旭山城(あさひやまじょう)

旭山城の基本情報

通称・別名

朝日山城

所在地

長野県長野市平柴

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

栗田鶴寿?

築城年

室町時代

主な改修者

上杉謙信

主な城主

小笠原氏

廃城年

遺構

曲輪、腰曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

葛山城(長野県長野市)[1.9km]
横山城(長野県長野市)[2.7km]
吉窪城(長野県長野市)[4.8km]
若槻山城(長野県長野市)[6.6km]
霞城(長野県長野市)[8.4km]
横田城(長野県長野市)[9.0km]
福平城(長野県長野市)[9.8km]
松代城(長野県長野市)[10.2km]
髻山城(長野県長野市)[10.3km]
長沼城(長野県長野市)[10.4km]

旭山城の解説文



旭山城(あさひやまじょう)は、信濃国水内郡長野村旭山(現在の長野県長野市平芝)[1]にあった日本の城(山城)。

概要 

] 旭山城の築城時期は不明だが、かなり古い時代から置かれてらしく戦国時代初期には村上氏に属した朝日右近と言う守将が居たと伝えられている。

第二次川中島の戦い

天文24年(1555年)、第二次川中島の戦いで、善光寺別当栗田鶴寿(栗田寛久)は武田晴信(武田信玄)と通じ、鉄砲300と弓800、兵3000の支援を受けて善光寺の西にあるこの旭山城に籠もった。

長尾景虎(上杉謙信)は、善光寺東側にある横山城に陣を構えていたが、謙信は付城となる葛山城を裾花川対岸の山上に築いた。

対陣は数ヶ月に及んだが、今川義元の仲介で和議が成立した。和議の条件として旭山城の破壊が盛り込まれ、破壊された。

第三次川中島の戦い

弘治3年(1557年)、第三次川中島の戦いで、弘治3年(1557年)武田軍が葛山城を急襲し落城させると、翌年、長尾景虎も雪解けを待って出陣し旭山城を再建し守兵を置いた。

第四次川中島の戦い

永禄4年の第四次合戦では越後軍の川中島進出や引き上げの際には重要な役目を果たし、特に退陣の小荷駄隊が犀川小市の渡しを渡河する際には旭山城を駆け下りた守兵の援護で、武田軍の追撃をかろうじて振り切ったと伝えられている。

永禄4年(1561年)冬、謙信が越後から出られなくなると、時の守将であった小柴見宮内(小柴見城主)は援護を得られず武田方に滅ぼされ、記録に出なくなったので廃城になったと思われる。

遺構 

構造としては、石垣の痕跡が主郭などにあり、何本もの堀切や竪堀、そして横堀の存在も認められる[2]

  • 主郭跡 - 「朝日山城」城址碑。
  • 物見台 - 川中島古戦場や長野駅などが眺望できる。

交通 

  • JR北陸新幹線・長野駅から徒歩60分
  • 上信越自動車道・長野ICから20分
    • 朝日山観世音堂駐車場

参考文献 

  • 小柴見城跡、長野市教育委員会・長野市水道局、1988年
  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

旭山城の口コミ情報

2025年01月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽殿屋敷[旭山城  周辺城郭]



さて、長野県には木曽郡以外にも城館?の名称に「木曽」が付く物件が数箇所存在する。別に木曽義仲が築いた訳でもなければ、中世の木曽氏が関係している訳でもない。簡単に言えば、敗死した義仲の一族や一党が追討を逃れて隠れ住んだとする伝承が残る場所であり、大抵は人里離れた何の脈絡も無い突飛な山中に位置している。

おいらは今までに3件程この手の物件をリア攻めしているんだけど、これ等に共通する感想は「二度と行かねぃ…」だ。林道から近いとはいえ、見渡す限りの山の中、人里離れたてよりは人の入らなくなった原生林の中を彷徨っているに等しい物件(木曽城、木曽の城)もあれば、ウィンタースポーツのシーズン中に長靴でリフトに乗り、後ろ指を指されながら滑る方向とは逆に登って該地を目指したなんて事もある(木曽殿館一ノ物見)。山頂でもない周囲と隔絶した山中の不明瞭な一点を目指すのだから、登城?中は常に気持ちが後ろ向き、そして苦労して得られる成果が何一つ無い(殆ど地山っす。)。

