんでした。

小笠原ブランドのお城、例えば林小城、桐原城、埴原城、山家城なんかに残る石積みは織豊系城郭の影響を受けた天正期以降の改修によるものと解説される事も多く、その考えが一部で今も踏襲(おいらもそうなのかと思ってたさ〜)されているように思えます。ただ石垣じゃないんだし、そこまで特別な技術が必要な訳でも無い。信濃では古くから古墳文化が根付き、石積みが多用されてきた土地柄(安坂古墳群、大室古墳群、針塚古墳、森将軍塚古墳等、立派な石積みが残る。)で、そんなに石積みを特別視しなくてもよいと思います。が、やっぱし此処の石積みにはどうしても疑問を感じるのさ〜雁田小城だけなら簡単に行けるし、写真を見て同じ様な疑問を持ちましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年05月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
滝ノ入城[福島正則館  周辺城郭]



滝ノ入城は福島正則館の北方約3.5km、標高786.6mの屠屋場山山頂に主郭が存します。北西麓の長野県道358号線からの比高は350m位でしょか。

行き方は幾つかありますが、Googleマップに位置登録されている西麓の岩松院を目標に設定して下さい。このお寺さんの裏手に登山道入口が付いてます。道は整備されていますが、距離も比高もあるし終盤は急坂となるので結構疲れます。途中には雁田小城、雁田大城という二つのお城も存するので合わせて訪ねましょう。

実は2年前にリア攻めを断念しています。理由は滝ノ入城の北西尾根に存する二十端城を経由するルート(今回も同じルートです。)を選択したのですが、二十端城の城域内で熊さんに2回遭遇してしまいまして、同じ熊さんだと思うけど3回目は流石に勘弁という事で撤退しました。この辺の山塊には必ず熊さんが棲み付いています。特に二十端城の通称Dブロックはその可能性が極めて高いので注意しましょう。今回自分は熊鈴×2+BOSEのスピーカーでHIP-HOPを大音量で鳴らしながら登城しました。全くの気狂いですが、今回は失敗したくなかった(自分にとってトラウマ城でもあるのでこれっきりで卒業したい…)のでしょうがないです。

築城年代、築城者は不明です。立地から二十端城や雁田城の山側背後を守る感じですが、自分の印象ではその成立は最も古いように思えます。主郭切岸には石積みが残り、相当量の崩落石も確認出来ます。主郭東側背後の尾根を下りると連続堀切で尾根をぶった斬っていますが、早い時期に廃城になったのか、それとも高所故に必要無かったのか知らんけど、それほど造り込まれた感じはありません。又、主郭から西南には千僧坊と呼ばれるほぼ同一標高のピークがありますが、通称千僧坊曲輪として物見の役割を担っていたと考えるのが常説となっています。

滝ノ入城を頂点として西方へV字形に4つのお城が存しています。縦走すると1日掛かりますし、簡単には重い腰を上げる事は出来ないでしょう。自分は今回の縦走リア攻めを成功させたので次回はもう無いと思います。が、二十端城だけならかずり隊列の真ん中で3人以上ならアテンドしてもよいので興味が湧いたら伝言してみて下さいまし。

※縦走すると固定熊ベルの設置箇所が三箇所あります。そういうお山です。

2021年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
福井城(崖端城)[福島正則館  周辺城郭]



福井城(崖端城)は福島正則館の東方約4.1km、標高約827mの河岸台地上端部に主郭が存します。北東麓の長野県道112号線からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車で横付け出来ます。

福井城は福井県だけのものじゃないんだぜ〜長野県にも福井城があるのさ〜崖端城とか別称があるし、本当に崖端にあるんだけど決して比べようなんて思わないでくれよな〜水堀や石垣なんて必要ないぜ〜なんてったって崖端だからさ〜

…築城年代、築城者は不明ですが、天文年間に須田氏の被官、牧伊賀守が城主であったと牧村(廃村)誌に記述があるようです。

前知識無しでお城を訪ねた(知識があると行かなくなるかもしれないので…)んですが、意外にも楽しめました。所謂居館城だと思うんですが、佐久に多くある同様のお城によく似てます。平場の郭間を空堀で区画するあの感じです。城域は林道で分断されていますが、空堀の残存率は総じて高いと思います。空堀の終端から崖下(敢えてこう呼ばせてもらう。)へ向けて竪堀が落ちてたりなんかもしますね。又、土塁なんかも確認出来ますが、後世何らかの耕作地として利用されていた節もあって即断も出来ないです。

