若槻山城(わかつきやまじょう)
若槻山城の基本情報
通称・別名
- 若槻城、三登山城
所在地
- 長野県長野市浅川西条、若槻東条他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 若槻頼隆
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- 上杉謙信
主な城主
- 若槻氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、竪堀
指定文化財
- 市史跡(若槻山城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
髻山城(長野県長野市)[3.7km]
横山城(長野県長野市)[4.4km]
葛山城(長野県長野市)[5.1km]
長沼城(長野県長野市)[5.6km]
旭山城(長野県長野市)[6.6km]
井上城(長野県須坂市)[9.8km]
内堀館(長野県中野市)[11.1km]
吉窪城(長野県長野市)[11.4km]
霞城(長野県長野市)[11.5km]
福島正則館(長野県上高井郡)[12.5km]
若槻山城の解説文
若槻山城の口コミ情報
2024年01月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
若槻山城
さて、今回の口コミはアプリの登録城、若槻山城っす。このお城、その規模、縄張の素晴らしさ、今に残る遺構の残存率に比例せず、写真投稿数は現在のところ僅かに32枚、登録城故においらも投稿を控えていたんだけど、流石にこりは…長野市市街地からも近く北信の山城としては比較的に整備もされている。勝手に宣伝する事にしよう…
若槻山城は標高約893mの山稜山頂から南東へ伸びる支尾根中段上、標高約675m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の駒沢川からの比高は255m位でしょか。但し、徒歩で登る比高は110m位で済む。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「若槻山城跡登城口」を目標に設定して下さい。付近林道上に車も捨てられる。登り始めれば既に城域内、登城も楽だ。
築城年代は不明、築城者は若槻氏とされる。同氏はかの八幡太郎源義家の孫、頼隆が相模国毛利庄から若槻荘の地頭職に補任されて入部、若槻氏の祖となった。同荘には南北朝時代に入ると高梨氏の勢力が伸長するが、お城は騒乱の中で落城した経験を持つ。
信濃守護に補任された小笠原長秀の強引な経営(長秀を好きになれないが一応弁護しとく。そもそも論でせざるを得なかったのは信濃国人衆の在地での横領が素因の一つだ。)に反抗する信濃の国人勢力と大文字一揆衆が合力して守護方をフルボッコしたのが、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」だが、その後の応永十一年(西暦1404年)十二月、幕府の御料所となった信濃国(埒が開かなくなったので安定化を図るため直接支配に乗り出したとも言える。)に代官として下向した細川慈忠に従った市河氏貞は、自らの功を書き上げて注進し、慈忠から証判、「市河氏貞軍忠状」を得ている。長くなるので割愛するが、その中に、「…并同十一年九月高梨左馬助依背上意、為御退治、大将細河兵庫助殿奥郡御発向時、桐原、若槻、下芋河之要害責落、加佐、蓮至東条御陣、抽軍忠状、上方御見知上者、給御証判為備後代亀鏡、恐惶言上如件、」とあり、氏貞が、慈忠に従って上意に背く高梨左馬助(朝秀)と戦い、桐原(水内郡、同郡における高梨氏の支配拠点であった。)、若槻、下芋河の要害を攻め落とし、若槻新庄の内、加佐(替佐)、蓮に至り、東条(高井郡、若槻山城の位置する水内郡東条荘とは同名異地である。)に陣を進めた旨等が証される。戦国時代の改修、拡張の跡が見て取れる若槻山城だが、既にこの時期に高梨氏の要害として機能していた事は確実だろう。又、軍忠状に列挙される地名は裏を返せば当時の高梨氏の知行地等であり、誰もが頭を抱える内堀館のリア攻めマップにある今井北城、替佐城の要害としての発生も同氏に求める事が出来るのかもしれない。
