土京城(土京山城)

土京城(土京山城)([若槻山城  周辺城郭])

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土京城(土京山城)の口コミ情報

2024年04月26日 内記かずりヾ(・ε・。)


土京城(土京山城)は若槻山城の東南東約1.2km、土京川北岸(左岸)、標高923mの三登山の前衛山塊を構成する一つ、標高約517mの山稜山頂部に立地する砦です。南麓の若槻・あじさいの湯からの比高は85m位でしょか。北西側には用水路を挟んで同じ若槻山城のリア攻めマップにある鐘撞堂山が立地する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは北側からとなり、地図上でも確認出来る農業用貯水池を目指せば案内板が要所に立っているので迷わない。登城路入口となる切通しからの比高は15m位、ビルの3階に階段で登るよりは遥かに楽だ。道は一直線、主郭まで2分も掛からない。

築城年代、築城者は不明です。該地は若槻荘の本郷の一つであった若槻西条に位置する。当然、若槻荘の地頭職、若槻氏が築城者として有力だが、後の経過からすればそうだとも言い切れないものがある。但し、若槻山城に関係する城砦の一つである事に異論は差し挟まない。これに付随する狼煙台や物見台の類いであろうか。

お城は丸山と言ってよい小山であり、山頂部を削平し下段周囲に帯郭状の腰郭を巡らせた単純なもの。別に主郭北側に埋まりまくった堀切が1条付く。主郭には土塁様の土の高まり、中央部には中部電力の送電線用鉄塔、No.4が潔く屹立、他に説明板と並んで城跡碑が建っている。たぶん展望は抜群によいと思われるが樹木に遮られて現在は一方向にしか開けていない。又、城域北側の小湿地には「馬屋窪」と呼ばれる場所があり、恒久的な砦であった事を窺わせている。但し、説明板にある、「南側には追手があり、」を現況から確認するのは不毛な作業である。

主郭に鉄塔が建っている訳なんだけど、おいらはこの程度の改変なら気にならない。興醒めするのは確かだけど、少なくともお城の基本形を大きく損なうような事はないからだ。又、このお城の藪が定期的に刈り払われているのは鉄塔整備の一環でもある。登城さえ拒む激藪のまま放置されるよりは遥かにましな事だと考える。

「川中島の戦い」は川中島周辺地域で繰り広げられた五次まで数えられる長きに亘る一連の戦いを指し、弘治三年(西暦1557年)、第三次川中島の戦いは通称、「上野原の戦い」とも呼ばれている。戦い自体は小競り合いに終始したらしいが、正確に何処が主戦場となったのかは不明である。一説によれば、アプリの登録城、髻山城の周辺とされ、土京城の位置する現在の長野市上野がこれに比定されている。もしかしたら甲越の間で取り合いとなった砦かもしれない…地味な物件だけど、そんな想像をすると違った視点で周辺地域が見えてくる。

※「川中島の戦い」は第四次の戦い、通称、「八幡原の戦い」ばかりが注目されるが、明確な目標を持って着々と布石を打ち続ける武田氏の経略は上杉氏を常に後手の状況に追い込んでいる。武田氏が決戦を避けて川中島の確保に傾注したのは勝敗を決する必要性が希薄だったからだろう。おいらは弘治三年末の時点で川中島の帰趨はほぼ確定していたと考えている。それを後に決定的としたのはアプリの登録城、海津城(後の松代城だ。)の築城だ。拠点城に城代を置き、在地国人領主や在地土豪等を城代の寄子、城番衆として取り込み既存の各要害から切り離す…武田信玄の城の取り立て方は近世城郭にも通じるものがあると思う。後世言われるように信玄が城の存在を軽視したなんて事はあろう筈も無い。むしろ城の持つ本質を実によく理解していたと考える。

※薄い物件だけど再訪となる。初回訪問時はカメラのバッテリー切れで陣払い。

※写真⑧は鉄塔マニア向け。上を向きながらの己の平衡感覚が試される。5枚位撮り直している…

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