このお城の周辺は「牧」の地名が残ります。律令制の官制の牧場、御牧に関わる土地柄(直近には今も牧場がある。)だったのかもしれません。そしてこのお城は高井郡の東端を意味します。此処から先は南東へ吾妻郡へ抜ける他は人の住まぬ山岳地帯(群馬県に入るまでお城はほぼ無くなる。)となります。

放棄地も多いですが、耕作地の広がる台地上だと油断してたら熊さんが夜になると農道を徘徊(新しい痕跡多数あり…)すると直近の牧場の主が教えてくれました。昼間なら大丈夫だと思うので子安温泉、奥山田温泉に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。ちなみにお城は昼間でも結構不気味です。



2021年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
城山城[福島正則館  周辺城郭]



城山城は福島正則館の東北約1.3km、標高1112.8mの紫子萩山から北西へ伸びる尾根上、標高約658mのピークの一つに主郭が存します。北西麓からの比高は120m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お城は城山つつじ公園として整備され、主郭には展望台が建っています。

前知識無しにお城を訪ねたんですが、ハイキングコースが城域を縦断しており、当たり前ですが大変散策し易い。ハイキングコースから外れる事も殆ど無く安心して登城出来ますね。

築城年代、築城者は不明です。お城の東側山側背後にはかつて謙信道と呼ばれる松代に至る間道が走っており、何らかの形でこの間道に関わっていたと想像出来ます。ちなみにこの謙信道はその名称のとおり上杉謙信が川中島へ出陣する際の軍道の一つでもあり、随分と面倒なルートを通ったもんだと後世の者は勝手に考える訳ですが、往時の不安定な北信濃の情勢の為せるものだったのでしょう。

お城は前述の理由から全然期待してなかったし、主郭までは全くそのとおりなんですが、びっくりする事に主郭東側山側背後には浅くはなっていますが二重堀切と3条の堀切で尾根をぶった斬り、二重堀切から延びる主郭側の竪堀なんかは南側へ極めて長大なものでした。ハイキングコースは途中から尾根筋を外して造られている為、浅い堀切自体が更にファジーな印象になったりもしていますが、よく見りゃ土橋なんかも付いていたりします。又、主郭に至るまでは整備され過ぎで、途中には幾つかの堀切も確認出来たりしますが心眼が必要でしょう。

お城は主郭を界にして東西でがらっと印象が変わります。何だか好きな人の机の引き出しに隠してある日記帳を見付けた時と同じ様な気持ちになりますね。探した事は無いですが…

周辺諸城を見渡せるロケーションは素晴らしいです。展望台下には此処から眺める事が出来るアルプスの山々の説明板が立っていますが、「城山なんだし、そんな遠い場所じゃなくて近くの山城の場所を教えてくれよ…」等と不謹慎にも考えてしまいました。

2021年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
須田氏居館[福島正則館  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

須田氏居館は福島正則館の南西約1.2km、標高982mの明覚山の北西麓、標高約430mの緩斜面上平場に位置する蓮生寺敷地内に存した居館です。明覚山山塊には詰城とされる大岩城、その支城とされる雨引城、月生城が存します。

須田氏は清和源氏頼季流井上氏の庶流で須田郷を本貫地として国人領主として発展していきました。城めぐ的には井上城の井上氏は本家筋、高梨氏城館の高梨氏は同族となりますね。戦国時代には須田氏は須田郷に乱入した井上氏を撃退する等、その支配領域を確実に伸張させていきますが、武田氏の北信濃侵攻により惣領須田氏と大岩須田氏に分かれ、惣領須田氏は武田氏に、大岩須田氏は村上氏、次いで上杉氏に随身しました。