今回紹介する「木曽」は、前述とは違い車で横付けが出来る楽ちん物件、安心してつかぁさい。但し、色々と問題があると思う。

木曽殿屋敷(朝日氏邸)は旭山城の南東約0.9km、裾花川西岸(右岸)、標高約486mの丘陵地上平場に立地した屋敷です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地の上段に付く舗装農道の路肩に捨てられる。てか時間を取らないんで路駐でもOK♪レベルだ。ちなみに初訪問になるんだけど、旭山城の帰り道に寄ろうと決めていても毎回の如く通り過ぎてしまっていた。今回も旭山城リア攻めの余韻に浸ってしまい勢い余って見事にスルー、結局鬼バックして何とかリア攻めに漕ぎ着けた。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽義仲の嫡男、義高の舎弟である某、その後裔、朝日氏と伝わるが…

「長野県町村誌」には、「本村の東北(平柴村東北)の方字木曾殿屋敷地にあり。東西二十間(約36.4m)、南北二十六間(約47.3m)、現今民有畑に属せり。里俗傳に古時年暦不詳、鎌倉府の時 志水(清水)冠者義高の舎弟某本村に潜居し、其裔朝日右近村上氏に属すと云ふ。一に甲越戦争の頃、小柴見宮内子朝日右近あり、里老の口碑に、本村(安茂里村)の内平柴を領すと云ふ。事跡不詳。」とある。

まず、清水冠者義高の舎弟、某だが、実在するのかについては限り無く疑問、仮に実在していたとしても、その年齢は義高を越える事はないのだから潜居した時の年齢は十二歳より下の筈だ。又、該地の平柴は南北朝時代に至ると守護所が置かれた場所である。潜居先としては不適当、つまりは全然潜めていない感じ…

「小柴見宮内子朝日右近」が平柴を領したとする記述から現実性を帯びてくる。村上氏に属したともあるが、これは小柴見氏自体が村上氏に服属する小田切氏、もしくは栗田氏に従う在地土豪であったからであろう。従って裏付け出来るような史料を欠いているとしても、該地を単純に朝日氏の屋敷跡とする方が遥かに賢明だ。木曽氏云々は後背地の旭山(朝日山)と朝日将軍にかこつけた仮冒に過ぎないと思われる。

屋敷の現況は…果樹園となっている。既に町村誌が成立した明治時代初頭には畑地となっていたのだから致し方ない。但し、同誌に添付された絵図とも全く変化が無いのも事実…上段から緩斜面上に張り出す微高地が屋敷地の範囲としてそっくりそのまま残されている。谷側に見られる土留めの石垣は後世の改変、城郭遺構は何一つ見出せないが、もやもや悩む事も無いので実に気持ちが良い。ちなみに展望が非常に優れている。こんな目立つ場所に義仲の実子が潜居するなんて事はまずあり得ないわ…

該地の平柴には今も田地が存在しない。善光寺領となった近世の平柴村時代には「正保郷帳」に、「皆畑 旱損(かんそん)所」と注記された程だ。山際上段の乏水地に井水等で水を引く事は到底叶わなかったのだろう。町村誌の記述から、少なくとも室町時代には平柴を知行地とする武士があった事になる訳だが、その経営とは一体どんなものであったのだろうか。考え出すと夜も眠れなくなるわ…

※朝日右近〜旭山城の築城者を同名とする伝承がある。少なくとも同城の発生には関係しているとも言えそうだが…

※何のアナウンスも無いが、屋敷地に隣接して「木曽屋敷1号墳」と呼ばれる古墳を見る事が出来る。ちなみに小柴見、平柴地区には22基の古墳(横穴式円墳)が点在している。

