正覚寺跡
正覚寺跡([若槻山城 寺社・史跡])
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正覚寺跡の口コミ情報
2024年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
正覚寺跡は若槻山城の東南東約0.7km、標高893mの山稜山頂から南東へ伸びる尾根下段上、標高約521m地点の緩斜面上平場に立地した寺院です。該地は若槻山城の立地する山尾根とは別の尾根筋に当たる。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…ちなみに隣接する三登山への登山道から説明板が見えるので該地の特定はすんなりだ。
正覚寺は浄土宗の寺院で創建は鎌倉時代、若槻荘の地頭職、源(若槻)頼隆の曾孫、頼繁、その嫡男義繁の舎弟、左衛門尉頼清が開基、親鸞上人の法弟、善性が開山したと伝わる。頼清は後に出家し浄覚と号した。正覚寺は永禄年間(西暦1558年〜1570年)、兵火により焼亡するも、寺地は天正年間(西暦1573年〜1592年)に越後国長岡に移り現在に至る。元和年間(西暦1615年〜1624年)、長岡から戻った同寺の一門は水内郡長沼に若槻山正覚寺を創建、住職は若槻姓を名乗りお寺さんを世襲しているんだそう。但し、長岡の正覚寺との往来は久しく途絶えているらしい。
神社仏閣は門外漢なおいらだけど、武家の創建ともなれば話は別だ。しかも正覚寺の立地は若槻山城の下段に当たり、別尾根とはいえ、同じ若槻山城のリア攻めマップにある堂沢出城とはほぼ同一標高で対を成す。寺院としてだけではなく、ある程度の城砦機能を有していたと考えてみても一向に不思議では無い。
寺院跡には明治の初頭までは鐘楼の跡、塔中として建立された正覚寺跡(意味不明なんでどなたか御教授して下さいまし。)も見られたとするが、現在は横堀、土塁、石積みの一部が残るのみである。横堀は2条が確認出来ると思うが、その内、西北辺の1条は不思議な付き方をしている。後世の改変か単なる目的に合わせただけの副産物(上方には若槻温泉の源泉である「蚊里田の鉱泉」が位置する。お寺さんの立地も含めて何となくだが無縁ではないような気がする。ちなみにこの鉱泉、管理されているとはいえ山中掛け流しで麓近くまで落ちる。)なのかもしれない。又、横堀に面する土塁様の土の高まりも見られるが、そもそも論で境内の範囲、堂宇の位置が不明確であり、その方向性がよく判らない。石積みの方は積雪故に眼を凝らしても見付ける事が出来なかった。細かな遺構は当初から期待していないのでよしとしよう。
堀や土塁で囲まれるのが中世寺院の特徴とされるが、その目的は堀の内の貴重な物を守る為だけではないだろう。祈願寺や菩提寺の他、時には領内の城砦として機能し、それ故に焼き討ちの対象となる事も度々であった事は各地の歴史が証明している。
お寺さんの跡だけど、立地や歴史も含めて意外にも楽しめた。てか下手な居館跡を訪ねるよりはよっぽど面白い。ちなみにおいらが新城発見の可能性が高い場所として考えているのが、正覚寺跡東北方、「旧山千寺」の周辺だ。既に目星は付けてあるので、徒労に終わるんだろうけど今度確かめに行ってみる。
※写真①は要るのか知らんけど林道から撮影した近景っす。