米子城-1
米子城-1([福島正則館 周辺城郭])
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米子城-1の口コミ情報
2021年06月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
米子城-1は福島正則館の南方約4.7km、東西に延びる蓑堂山山塊尾根上、標高627mのピークの一つに主郭が存します。西北麓からの比高は90m位でしょか。別称で西の城とも。
行き方は…誰も行かないと思うし、目標が無いのでとりまパス。赤色立体図を見れば一目瞭然ですが、山側を除けば独立して平野部に尾根が延びているので尾根末端から獣柵ゲートを開けて直登して下さい。が、このゲート回転する閂でロックされるのですが、回転させると電流線に直撃します。電流が流れているか否かは運次第となります。
何でも伯奢にも同名の米子城があるらしいのですが、信濃の米子城は1〜3まであるのでこっちの勝ちですかね。伯奢の方は石垣が大変立派らしいですが、こっちは岩場というか岩盤層が凶悪に露出する登城路?なんで必要無いです。わざわざ無理して比べるまでもないですね…悲しくなるのでやめましょう。
築城年代、築城者は不明ですが、南北朝時代の観応三年(西暦1352年)、米子城に尊氏方の小笠原為経に属した佐藤元清が立て籠り、京都を脱した直義方の諏訪直頼を撃退、更に押し寄せて来た村上勢をも撃退する合戦があった事を伝える記録が残ります。又、この際に須田入(入氏)又四郎なる在地国人領主の須田氏の一族の者が奮戦したそうです。が、今に残る米子城がこの時既に存していたのか、観応時代の米子城と同一視してよいものなのかは難しいところです。
米子城-1は戦国時代にも改修が施され利用が続けられていたと考えられ、我々が想像する山城として間違いは無いのですが、2と3は自然地形以外に見出せるものが殆どありません。2と3とはただ単に物見が置かれた場所だったという事だと純粋に感じました。米子城-1で圧倒されるのは尾根末端から主郭に至るまでの登城路?で、突飛な巨石と垂直の岩盤層(後世に石丁場だったのかな?矢穴の残る巨石が散見される…)が連続するその尾根筋ときたら…思わず進退極まります。何とかトラバースしてやり過ごしましたが、比高がそんなに無いからと言って舐めて掛かると痛い目に遭うでしょう。
※米子城-2と3は凄く暇な時にでも紹介します。