お城は大変素晴らしい。縄張図なんか無くても地形模型図を見れば概ねは判る。登城路中の段郭に始まり、高低差を持つ面積の広い連郭式、六段の郭がその中心、これ等に付く土塁も明瞭、主郭の腰郭的に通称2郭に付く水の手に萌える事間違い無し。堀切や竪堀はファジーなものもあるが、主郭南側谷側下段に端を発する竪堀の切れ味は良好だ。
このお城、最大の見所は主郭北側山側背後にある。比較的東側に緩い斜面となるこの部分は二重堀切と堀切が連続する濃い縄張、斜面に付く堀切から落とし込まれる竪堀の長大さは感動もの。特に合間に段郭を設けて列線を描く連続竪堀(正確に言うと畝状竪堀ではない。)は主郭のぽこりん感と相まって見る者を唖然とさせる事だろう。
…但し、冬枯れしないと見れない光景ではある。藪が生い繁ると進入すら拒むかもしれない。実際、冬場でも低雑木が元気だ。おいら、Jr.アイドルなのに額部に擦過傷2箇所を負う痛恨のミス、写真集とDVDの撮影が間近に迫る中、他のメンバーと所属事務所、関係各位に再び御迷惑を掛けてしまった事をこの場を借りて深くお詫びする。
※不思議な事だが、高梨氏は室町幕府に表立って反抗する姿勢は持っていない。常にその矛先は信濃国における守護権力等にあり、既成事実化する同氏の領国支配を弱体化させるこれ等に抗う事により自らの権益の保全を図ろうとした。又、それを可能とする背景には「観応の擾乱」以降の混沌とした信濃国の情勢が色濃く反映している。
※梯郭式と連郭式の違いがよく解らん…一応勉強したんだけど、「梯」の持つ意味を考えれば世間一般で唱えられている両者の違いは不審じゃないのかな…等と怒られそうな事を言ってみる。どなたかおいらの初歩的な疑問に優しく接して下さる方は御教授願います。
※写真は全て主郭北側山側背後のものだけど写真①〜④と写真⑤〜⑧では撮影日が異なる。今年に入ってから既に2回の訪問、理由は単純に好きだから。善光寺平を代表するに相応しい山城だ。
2024年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
正覚寺跡[若槻山城 寺社・史跡]
正覚寺跡は若槻山城の東南東約0.7km、標高893mの山稜山頂から南東へ伸びる尾根下段上、標高約521m地点の緩斜面上平場に立地した寺院です。該地は若槻山城の立地する山尾根とは別の尾根筋に当たる。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…ちなみに隣接する三登山への登山道から説明板が見えるので該地の特定はすんなりだ。
正覚寺は浄土宗の寺院で創建は鎌倉時代、若槻荘の地頭職、源(若槻)頼隆の曾孫、頼繁、その嫡男義繁の舎弟、左衛門尉頼清が開基、親鸞上人の法弟、善性が開山したと伝わる。頼清は後に出家し浄覚と号した。正覚寺は永禄年間(西暦1558年〜1570年)、兵火により焼亡するも、寺地は天正年間(西暦1573年〜1592年)に越後国長岡に移り現在に至る。元和年間(西暦1615年〜1624年)、長岡から戻った同寺の一門は水内郡長沼に若槻山正覚寺を創建、住職は若槻姓を名乗りお寺さんを世襲しているんだそう。但し、長岡の正覚寺との往来は久しく途絶えているらしい。
神社仏閣は門外漢なおいらだけど、武家の創建ともなれば話は別だ。しかも正覚寺の立地は若槻山城の下段に当たり、別尾根とはいえ、同じ若槻山城のリア攻めマップにある堂沢出城とはほぼ同一標高で対を成す。寺院としてだけではなく、ある程度の城砦機能を有していたと考えてみても一向に不思議では無い。
