若槻山城(わかつきやまじょう)
若槻山城の基本情報
通称・別名
- 若槻城、三登山城
所在地
- 長野県長野市浅川西条、若槻東条他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 若槻頼隆
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- 上杉謙信
主な城主
- 若槻氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、竪堀
指定文化財
- 市史跡(若槻山城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
髻山城(長野県長野市)[3.7km]
横山城(長野県長野市)[4.4km]
葛山城(長野県長野市)[5.1km]
長沼城(長野県長野市)[5.6km]
旭山城(長野県長野市)[6.6km]
井上城(長野県須坂市)[9.8km]
内堀館(長野県中野市)[11.1km]
吉窪城(長野県長野市)[11.4km]
霞城(長野県長野市)[11.5km]
福島正則館(長野県上高井郡)[12.5km]
若槻山城の解説文
若槻山城の口コミ情報
2024年09月08日 信濃守あお
若槻山城
長野市方面から林道をグーグルマップに導かれ進む。マップで示されたところより更に北に進んだ所に登城口がある。道や標識しっかりあり迷うことはない。15分もあれば主郭へ到着。麓のお宮からの城攻めもよいかも。主郭から更に進んで番屋跡や頂上を目指すのもありかも。熊注意の看板有り。
2024年06月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
多胡氏館[若槻山城 周辺城郭]
多胡氏館は若槻山城の東北東約1.9km、田子川北岸(左岸)、標高約421mの丘陵地上平場に立地した居館です。該地は現在の田子集落の北東端に当たる。東側には隣接してバス釣りの人気スポット、田子池が水を湛えているが、同池は成因不明なるも江戸時代には既に農業用水としての利用があり、往古の一帯は複数の湖を抱える湖沼地帯であったと推測されている(多胡の地名の由来とも。)。又、南側は近世の北国脇往還に殆ど接しているが、現在の田子集落は、慶長年間(西暦1596年〜1615年)、同往還の開道に併せて南東方、三才から村が移されてきた事が始まりである。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は北東側に隣接する真田霊園の駐車場がよい。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは多胡氏です。
「尊卑分脈」によれば、鎌倉幕府御家人、若槻庄地頭職、若槻頼隆の子、頼胤は、若槻太郎、下総守を名乗った人物、頼胤の子、頼広が押田を称し、その二男、頼輔が若槻太郎左衛門尉を称し、三男、頼仲が若槻荘内押田、多胡の両郷を相伝、若槻氏の各系統はそれぞれの知行地で同庄の開発主体となり、庄内における一族の勢力を拡充させていく。頼仲は多胡氏を称し、該地の多胡郷を中心に発展、一方で北白河院蔵人を称する京武者でもあった。
居館の現況は耕作地、果樹園等となっている。一帯はなだらかな起伏を持つ丘陵地であるが、居館地の西辺と南辺に幅員のある堀形が確認出来る。西側に隣接する田子神社の祭神は健御名方命(諏訪社だ。)、同社由緒には、享保三年(西暦1718年)に、本多豊後守(康重)が慶長五年(西暦1600年)、「関ヶ原の戦い」の際に用いた旗印が奉納され、宝物として伝わっているとある。又、境内に湧き出る清水は、明治十一年(西暦1878年)九月、明治天皇北陸御巡幸の際に御賜水として供された事もある名水だ。今でも保健所から飲料水として認められているそうなんで飲もうとしたけど、アオダイショウが見事にスイミング中だったので諦めた。
現在の田子集落は北国脇往還の開道に併せて三才から村が移されてきたものだと前置きしたが、古くから三才に集落があったのは、律令制下における東山道支道の駅家、「多胡の駅」が設けられていた事がその理由である。千曲川の氾濫の影響を現在も受けない地域であり、東山道支道の道筋と共に、官道の駅家が置かれる場所として同地が選ばれたのはそれがためだったとも推測されている。三才は往古の多胡郷を構成する一集落であった訳だ。