城めぐでは頼季流一族の中でも登録城が無い事で不遇ですし、こうして説明するとあんまし面白くない…大岩須田氏は須田満親、その子の長義を輩出したと書けば興味が湧くかな。満親は越後に逃れた後に上杉氏の被官として活躍します。その事跡は戦のみならず外交にまで見る事が出来る他、景勝時代には直江兼続に次ぐ大身、海津城主、知行約一万二千石となりました。後を継いだ次男長義は上杉氏の会津移封後に梁川城主、知行2万石、慶長出羽合戦では本庄繁長と福島口の守りを担いました。又、大坂冬の陣では後藤又兵衛基次と激戦を繰り広げましたが、その際の戦傷が元で亡くなっています。

つまりは父子共々優れた人物であった事は疑い無く、マイナーではありますが川中島四郡が産んだスターと言えるでしょう。同じ様に上杉氏の被官となっていった山浦氏(村上氏)、井上氏、高梨氏、島津氏と比べてもその活躍ぶりは抜きん出ていると思います。

須田満親は上杉氏の会津移封には従わず海津城にて自害したとされています。経緯は不明(嫡男満胤の伏見城舟入普請の不手際の責を取ったんでしょか。)ですが、なんとなく武士の意地の様なものを感じてしまいます。そんな満親を育んだ須坂市に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年05月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
福島正則公 荼毘の地[福島正則館  碑・説明板]



福島正則公荼毘の地は福島正則館の北西約0.5km、水田脇の平場に存します。

福島正則は広島城修繕の許可が下りる前にこれを進めた事、破却を約しながら不十分であった事を理由(表向きでしょう…)に信濃国高井郡、越後国魚沼郡の合わせて4万5千石(後に次男忠勝の早世から2万5千石を返上する。)をもって減封移封され高井野の地に館を構えました。

並の人なら荒んだ余生を送りそうなものですが、領内で善政を布いた正則は地元の方に今でも好意的に受け入れられています。

そんな正則も寛永元年七月十三日(西暦1624年8月26日)に生涯を閉じます。その死に際しても一悶着あり、幕府の検死役、堀田正吉の到着を待たずに家臣の津田四郎兵衛が火葬に処した事から藩は取り潰しの憂き目に遭いました。何れにせよその最後まで大物だったという事でしょか。

荼毘の地は屋敷から近く、たぶん周辺は往時も水田か畑地でしょう、勇名を馳せた正則もその晩年は不遇でした。個人的には最後まで豊臣姓を貫いた正則には漢気を感じてなりませんが、それは後の仇となりました。しかし後世の者の正則に対する評価は正にそこにあるんじゃないかなと思います。

2021年05月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩松院(岩松院館)[福島正則館  寺社・史跡]



岩松院(岩松院館)は福島正則館の北西約3.8km、標高759.3mの雁田山の北西麓、雁田城の西麓、標高約356mの緩斜面上平場に存する曹洞宗の寺院で、福島正則の菩提寺の一つです。

山号は梅洞山、開基は文明四年(西暦1472年)雁田城主、荻野備後守常倫と伝わります。この荻野氏なんですが、清和源氏頼季流井上氏の庶流、丹波で赤井氏、芦田氏と共に事跡が見られる荻野氏と同族なんでしょか。まぁ昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。

お寺さんには三つの見所があります。一つ目は葛飾北斎最晩年の作品となる八方睨み鳳凰図(未見ですが塗り直し無しの天井図らしいです。)、二つ目は俳人小林一茶の有名な句に登場する蛙達がバトルしていたとされる蛙合戦の池、三つ目は福島正則の遺骨が納められている福島正則公霊廟です。

福島正則は歴史好きなら誰でも知ってるスーパー著名人ですが、尾張に生まれて芸備に所領を持ち、減封移封されたこのお寺さんのある信濃高井野で晩年を迎えました。高井野領内の総検地を行い新田開発を奨励し、用水、治水に業績を残した正則は皆の多くが持つ武断派としてのイメージとはかけ離れたものがありますね。

別に岩松院館とかっこ書きしたのは、開基した荻野氏の居館がこの周辺に存したと推測されているからなんです。里伝の範疇を越えませんが、周辺地形はそんな想像を膨らませるのに十分です。

※6枚目の写真、ぽこりんとしたお山が雁田大城です。

2021年04月11日 赤かぶ【】
月生城[福島正則館  周辺城郭]