寺院跡には明治の初頭までは鐘楼の跡、塔中として建立された正覚寺跡(意味不明なんでどなたか御教授して下さいまし。)も見られたとするが、現在は横堀、土塁、石積みの一部が残るのみである。横堀は2条が確認出来ると思うが、その内、西北辺の1条は不思議な付き方をしている。後世の改変か単なる目的に合わせただけの副産物(上方には若槻温泉の源泉である「蚊里田の鉱泉」が位置する。お寺さんの立地も含めて何となくだが無縁ではないような気がする。ちなみにこの鉱泉、管理されているとはいえ山中掛け流しで麓近くまで落ちる。)なのかもしれない。又、横堀に面する土塁様の土の高まりも見られるが、そもそも論で境内の範囲、堂宇の位置が不明確であり、その方向性がよく判らない。石積みの方は積雪故に眼を凝らしても見付ける事が出来なかった。細かな遺構は当初から期待していないのでよしとしよう。
堀や土塁で囲まれるのが中世寺院の特徴とされるが、その目的は堀の内の貴重な物を守る為だけではないだろう。祈願寺や菩提寺の他、時には領内の城砦として機能し、それ故に焼き討ちの対象となる事も度々であった事は各地の歴史が証明している。
お寺さんの跡だけど、立地や歴史も含めて意外にも楽しめた。てか下手な居館跡を訪ねるよりはよっぽど面白い。ちなみにおいらが新城発見の可能性が高い場所として考えているのが、正覚寺跡東北方、「旧山千寺」の周辺だ。既に目星は付けてあるので、徒労に終わるんだろうけど今度確かめに行ってみる。
※写真①は要るのか知らんけど林道から撮影した近景っす。
2024年01月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
堂沢出城[若槻山城 周辺城郭]
さて、今回紹介する物件は平成十五年(西暦2003年)五月九日、長野市立若槻小学校、六年一組の生徒達によって発見されたお城っす。後に長野市教育委員会埋蔵文化財センターの学芸員による数回の現地調査により山城跡の可能性が高い事が確認されて現在に至る。長野市の遺跡台帳にも登録されており、謂わゆるそこら辺の色物物件とは訳が違う。
堂沢出城は若槻山城の南東約0.6km、標高893mの山稜山頂から南東へ伸びる支尾根下段上、標高約538m地点の緩斜面上平場に立地する砦です。南麓の駒沢川からの比高は135m位でしょか。更に言えばアプリの登録城、若槻山城の主郭から派生する三つの尾根の内の一つでもあり、尾根をそのまま下れば若槻荘の総鎮守社、同じ若槻山城のリア攻めマップにある蚊里田八幡宮の西側に至る。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北方、尾根上段の「若槻山城跡登城道入口」を目標に設定して下さい。少し離れた場所に「堂沢出城跡260m」の案内板が立っているので迷わない。
若槻山城、堂沢出城は長野県長野市若槻東条に位置する。平安時代末期には成立していた若槻荘の内であり、東条、西条を本郷とする同荘域の中心地である。別に東条には若槻荘の地頭職、若槻氏の居館城である同じ若槻山城のリア攻めマップにある若槻里城が立地し、堂沢出城の立地は若槻里城と山中の要害である若槻山城との中間点に当たる。
長野市の不思議に、浅川東条と浅川西条、東西の位置が逆問題(浅川東条の東方に浅川西条が位置する。)と若槻東条と若槻西条、東西の位置が逆問題(若槻東条の東方に若槻西条が位置する。)があるが、これは明治時代の初期に存在した東条村と西条村が元々変な形で隣り合っていた事に起因する。説明すんのが面倒なんでしないけど、その後の分割、合併の過程で区割りが変わり、古い地名が残った場所が前述の4区域て事になる。旧東条村と旧西条村は明治時代の絵図が現存するが、若槻荘の東条、西条の範囲をそれぞれ概ねで踏襲していたと考えられる。