三才の文書上の初見は、元徳元年(西暦1329年)三月の諏訪社上社造営目録案に、「玉垣一間 三歳、狩箱」とあるのがそれで、三歳(三才)は狩箱(金箱)と共に諏訪社上社の造営の際に玉垣一間分を負担している。行政単位としての三才の成立はこれより以前である事に疑いは無いがその時代となると不明である。
…ある偉い先生の考察によると、文書等に残るくずし字書体で書かれた「多古(胡)」を見ると、「さんさい」て別に読めるんだそう。此処で文字をいちいち説明する訳にもいかないんだけど、前知識を意識さえすれば、阿保なおいらでも確かに「さんさい」て読める。つまりは、「さんさい」とは「多古」が文字上で転化したものであり、「三才」はその当て字て事になる。
地名に上記のような視点から考察を加える事が出来るなんて考えもしなかった。頭の良い人はやっぱし違うぜ。追従して色々深掘りしてみよう…等とは決して思わないけど。
※写真は撮り忘れたが、該地には多胡氏館の説明板が立っている。決して城館に限った事ではないが、長野市は後世に歴史を伝えようとするこうした取り組みが実に素晴らしい行政区だ。
※写真①は要るのか知らんけど上段、真田霊園付近から撮影した近景っす。
※写真⑦は田子神社から湧き出る清水、文中にあるとおり今も飲める。
※写真⑧は田子池、往時は一つの池として存在しないと思われるが、多胡氏館は田子川の上流域に立地、開発領主として多胡郷の水源地を管理していたと考えるのは自然だと思う。ちなみに当日は沢山の外国籍の方が釣りをしていた。
2024年04月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
押田城[若槻山城 周辺城郭]
押田城は若槻山城の南南西約1.0km、駒沢川北岸(左岸)、標高923mの三登山の前衛山塊を構成する一つ、標高約499mの山稜山頂部に立地する要害です。南麓の押田バス停からの比高は65m位でしょか。但し、山稜の北東側は台地と連続しており、此処からの比高はマイナスである。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…登城は南麓から果樹園を登る農道を辿るのがベスト、比高が無いからといって北東側から取り付くと激藪地獄に陥る。
築城年代は不明、築城者は押田氏とされる。同氏は若槻庄の地頭職となった河内源氏、源頼隆の孫、頼広を祖とする。里伝によれば、押田に住して押田太郎を称した頼広の末孫が築城に及んだんだそう。押田氏は頼隆が鎌倉幕府内における北条氏と三浦氏の対立に巻き込まれ討死すると、下総の千葉氏の庇護を受けて同氏に近侍、縁戚関係をもって千葉氏の一門となり、子孫は幕臣として存続したとされるが事の経緯には再考が必要だと考える。おいらは少なくとも同氏に2系統があったんじゃないかと考察する。
城域内には墓所があり、石塔には「押田住 熊野井治部太輔一行子孫家系代々同會 墓」と刻まれ、その家紋は武田菱である。今でも南麓の縄張図における通称5郭には熊井さんがお住まいで、同家は押田氏の後裔とされる、色々お話しを聞きたかっんだけど、突撃お宅訪問は庭先で忙しそうだったんで止めといた。
実は再挑戦となる。初回訪問時はビジネスシューズにビジネススーツで北東側から取り付いたんだけど、背丈位の熊笹藪とちくちく、とげとげした草木に阻まれて3歩で断念、あの時のおいらはどうかしてたぜ…住宅地の裏山とはいえ完全に舐めていた。
お城は主郭まで辛うじて道が付き、戦後に耕作地として開墾された主郭部に限って言えば比較的に探索が容易だ。が、城域内の殆どは激藪で信濃のお城の神も探索の大半を諦めている程、熊笹藪、蔦藪、ちくちく、とげとげした草木、矢竹の密集、更には倒木までもが物理的な進入を拒む。はっきり言って縄張を全て確認するのは無理っすわ…
但し、遺構が残っていない訳じゃない。びっくりしたのは主郭北側山側背後の大堀切と南東側へ落とし込まれる長大な竪堀、これ等については完璧なまでに遺構が残存している。おいらは竪堀を20m位下りてみたけど、その先もまだ続いていた。が、前述のとおり激藪なんで悪しからず…僅かな距離だが下りて戻って来るだけで30分以上を費やしている。苦労して撮った写真は見事なまでの草写真、後日に削除しまちた…
神本以外でのまともな紹介例は皆無であり、ネットで検索してもヒットしない。初物ではあるんで参考程度に納めて下さいまし。ちなみに「長野県町村誌」には絵図が掲載されている。同誌の絵図は難解な物が多いが押田城は割といい感じ…この絵図を見ると主郭には半狐を描く土塁が付いていたようだ。
