押田城
押田城([若槻山城 周辺城郭])
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押田城の口コミ情報
2024年04月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
押田城は若槻山城の南南西約1.0km、駒沢川北岸(左岸)、標高923mの三登山の前衛山塊を構成する一つ、標高約499mの山稜山頂部に立地する要害です。南麓の押田バス停からの比高は65m位でしょか。但し、山稜の北東側は台地と連続しており、此処からの比高はマイナスである。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…登城は南麓から果樹園を登る農道を辿るのがベスト、比高が無いからといって北東側から取り付くと激藪地獄に陥る。
築城年代は不明、築城者は押田氏とされる。同氏は若槻庄の地頭職となった河内源氏、源頼隆の孫、頼広を祖とする。里伝によれば、押田に住して押田太郎を称した頼広の末孫が築城に及んだんだそう。押田氏は頼隆が鎌倉幕府内における北条氏と三浦氏の対立に巻き込まれ討死すると、下総の千葉氏の庇護を受けて同氏に近侍、縁戚関係をもって千葉氏の一門となり、子孫は幕臣として存続したとされるが事の経緯には再考が必要だと考える。おいらは少なくとも同氏に2系統があったんじゃないかと考察する。
城域内には墓所があり、石塔には「押田住 熊野井治部太輔一行子孫家系代々同會 墓」と刻まれ、その家紋は武田菱である。今でも南麓の縄張図における通称5郭には熊井さんがお住まいで、同家は押田氏の後裔とされる、色々お話しを聞きたかっんだけど、突撃お宅訪問は庭先で忙しそうだったんで止めといた。
実は再挑戦となる。初回訪問時はビジネスシューズにビジネススーツで北東側から取り付いたんだけど、背丈位の熊笹藪とちくちく、とげとげした草木に阻まれて3歩で断念、あの時のおいらはどうかしてたぜ…住宅地の裏山とはいえ完全に舐めていた。
お城は主郭まで辛うじて道が付き、戦後に耕作地として開墾された主郭部に限って言えば比較的に探索が容易だ。が、城域内の殆どは激藪で信濃のお城の神も探索の大半を諦めている程、熊笹藪、蔦藪、ちくちく、とげとげした草木、矢竹の密集、更には倒木までもが物理的な進入を拒む。はっきり言って縄張を全て確認するのは無理っすわ…
但し、遺構が残っていない訳じゃない。びっくりしたのは主郭北側山側背後の大堀切と南東側へ落とし込まれる長大な竪堀、これ等については完璧なまでに遺構が残存している。おいらは竪堀を20m位下りてみたけど、その先もまだ続いていた。が、前述のとおり激藪なんで悪しからず…僅かな距離だが下りて戻って来るだけで30分以上を費やしている。苦労して撮った写真は見事なまでの草写真、後日に削除しまちた…
神本以外でのまともな紹介例は皆無であり、ネットで検索してもヒットしない。初物ではあるんで参考程度に納めて下さいまし。ちなみに「長野県町村誌」には絵図が掲載されている。同誌の絵図は難解な物が多いが押田城は割といい感じ…この絵図を見ると主郭には半狐を描く土塁が付いていたようだ。
※写真⑥は大堀切を頑張って撮ったもの。なんじゃこりゃ…ちなみに写真⑦は竪堀、こり以上無理っすわ…
※写真⑧の車の車種名が判る方、伝言で教えて下さいまし。