若槻荘東条の一部には室町時代に入ると高梨氏の勢力が伸長する。明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、その中に、「東条荘内石渡部、堀、尾張部散在、高岡郷、小井郷、吉田村知行分 与一」、「東条荘内中駒沢 昌頼」、「東条荘内中駒沢内墨沼四郎跡 虎王丸」とある。高井郡の有力国人領主である同氏は、長沼島津氏と一揆を結びながら次第に善光寺平へ進出、知行地の開発を拡大させていく。
若槻荘の地頭職、若槻氏もその過程で高梨氏の影響下に置かれたものと考えられ、経緯不明なるも同氏は後に高梨氏の一門(前注進状には若槻本庄が若槻左衛門蔵人氏朝とその一族等の知行地である旨が記される。)となっている。当然姻戚関係が推測されるが、これに伴い在地土豪としての独立性は失われたように思える。
お城は4つの郭に土塁、虎口が見られるて現地説明板には書かれるが、4つ目の郭が何処になるのかがよく判らない。土塁は高さもあるしっかりとしたもの、虎口も確認出来るが、後世の改変の可能性は無いのだろうか。又、該地に残る横堀様の地形は堰路のような気がする。はっきりとさせる事は難しいんだろうけど、同様のものは周辺、同じ若槻山城のリア攻めマップにある正覚寺跡にも見られる。全体的には砦てよりは居館城の趣だ。
新城発見…羨ましい…エキストリームな変態達にとって究極の目標はこれに尽きる。が、地形模型図で必死に怪しい地形を探し出そうとする不純な大人には所詮無理な話なんだろう。おいらもJr.アイドルの内に頑張りたいものだ。ちなみに若槻山城の下段には怪しい地形が連続する。前述の正覚寺の東方にも非常に疑わしい地形がある。もし認定されたとしたら、「内記かずり城」て命名してもよいのだろうか…
※写真①は上段林道中に立つ案内番、此処から大して下る事もなく辿り着く。軽く走って1分位の距離だ。
2024年01月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
若槻山城番所[若槻山城 周辺城郭]
さて、今回は番所の口コミ…以前にも木戸や番所を紹介した事があったけど、今度ばかりはどうか引かないで下さいまし。密度濃く遺構が連続するスペシャルな番所、そもそも論で一般的な番所として認識される事自体が大きく間違っちょる。
若槻山城番所(わかつきやまじょうばんどこ)は若槻山城の北北西0.4km、標高893mの山稜山頂から南東へ伸びる支尾根上段上、標高約785m地点の斜面上平場に立地する砦です。南麓の駒沢川からの比高は360m位でしょか。アプリの登録城、若槻山城の一部ではあるが、別城一郭とも言える存在感と縄張を持ち合わせている。当然、若槻山城の主郭から尾根をそのまま登れば辿り着く。やや急登だがその際の比高は110m位になる筈だ。
行き方は若槻山城に準ずるんだけど、悩ましい事に同城が素晴らし過ぎて満足してしまう方も多いと思う。主郭に設置された説明板に添付される縄張図を見れば、「番所はまぁいいや…」等と呟く方も多い事だろう。従っておいらは別の行き方を提唱する。
若槻山城は山稜中段を東西に通る林道によってGoogleマップに位置登録されている「若槻山城跡登城道入口」まで車が入るが、これを無視して長野県道37号、長野信濃線に最も近い三登山登山道(前述の林道中に入口があるが別尾根である。)を辿り、番所の後背、尾根稜線上までを登る。尾根稜線上には番所への案内板も立っているので迷う事も無いし道も比較的に緩やかだ。後は番所を経て若槻山城まで下るだけ、案内板から番所までは軽く走れば1分ちょいで辿り着く。問題となるのは車の捨て場所だが、若槻山城を下山したらほぼ林道の横移動で済むので中間点にでも置いとけば苦労はしない(スペースもある。)と思う。ちなみにおいらは尾根稜線上から外れる「番所」の立地には以前から疑問を持っていて、何か別にあるんじゃないかと期待して今回このルートを登ってみた…ところが何にも無かった…が〜んっ!