※写真⑥は大堀切を頑張って撮ったもの。なんじゃこりゃ…ちなみに写真⑦は竪堀、こり以上無理っすわ…
※写真⑧の車の車種名が判る方、伝言で教えて下さいまし。
2024年04月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
土京城(土京山城)[若槻山城 周辺城郭]
土京城(土京山城)は若槻山城の東南東約1.2km、土京川北岸(左岸)、標高923mの三登山の前衛山塊を構成する一つ、標高約517mの山稜山頂部に立地する砦です。南麓の若槻・あじさいの湯からの比高は85m位でしょか。北西側には用水路を挟んで同じ若槻山城のリア攻めマップにある鐘撞堂山が立地する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは北側からとなり、地図上でも確認出来る農業用貯水池を目指せば案内板が要所に立っているので迷わない。登城路入口となる切通しからの比高は15m位、ビルの3階に階段で登るよりは遥かに楽だ。道は一直線、主郭まで2分も掛からない。
築城年代、築城者は不明です。該地は若槻荘の本郷の一つであった若槻西条に位置する。当然、若槻荘の地頭職、若槻氏が築城者として有力だが、後の経過からすればそうだとも言い切れないものがある。但し、若槻山城に関係する城砦の一つである事に異論は差し挟まない。これに付随する狼煙台や物見台の類いであろうか。
お城は丸山と言ってよい小山であり、山頂部を削平し下段周囲に帯郭状の腰郭を巡らせた単純なもの。別に主郭北側に埋まりまくった堀切が1条付く。主郭には土塁様の土の高まり、中央部には中部電力の送電線用鉄塔、No.4が潔く屹立、他に説明板と並んで城跡碑が建っている。たぶん展望は抜群によいと思われるが樹木に遮られて現在は一方向にしか開けていない。又、城域北側の小湿地には「馬屋窪」と呼ばれる場所があり、恒久的な砦であった事を窺わせている。但し、説明板にある、「南側には追手があり、」を現況から確認するのは不毛な作業である。
主郭に鉄塔が建っている訳なんだけど、おいらはこの程度の改変なら気にならない。興醒めするのは確かだけど、少なくともお城の基本形を大きく損なうような事はないからだ。又、このお城の藪が定期的に刈り払われているのは鉄塔整備の一環でもある。登城さえ拒む激藪のまま放置されるよりは遥かにましな事だと考える。
「川中島の戦い」は川中島周辺地域で繰り広げられた五次まで数えられる長きに亘る一連の戦いを指し、弘治三年(西暦1557年)、第三次川中島の戦いは通称、「上野原の戦い」とも呼ばれている。戦い自体は小競り合いに終始したらしいが、正確に何処が主戦場となったのかは不明である。一説によれば、アプリの登録城、髻山城の周辺とされ、土京城の位置する現在の長野市上野がこれに比定されている。もしかしたら甲越の間で取り合いとなった砦かもしれない…地味な物件だけど、そんな想像をすると違った視点で周辺地域が見えてくる。
※「川中島の戦い」は第四次の戦い、通称、「八幡原の戦い」ばかりが注目されるが、明確な目標を持って着々と布石を打ち続ける武田氏の経略は上杉氏を常に後手の状況に追い込んでいる。武田氏が決戦を避けて川中島の確保に傾注したのは勝敗を決する必要性が希薄だったからだろう。おいらは弘治三年末の時点で川中島の帰趨はほぼ確定していたと考えている。それを後に決定的としたのはアプリの登録城、海津城(後の松代城だ。)の築城だ。拠点城に城代を置き、在地国人領主や在地土豪等を城代の寄子、城番衆として取り込み既存の各要害から切り離す…武田信玄の城の取り立て方は近世城郭にも通じるものがあると思う。後世言われるように信玄が城の存在を軽視したなんて事はあろう筈も無い。むしろ城の持つ本質を実によく理解していたと考える。
※薄い物件だけど再訪となる。初回訪問時はカメラのバッテリー切れで陣払い。
※写真⑧は鉄塔マニア向け。上を向きながらの己の平衡感覚が試される。5枚位撮り直している…
2024年04月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
鐘撞堂山[若槻山城 周辺城郭]