長野県高山村にあるお城!!
月生城(つきおいじょう)と読みます。明覚山から北に延びる尾根上に作られてます。

いくつか登城ルートがあるようですが、今回は水中の集落の東尾根から登城しました。

登城口は獣フェンスが張り巡らされているのでゲート開けて入るんですが、電気柵注意の札がさがってるんです!自分が登城した時は電気は流れていませんでしたが、いつ電気が流れているかは不明なので注意して下さいませ。

ゲートを開け入りますが道はありません、急斜面を直登します。落ち葉で滑りやすいので注意です。
しばらく登ると尾根筋に出ますので更に筋上を登ります。
キツい斜面を登るとプチ堀切・階段状の削平地を経て主郭・二の曲輪をコの字に囲む幅7mほどの腰曲輪にたどり着きます!
腰曲輪から主郭の切岸も高い♪
主郭の南側には土塁が築かれてるんです!
そしてこのお城のメインディッシュは主郭西側の畝状竪堀♬︎南側の大堀切♪
しっかりと残っている遺構!見応えありですよ♬︎
南側の大堀切を挟んで三の曲輪から岩石が露出した堀切そして南端の堡塁を見る事が出来ます。
お城の麓には高山村の天然記念物 推定樹齢250年の「水中のしだれ桜」があります。4月中旬頃が見頃との事です。
自分が行った時には5~6分咲きでした。月生城と一緒にいかがでしょうか☀︎
① 登城口
② 主郭を囲む帯曲輪
③ 主郭土塁
④ 主郭西側の畝状竪堀
⑤ 主郭南側の大堀切
⑥ 主郭南端の堡塁
⑦ 城麓の水中のしだれ桜

2021年03月21日 赤かぶ【】
苅田城大城・小城[福島正則館  周辺城郭]



苅田城【大城】は小城から更に南へ進んで行きます。
登城道は急斜面で何箇所かロープを使う所があります。
更に堆積した落ち葉で滑りやすくなっていますのでご注意を!
ちなみにですが落ち葉は柏の葉が多いんです。柏餅食べたくなります‪w
大城手前にはこの城最大の難所巨大な崖岩が!ロープがありますのでこれを利用して、よじ登って行くんですが結構恐怖です!怖がりなので‪w
小城から約25分で主郭北側の堀切が見えてきます♬︎堀幅は広かったです!
主郭には僅かな石積み♪プチ土塁があります!!
東屋や案内版もあるのでちょっとブレイク出来ます。
すぐ南側には幅広の堀切!
郭を経て数条のプチ堀切を確認する事が出来ました!!
苅田城(大城・小城)大変楽しいお城でした☀︎
① 主郭北側の堀切
② 登城道
③ 主郭石積み
④ 主郭
⑤ 主郭土塁
⑥ 主郭南側の堀切
⑦ 城郭南端の堀切

2021年03月20日 赤かぶ【】
苅田城大城・小城[福島正則館  周辺城郭]



苅田城【小城】は岩松院さんの背後にある山城です!
大城と一体で苅田城(雁田城とも言う)と呼ばれてます!大城の主郭部に対して小城は物見の城といわれていますが、解明されていない点もありますのでなんともです。
先人さまのクチコミの通り登城口は岩松院さんから!駐車場もお借り出来ました。
ハイキングコースにもなっているため、所々入口の案内が出ていますので迷わないと思います。
それに併せて熊さん出没の案内&熊さん除けの鐘も出ています!季節によってはご注意下さい!!
なお八ちゃぁんは出ません!落語では時々セットで出てきますが(笑)
入口案内&鐘から落ち葉の堆積した急斜面を登って行きます。
約5分程で小城の石積みが見えくるんです♬︎
結構大規模な石積みを見る事が出来ます!
場所によっては1mほどの石積を数段に積み重ねている所もありました♪
主郭南側には堀切も見られ、大城への道を断ち切っています。
大城への道のりは小城以上に険しいため、自信のない方は小城だけでも見るのも十分に楽しめると思います!
ただ足元の装備&熊さん対策はちゃんとした方が良いですよ!!
大城については後ほど☀︎
① 登城口
② 石積みの階段
③ 主郭!背後に大城
④ 段々石積み
⑤ 主郭南側の堀切
⑥ 主郭北側部の石積み