築城年代は不明、築城者は若槻山城に関係する者て事になるんだろうけど、若槻山城自体に戦国時代の改修、拡張の跡が見受けられる。番所はこの際に築かれた砦とも考えられるが、そうではないと否定する事も簡単だ。南北朝時代から室町時代、戦国時代における善光寺平の勢力関係は極めて複雑、その推移も激しく口コミの文字数では説明不可能、別の薄い物件に機会を譲り、且つ、小出しにして補完していきたい。少なくとも甲越が争った時期にのみ焦点を当てる事だけでは到底理解が及ばない。天文十九年(西暦1550年)九月、武田勢がアプリの登録城、戸石城に押し寄せた際に村上勢が対陣していたのは善光寺平の高梨勢だった。室町時代後期に従来の荘園、条里制度の枠組みを越えて善光寺平北部で最も勢力を伸長させた開発主体は高井郡を本拠とする高梨氏である。
若槻山城は「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があり、番所についてもしっかりと縄張図が描かれている。基本的に信濃のお城の神の調査は丹念を極め、それこそ城山の一山全てを探索する事も度々だが、この番所に限って言えば痛恨の見落としが存在する。縄張図には土塁囲みの主郭と主郭北側山側背後の堀切1条が描かれるのみだが、実際には主郭と別に土塁付きの郭、四連続堀切、3条の畝状阻塞、二重堀切で構成される。調査時は相当な藪だったのかもしれないが、該当尾根は三登山に至る登山道の一つでもあるので謎ではある。
砦の現況は前述のとおり、番所と言いながら要害堅固を極めるその縄張は、若槻山城の後背を守る事しか見て取れないぱ〜ぷりんな普請、短い距離の中での尾根ぽこ感に萌えまくる。一般的な道押さえの番所ではなく、下段、若槻山城への関門と考えるのが正解、同城の立地が後背地となる尾根稜線上へのアプローチが別ルートから容易である事により採られた処置だと推測する。ちなみにこの番所、主郭以南に遺構が確認出来ず、その守りを若槻山城に頼り切っている。
若槻山城の一郭でありながらリア攻めが単品で成立するよな豪華な物件、下手な山城訪ねるよりはこれだけで十分満足出来る。素晴らし過ぎる若槻山城だけで納得(気持ちは解る。おいらは主郭北側山側背後の畝状竪堀だけで2時間を費やす。)しないでっ!ちょとだけ頑張ればお宝が待っていてくれている。
※堀切の内、2条は大堀切と呼んで差し支えない。又、畝条阻塞としたのは堀切間の大土塁上に設けられた堀だから。この土塁上に登らないと確認不可能である。
※三登山への登山道は堀切間を縫う様に設定されている。これにより遺構に多少の損壊が見られる。根本的に堀切と登城路の整備は相容れない関係にあると思う。藪は勘弁だが、おいらは基本的に山城の整備を望んでいない。
2014年04月20日 まるさん伊豆守小町時間割
若槻山城
本日自宅から松代城へ向かうにあたり途中でパンクしたためJR黒姫駅付近の自転車屋さんで修理、
ついでに県道37号線にて長野市街地へ向かったため髻山城や若槻山城が近いことに道中気づいて軽い気持ちで寄り道してみました(笑)
結果的に時間の関係で城跡までは行けませんでしたが写真を投稿した長野市の蚊里田八幡宮などから若槻山城、三登山、髻山城を含めたトレッキングコースがあることを知りました!
蚊里田八幡宮の鳥居脇にはトレッキングコースについてのパンフレットも置かれていますので参考にされると良いと思いました!
それによると三登山の稜線沿いの林道で坂中峠から坂中口まで車両を使ったら1km弱で若槻山城跡に着けるようです!
城跡はよく整備されており、説明板なども配置され郭や土塁などを見ることが出来る。