さて、全国108万人の煩悩抱えた鐘撞き野郎の皆さん、お待たせしやしたっ!ワクドキでしょ〜そう、今回の口コミはみんな大好き「鐘撞」地名の御登場っすっ!お城好きならその意味を知っていて当たり前の地名、城郭用語としても「矢穴」と並ぶ人気ワードの一つであり、城郭検定3級の試験問題には毎年必ず選ばれている…っぽい雰囲気を醸し出しながらも実はそうではないよとの指摘もある…んだけどはっきりさせる事も難しいとのある筋による見解が発表されたらしいて噂をある人が話しているのをかずりは遠くから間接的に耳にしている。
鐘撞堂山は若槻山城の東方約1.1km、土京川北岸(左岸)、標高923mの三登山の前衛山塊を構成する一つ、標高約526mの山稜山頂部に立地する狼煙台の類いです。西麓の舗装道路からの比高は25m位でしょか。南東側には用水路を挟んで同じ若槻山城のリア攻めマップにある土京城が立地する。ちなみに南麓の若槻大通りからの比高は90m位、西麓からの比高が低いのは地滑りによる土砂が山間鞍部を埋めた事によるものなんだろうか。長野盆地の西方山塊ではよく見られる地形らしい。
行き方はびっくりする事にGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは北西麓からとなり大きな地蔵が目印だ。車の捨て場所は周辺に一切無いので農作業中の方に頼み込むとよい。ちなみに山頂までは2分程度、初っ端でエレクトリカルな獣柵を跨ぐ必要がある。
築かれた年代、築いた方は不明です。少なくとも前述の土京城に関連するものである事に間違いは無い。「長野県町村誌」には土京城を描いた絵図の中に鐘撞堂山が見える。伝達先はアプリの登録城、若槻山城だろうか。
当然の知識で烏滸がましいんだけど一応説明…「鐘撞」は、中世に武士等が狼煙の替わりに陣鐘等を用いて情報の伝達を行っていた場所を示唆する地名、時間帯や天候不順によって不通となり易い狼煙よりは鐘の音で報せる方が遥かに有効な場合もあった訳だ。一心不乱に2-STEPを叩きまくる雑兵を想像すると血圧も自然と上昇するぜ。
個人的には5例目となるような…総じて薄過ぎる残念物件だし、その位置さえ定かでないものもある。城砦としての加工を一切必要としないのでその全てが単なる平場か地山だ。鐘撞きの場は鐘を撞いた時点で役割の100%を達成している。そもそも論で守る必要性が微塵も無い。
当然、なんの期待もしていなかったんだけど、ありっ?山頂には2箇所の張り出しを設けた段が付いている…段上は広めの削平地、土塁の残滓とも呼べる地形も見られ少なくとも地山ではないようだ。削平地上はかつて耕作でもされていたんだろうか、廃墟と化した休憩小屋も建っている。想像とは全く違う光景、良い意味で期待を裏切られた感じ…但し、薄い事には変わりがない。
物件としての紹介例は初出以外皆無なので参考程度に納めて下さい。ちなみに埼玉県大里郡寄居町末野にも同名称の低山がある。こちらの「鐘撞」は後北条氏の狼煙台との伝承が残る。おいらはこの地名を長野県固有のものかと思ってた。
※城域は明らかな私有地である。基本的に里山に立地する城館の殆どはそうだと言える。地権者が存在しないなんて事はまずあり得ない。おいらが近傍の方によく声を掛けるのは担保を得るためでもある。
※写真①は西麓からの近景、此処からの山登り感はゼロに等しい。
※写真②は取り付き、電流柵は誰でも跨げる。目印は少し変わったお地蔵さんだ。
※写真⑥は北麓の農業用水池、写真向かって左手を進むと土京城に至る。ちなみに池の畔上には時間の経った熊さんの痕跡が残されていた。
※口コミのイントロ部分は他の口コミからぱくったもの。訴えられても応じない。
※人気ワードの一つ〜令和五年度かずり調べによる。
2024年01月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
若槻山城
さて、今回の口コミはアプリの登録城、若槻山城っす。このお城、その規模、縄張の素晴らしさ、今に残る遺構の残存率に比例せず、写真投稿数は現在のところ僅かに32枚、登録城故においらも投稿を控えていたんだけど、流石にこりは…長野市市街地からも近く北信の山城としては比較的に整備もされている。勝手に宣伝する事にしよう…
若槻山城は標高約893mの山稜山頂から南東へ伸びる支尾根中段上、標高約675m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の駒沢川からの比高は255m位でしょか。但し、徒歩で登る比高は110m位で済む。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「若槻山城跡登城口」を目標に設定して下さい。付近林道上に車も捨てられる。登り始めれば既に城域内、登城も楽だ。
