福島正則公 荼毘の地
福島正則公 荼毘の地([福島正則館 碑・説明板])
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福島正則公 荼毘の地の口コミ情報
2024年10月10日 尼崎城駿河守一口城主
10/5、福島正則公館跡の高井寺参拝後に正則公荼毘の地に向かいました。お寺から荼毘の地を目指していくと道標(写真②③)があり辿り着けました。
到着して全体を撮影(写真③)史跡標(写真④)、説明板(写真④)、供養塔(写真⑤)などがありました。説明板を読むと写真③の右側の木が一本杉(再植)とのことでした。
お寺の方の話で、正則公は暑い季節(7月)に亡くなられたのに幕府の検死役がなかなか来なかったので検死役が来る前に火葬したとのことでした。そのことが領地没収の原因になるとは、関ヶ原の功労者に対して何ともひどい仕打ちのように感じられました。
荼毘の地から高井寺は、わずかに見えていました。(写真⑦:中央やや左の木の間にわずかに見える赤い屋根が高井寺)
2021年05月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
福島正則公荼毘の地は福島正則館の北西約0.5km、水田脇の平場に存します。
福島正則は広島城修繕の許可が下りる前にこれを進めた事、破却を約しながら不十分であった事を理由(表向きでしょう…)に信濃国高井郡、越後国魚沼郡の合わせて4万5千石(後に次男忠勝の早世から2万5千石を返上する。)をもって減封移封され高井野の地に館を構えました。
並の人なら荒んだ余生を送りそうなものですが、領内で善政を布いた正則は地元の方に今でも好意的に受け入れられています。
そんな正則も寛永元年七月十三日(西暦1624年8月26日)に生涯を閉じます。その死に際しても一悶着あり、幕府の検死役、堀田正吉の到着を待たずに家臣の津田四郎兵衛が火葬に処した事から藩は取り潰しの憂き目に遭いました。何れにせよその最後まで大物だったという事でしょか。
荼毘の地は屋敷から近く、たぶん周辺は往時も水田か畑地でしょう、勇名を馳せた正則もその晩年は不遇でした。個人的には最後まで豊臣姓を貫いた正則には漢気を感じてなりませんが、それは後の仇となりました。しかし後世の者の正則に対する評価は正にそこにあるんじゃないかなと思います。