2020年07月22日 大隅守
苅田城大城・小城[福島正則館  周辺城郭]

登城口となる若松院
ここには葛飾北斎の天井画あり、この天井画は当時のまま色褪せず残ってます。
また小林一茶の俳句で[やせ蛙負けるな一茶これにあり]を読んだ池があります。その近くに福島正則廟があるので
城跡を見た後は立ち寄って下さいね

2019年04月27日 笑門来猫
福島正則館



福島正則 末期の屋敷跡。その後、北斎の八方睨みの天井画や、「やせ蛙負けるな一茶これにあり」の俳句で有名な小布施 岩松院に祀られる。

2017年10月09日 カデル織部正
福島正則館

須坂市南小河原町
大乗寺は福島正則の嫡子忠勝(正勝)の菩提寺です。
こちらには正勝のお墓の他、戦の際の軍地蔵、鞍とあぶみ等が遺されています。

長野電鉄須坂駅から遠くないので福島正則舘・高井寺と合わせての観覧をオススメします。

2017年10月09日 カデル織部正
福島正則館

高井寺、駐車スペースの道筋です。
※道幅が細く石垣が張り出しています。
軽自動車は行かれます。

県道54号万座道路を上り火の見で右折。
石垣の脇の細い道を入ります。

寺の入口を横切り突き当たりを左に曲がります。

直ぐ先に寺の敷地の入口です。

・本堂に福島公座の画(複製)があります。
縁の品についての説明もあるので高井寺
にもお立ち寄り下さい。





2014年10月14日 こぐま釆女佑ふっくらしてる
福島正則館

目印は「火の用心」または向かいのお店の「おやき」の幟。
ここのおやきは美味しいです。特にナスとニラ

専用の駐車場は有りませんので、車の方は御注意を。

2014年06月14日 三浦の荘甲斐守大介義明くん
福島正則館

下記にあるまるさん情報通り、堀の内バス停から攻略。またバス停から下ること100m位に、正則公の荼毘地後のサインあり、300m程の地に記念碑と地元の人たちが愛し慈しんだだ一本杉があり。遠くアルプスを見渡せる景勝の地.一見の価値ありですね。

2012年06月04日 【稲作物語】征夷大将軍クララ姫
福島正則館

ナビに入力する際は、高山村高井掘之内 で。

2012年05月29日 まるさん上総介小町時間割
福島正則館

公共交通機関で向かう場合は…

長野電鉄須坂駅前より出ている『山田温泉』行きのバスに乗車、

15分弱で着く『堀の内』バス停で降りて、30mほど進むと右側に表示があります。



ただ、他には案内表示等一切ないので、横にそびえ立つ火の見櫓を目印にするとよいでしょう



ちなみに館跡は現在は高井寺(『こうしょうじ』と読むらしいです)の敷地内となっていまして、

石垣も当時のモノではなく寺を建てた時に作り直されたらしいと、

たまたま見物に来ていた近隣の方に言われました。



福島正則館の周辺スポット情報

 福島正則公 荼毘の地(碑・説明板)

 福島正則公遺蹟碑(碑・説明板)

 苅田城大城・小城(周辺城郭)

 月生城(周辺城郭)

 滝ノ入城(周辺城郭)

 二十端城(周辺城郭)

 須田氏居館(周辺城郭)

 城山城(周辺城郭)

 雨引城(周辺城郭)

 福井城(崖端城)(周辺城郭)

 雁田小城(周辺城郭)

 大岩城(水沢城)(周辺城郭)

 桝形城(山田城)(周辺城郭)

 山田高梨居館(周辺城郭)

 山田氏居館(周辺城郭)

 高原城(周辺城郭)

 米子城-1(周辺城郭)

 米子城-2(周辺城郭)

 米子城-3(周辺城郭)

 亀倉城(周辺城郭)

 古城(周辺城郭)

 須田城(臥竜山城)(周辺城郭)

 岩松院(岩松院館)(寺社・史跡)

 米子瀧山不動寺(寺社・史跡)

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