築城年代は不明、築城者は若槻氏とされる。同氏はかの八幡太郎源義家の孫、頼隆が相模国毛利庄から若槻荘の地頭職に補任されて入部、若槻氏の祖となった。同荘には南北朝時代に入ると高梨氏の勢力が伸長するが、お城は騒乱の中で落城した経験を持つ。
信濃守護に補任された小笠原長秀の強引な経営(長秀を好きになれないが一応弁護しとく。そもそも論でせざるを得なかったのは信濃国人衆の在地での押領が素因の一つだ。)に反抗する信濃の国人勢力と大文字一揆衆が合力して守護方をフルボッコしたのが、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」だが、その後の応永十一年(西暦1404年)十二月、幕府の御料所となった信濃国(埒が開かなくなったので安定化を図るため直轄支配に乗り出したとも言える。)に代官として下向した細川慈忠に従った市河氏貞は、自らの功を書き上げて注進し、慈忠から証判、「市河氏貞軍忠状」を得ている。長くなるので割愛するが、その中に、「…并同十一年九月高梨左馬助依背上意、為御退治、大将細河兵庫助殿奥郡御発向時、桐原、若槻、下芋河之要害責落、加佐、蓮至東条御陣、抽軍忠状、上方御見知上者、給御証判為備後代亀鏡、恐惶言上如件、」とあり、氏貞が、慈忠に従って上意に背く高梨左馬助(朝秀)と戦い、桐原(水内郡、同郡における高梨氏の支配拠点であった。)、若槻、下芋河の要害を攻め落とし、若槻新庄の内、加佐(替佐)、蓮に至り、東条(高井郡、若槻山城の位置する水内郡若槻庄東条とは同名異地である。)に陣を進めた旨等が証される。戦国時代の改修、拡張の跡が見て取れる若槻山城だが、既にこの時期に高梨氏の要害として機能していた事は確実だろう。又、軍忠状に列挙される地名は裏を返せば当時の高梨氏の知行地等であり、誰もが頭を抱える内堀館のリア攻めマップにある今井北城、替佐城の要害としての発生も同氏に求める事が出来るのかもしれない。
お城は大変素晴らしい。縄張図なんか無くても地形模型図を見れば概ねは判る。登城路中の段郭に始まり、高低差を持つ面積の広い連郭式、六段の郭がその中心、これ等に付く土塁も明瞭、主郭の腰郭的に通称2郭に付く水の手に萌える事間違い無し。堀切や竪堀はファジーなものもあるが、主郭南側谷側下段に端を発する竪堀の切れ味は良好だ。
このお城、最大の見所は主郭北側山側背後にある。比較的東側に緩い斜面となるこの部分は二重堀切と堀切が連続する濃い縄張、斜面に付く堀切から落とし込まれる竪堀の長大さは感動もの。特に合間に段郭を設けて列線を描く連続竪堀(正確に言うと畝状竪堀ではない。)は主郭のぽこりん感と相まって見る者を唖然とさせる事だろう。
…但し、冬枯れしないと見れない光景ではある。藪が生い繁ると進入すら拒むかもしれない。実際、冬場でも低雑木が元気だ。おいら、Jr.アイドルなのに額部に擦過傷2箇所を負う痛恨のミス、写真集とDVDの撮影が間近に迫る中、他のメンバーと所属事務所、関係各位に再び御迷惑を掛けてしまった事をこの場を借りて深くお詫びする。
※不思議な事だが、高梨氏は室町幕府に表立って反抗する姿勢は持っていない。常にその矛先は信濃国における守護権力等にあり、既成事実化する同氏の領国支配を弱体化させるこれ等に抗う事により自らの権益の保全を図ろうとした。又、それを可能とする背景には「観応の擾乱」以降の混沌とした信濃国の情勢が色濃く反映している。
※梯郭式と連郭式の違いがよく解らん…一応勉強したんだけど、「梯」の持つ意味を考えれば世間一般で唱えられている両者の違いは不審じゃないのかな…等と怒られそうな事を言ってみる。どなたかおいらの初歩的な疑問に優しく接して下さる方は御教授願います。
※写真は全て主郭北側山側背後のものだけど写真①〜④と写真⑤〜⑧では撮影日が異なる。今年に入ってから既に2回の訪問、理由は単純に好きだから。善光寺平を代表するに相応しい山城だ。
2024年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
正覚寺跡[若槻山城 寺社・史跡]
正覚寺跡は若槻山城の東南東約0.7km、標高893mの山稜山頂から南東へ伸びる尾根下段上、標高約521m地点の緩斜面上平場に立地した寺院です。該地は若槻山城の立地する山尾根とは別の尾根筋に当たる。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…ちなみに隣接する三登山への登山道から説明板が見えるので該地の特定はすんなりだ。
正覚寺は浄土宗の寺院で創建は鎌倉時代、若槻荘の地頭職、源(若槻)頼隆の曾孫、頼繁、その嫡男義繁の舎弟、左衛門尉頼清が開基、親鸞上人の法弟、善性が開山したと伝わる。頼清は後に出家し浄覚と号した。正覚寺は永禄年間(西暦1558年〜1570年)、兵火により焼亡するも、寺地は天正年間(西暦1573年〜1592年)に越後国長岡に移り現在に至る。元和年間(西暦1615年〜1624年)、長岡から戻った同寺の一門は水内郡長沼に若槻山正覚寺を創建、住職は若槻姓を名乗りお寺さんを世襲しているんだそう。但し、長岡の正覚寺との往来は久しく途絶えているらしい。
神社仏閣は門外漢なおいらだけど、武家の創建ともなれば話は別だ。しかも正覚寺の立地は若槻山城の下段に当たり、別尾根とはいえ、同じ若槻山城のリア攻めマップにある堂沢出城とはほぼ同一標高で対を成す。寺院としてだけではなく、ある程度の城砦機能を有していたと考えてみても一向に不思議では無い。
寺院跡には明治の初頭までは鐘楼の跡、塔中として建立された正覚寺跡(意味不明なんでどなたか御教授して下さいまし。)も見られたとするが、現在は横堀、土塁、石積みの一部が残るのみである。横堀は2条が確認出来ると思うが、その内、西北辺の1条は不思議な付き方をしている。後世の改変か単なる目的に合わせただけの副産物(上方には若槻温泉の源泉である「蚊里田の鉱泉」が位置する。お寺さんの立地も含めて何となくだが無縁ではないような気がする。ちなみにこの鉱泉、管理されているとはいえ山中掛け流しで麓近くまで落ちる。)なのかもしれない。又、横堀に面する土塁様の土の高まりも見られるが、そもそも論で境内の範囲、堂宇の位置が不明確であり、その方向性がよく判らない。石積みの方は積雪故に眼を凝らしても見付ける事が出来なかった。細かな遺構は当初から期待していないのでよしとしよう。
堀や土塁で囲まれるのが中世寺院の特徴とされるが、その目的は堀の内の貴重な物を守る為だけではないだろう。祈願寺や菩提寺の他、時には領内の城砦として機能し、それ故に焼き討ちの対象となる事も度々であった事は各地の歴史が証明している。
お寺さんの跡だけど、立地や歴史も含めて意外にも楽しめた。てか下手な居館跡を訪ねるよりはよっぽど面白い。ちなみにおいらが新城発見の可能性が高い場所として考えているのが、正覚寺跡東北方、「旧山千寺」の周辺だ。既に目星は付けてあるので、徒労に終わるんだろうけど今度確かめに行ってみる。
※写真①は要るのか知らんけど林道から撮影した近景っす。
2024年01月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
堂沢出城[若槻山城 周辺城郭]
さて、今回紹介する物件は平成十五年(西暦2003年)五月九日、長野市立若槻小学校、六年一組の生徒達によって発見されたお城っす。後に長野市教育委員会埋蔵文化財センターの学芸員による数回の現地調査により山城跡の可能性が高い事が確認されて現在に至る。長野市の遺跡台帳にも登録されており、謂わゆるそこら辺の色物物件とは訳が違う。
堂沢出城は若槻山城の南東約0.6km、標高893mの山稜山頂から南東へ伸びる支尾根下段上、標高約538m地点の緩斜面上平場に立地する砦です。南麓の駒沢川からの比高は135m位でしょか。更に言えばアプリの登録城、若槻山城の主郭から派生する三つの尾根の内の一つでもあり、尾根をそのまま下れば若槻荘の総鎮守社、同じ若槻山城のリア攻めマップにある蚊里田八幡宮の西側に至る。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北方、尾根上段の「若槻山城跡登城道入口」を目標に設定して下さい。少し離れた場所に「堂沢出城跡260m」の案内板が立っているので迷わない。
若槻山城、堂沢出城は長野県長野市若槻東条に位置する。平安時代末期には成立していた若槻荘の内であり、東条、西条を本郷とする同荘域の中心地である。別に東条には若槻荘の地頭職、若槻氏の居館城である同じ若槻山城のリア攻めマップにある若槻里城が立地し、堂沢出城の立地は若槻里城と山中の要害である若槻山城との中間点に当たる。
長野市の不思議に、浅川東条と浅川西条、東西の位置が逆問題(浅川東条の東方に浅川西条が位置する。)と若槻東条と若槻西条、東西の位置が逆問題(若槻東条の東方に若槻西条が位置する。)があるが、これは明治時代の初期に存在した東条村と西条村が元々変な形で隣り合っていた事に起因する。説明すんのが面倒なんでしないけど、その後の分割、合併の過程で区割りが変わり、古い地名が残った場所が前述の4区域て事になる。旧東条村と旧西条村は明治時代の絵図が現存するが、若槻荘の東条、西条の範囲をそれぞれ概ねで踏襲していたと考えられる。
若槻荘東条の一部には室町時代に入ると高梨氏の勢力が伸長する。明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「東条荘内石渡部、堀、尾張部散在、高岡郷、小井郷、吉田村知行分 与一」、「東条荘内中駒沢 昌頼」、「東条荘内中駒沢内墨沼四郎跡 虎王丸」とある。高井郡の有力国人領主である同氏は、長沼島津氏と一揆を結びながら次第に善光寺平へ進出、知行地の開発を拡大させていく。
若槻荘の地頭職、若槻氏もその過程で高梨氏の影響下に置かれたものと考えられ、経緯不明なるも同氏は後に高梨氏の一門(前注進状には若槻本庄が若槻左衛門蔵人氏朝とその一族等の知行地である旨が記される。)となっている。当然姻戚関係が推測されるが、これに伴い在地土豪としての独立性は失われたように思える。
お城は4つの郭に土塁、虎口が見られるて現地説明板には書かれるが、4つ目の郭が何処になるのかがよく判らない。土塁は高さもあるしっかりとしたもの、虎口も確認出来るが、後世の改変の可能性は無いのだろうか。又、該地に残る横堀様の地形は堰路のような気がする。はっきりとさせる事は難しいんだろうけど、同様のものは周辺、同じ若槻山城のリア攻めマップにある正覚寺跡にも見られる。全体的には砦てよりは居館城の趣だ。
新城発見…羨ましい…エキストリームな変態達にとって究極の目標はこれに尽きる。が、地形模型図で必死に怪しい地形を探し出そうとする不純な大人には所詮無理な話なんだろう。おいらもJr.アイドルの内に頑張りたいものだ。ちなみに若槻山城の下段には怪しい地形が連続する。前述の正覚寺の東方にも非常に疑わしい地形がある。もし認定されたとしたら、「内記かずり城」て命名してもよいのだろうか…
※写真①は上段林道中に立つ案内番、此処から大して下る事もなく辿り着く。軽く走って1分位の距離だ。
2024年01月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
若槻山城番所[若槻山城 周辺城郭]
さて、今回は番所の口コミ…以前にも木戸や番所を紹介した事があったけど、今度ばかりはどうか引かないで下さいまし。密度濃く遺構が連続するスペシャルな番所、そもそも論で一般的な番所として認識される事自体が大きく間違っちょる。
若槻山城番所(わかつきやまじょうばんどこ)は若槻山城の北北西0.4km、標高893mの山稜山頂から南東へ伸びる支尾根上段上、標高約785m地点の斜面上平場に立地する砦です。南麓の駒沢川からの比高は360m位でしょか。アプリの登録城、若槻山城の一部ではあるが、別城一郭とも言える存在感と縄張を持ち合わせている。当然、若槻山城の主郭から尾根をそのまま登れば辿り着く。やや急登だがその際の比高は110m位になる筈だ。
行き方は若槻山城に準ずるんだけど、悩ましい事に同城が素晴らし過ぎて満足してしまう方も多いと思う。主郭に設置された説明板に添付される縄張図を見れば、「番所はまぁいいや…」等と呟く方も多い事だろう。従っておいらは別の行き方を提唱する。
若槻山城は山稜中段を東西に通る林道によってGoogleマップに位置登録されている「若槻山城跡登城道入口」まで車が入るが、これを無視して長野県道37号、長野信濃線に最も近い三登山登山道(前述の林道中に入口があるが別尾根である。)を辿り、番所の後背、尾根稜線上までを登る。尾根稜線上には番所への案内板も立っているので迷う事も無いし道も比較的に緩やかだ。後は番所を経て若槻山城まで下るだけ、案内板から番所までは軽く走れば1分ちょいで辿り着く。問題となるのは車の捨て場所だが、若槻山城を下山したらほぼ林道の横移動で済むので中間点にでも置いとけば苦労はしない(スペースもある。)と思う。ちなみにおいらは尾根稜線上から外れる「番所」の立地には以前から疑問を持っていて、何か別にあるんじゃないかと期待して今回このルートを登ってみた…ところが何にも無かった…が〜んっ!
築城年代は不明、築城者は若槻山城に関係する者て事になるんだろうけど、若槻山城自体に戦国時代の改修、拡張の跡が見受けられる。番所はこの際に築かれた砦とも考えられるが、そうではないと否定する事も簡単だ。南北朝時代から室町時代、戦国時代における善光寺平の勢力関係は極めて複雑、その推移も激しく口コミの文字数では説明不可能、別の薄い物件に機会を譲り、且つ、小出しにして補完していきたい。少なくとも甲越が争った時期にのみ焦点を当てる事だけでは到底理解が及ばない。天文十九年(西暦1550年)九月、武田勢がアプリの登録城、戸石城に押し寄せた際に村上勢が対陣していたのは善光寺平の高梨勢だった。室町時代後期に従来の荘園、条里制度の枠組みを越えて善光寺平北部で最も勢力を伸長させた開発主体は高井郡を本拠とする高梨氏である。
若槻山城は「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があり、番所についてもしっかりと縄張図が描かれている。基本的に信濃のお城の神の調査は丹念を極め、それこそ城山の一山全てを探索する事も度々だが、この番所に限って言えば痛恨の見落としが存在する。縄張図には土塁囲みの主郭と主郭北側山側背後の堀切1条が描かれるのみだが、実際には主郭と別に土塁付きの郭、四連続堀切、3条の畝状阻塞、二重堀切で構成される。調査時は相当な藪だったのかもしれないが、該当尾根は三登山に至る登山道の一つでもあるので謎ではある。
砦の現況は前述のとおり、番所と言いながら要害堅固を極めるその縄張は、若槻山城の後背を守る事しか見て取れないぱ〜ぷりんな普請、短い距離の中での尾根ぽこ感に萌えまくる。一般的な道押さえの番所ではなく、下段、若槻山城への関門と考えるのが正解、同城の立地が後背地となる尾根稜線上へのアプローチが別ルートから容易である事により採られた処置だと推測する。ちなみにこの番所、主郭以南に遺構が確認出来ず、その守りを若槻山城に頼り切っている。
若槻山城の一郭でありながらリア攻めが単品で成立するよな豪華な物件、下手な山城訪ねるよりはこれだけで十分満足出来る。素晴らし過ぎる若槻山城だけで納得(気持ちは解る。おいらは主郭北側山側背後の畝状竪堀だけで2時間を費やす。)しないでっ!ちょとだけ頑張ればお宝が待っていてくれている。
※堀切の内、2条は大堀切と呼んで差し支えない。又、畝条阻塞としたのは堀切間の大土塁上に設けられた堀だから。この土塁上に登らないと確認不可能である。
※三登山への登山道は堀切間を縫う様に設定されている。これにより遺構に多少の損壊が見られる。根本的に堀切と登城路の整備は相容れない関係にあると思う。藪は勘弁だが、おいらは基本的に山城の整備を望んでいない。
2014年04月20日 まるさん伊豆守小町時間割
若槻山城
本日自宅から松代城へ向かうにあたり途中でパンクしたためJR黒姫駅付近の自転車屋さんで修理、
ついでに県道37号線にて長野市街地へ向かったため髻山城や若槻山城が近いことに道中気づいて軽い気持ちで寄り道してみました(笑)
結果的に時間の関係で城跡までは行けませんでしたが写真を投稿した長野市の蚊里田八幡宮などから若槻山城、三登山、髻山城を含めたトレッキングコースがあることを知りました!
蚊里田八幡宮の鳥居脇にはトレッキングコースについてのパンフレットも置かれていますので参考にされると良いと思いました!
それによると三登山の稜線沿いの林道で坂中峠から坂中口まで車両を使ったら1km弱で若槻山城跡に着けるようです!
城跡はよく整備されており、説明板なども配置され郭や土塁などを見ることが出来る。