※写真④は木曽屋敷1号墳を撮影したもの。

2024年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
旭山城



さて、今回は善光寺平で最も有名なアプリの登録城をご紹介〜今まで何故か口コミしていなかったんだけど、携帯のメモの中に走り書きを見付けたんでこの機会に…たぶん面倒になってたんやろ…

3回目の訪問…い、いや4回目だったかな。善光寺平に来ると行きたくなるお城、今年の城納めに選ばせてもらった。単純にかっちょよいんすわ。ちなみに有名なのは伊達じゃなくて甲越が争った時期には非常に重要な役割を果たしている。各種書状にも直接登場する信濃では稀有な山城でもある。

旭山城は裾花川南岸(右岸)、標高785mの旭山山頂部を中心に立地する要害です。北麓の裾花川からの比高は395m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ガチに登ったら大変な事になるが、旭山山頂部の南西側下段へ伸びる、林道、朝日山線を使えば楽が出来る。車は同じく位置登録がある「朝日山観世音堂」の駐車場に捨てるとよい。徒歩で登る比高を170m位に抑えられる。

築城年代、築城者は不明だが、築城者を善光寺別当でもあった村上氏の分流、栗田氏とするものがある。同氏については書こうと思えばいくらでも書けるので別の機会に譲る。

城歴については、アプリの城郭基本情報を参照して下さい…なんだけど、この中に、「天文24年(1555年)、第二次川中島の戦いで、善光寺別当栗田鶴寿(栗田寛久)は武田晴信(武田信玄)と通じ、鉄砲300と弓800、兵3000の支援を受けて善光寺の西にあるこの旭山城に籠もった。」との一文がある…栗田鶴寿が武田氏に同心して立て籠ったのは事実だが、武田氏が入れた人数と編成をそのまま鵜呑みにしてもよいものなんだろうか。出典は「勝山記」らしいが、貫高制に基づく諸人による軍役制の集合体である武田勢に兵科ごとのフレキシブルな編成が可能であったとは到底思えない。ゲームじゃないんだぜ。会社だったら、「旭山支社で使うから、各支社から鉛筆3本、ボールペン8本、社員を30人用意してそれぞれ送ってね。」みたいな話だ。差し出した側の軍役は一体どうなるんだて事だし、大体にして誰がその人数を纏め上げるんだ。

弘治二年(西暦1556年)六月廿八日、長慶寺衣鉢侍者禅師宛、長尾弾正少弼宗心(景虎)書状案には、「彼國(信濃)過半晴信被入手、既可有一変躰ニ候間、両度出陣、去年之事者、向旭之要害、取立新地、敵城致擒之上、對晴信可遂興亡之一戦之外、無拠候処ニ、甲陣及浮沈、属駿府無事之儀様々悃望、誓詞并條目以下被相調之上、色々義元御異見之間、抛萬障、旭之地悉々破却、以和与之儀納馬候、依之彼國味方中、于今安泰ニ被渡候、雖自讃之様候、宗心不令助成候者、各名絕無疑候、…」とあり、「旭之要害」、「旭之地」として旭山城が登場する。

弘治三年(西暦1557年)五月十日、土佐林能登入道宛、長尾弾正少弼景虎書状には、「就到于信州出陣、去頃野島平次右衛門瀬波郡下向之刻、一筆令啓之處、御懇報候、本懐祝著候、去月十八越山、同二十五、敵陣数ヶ所、根小屋以下悉放火、同日旭要害再興居陣候、如何共廻武略、晴信引出、可遂一戦覚悟候、其上従敵地、種々申刷旨候、因玆、近日者先相延動候、如承爰元備無油断候、可御心安候、恐々謹言、」とあり、「旭要害」として旭山城が登場する。

お城はアプリの登録城なんで多くを語らないけど、月並みな言い方をすれば要塞感に満ち溢れている。高い切岸を持つ段郭の央部を真っ直ぐに貫く巨大な竪堀なんて尿漏れパッドしといて良かったわ。ちなみに2番目に見るであろう竪堀、こいつがとんでもないわっ!キリが無さそうだったんで下りるのを途中で止めたけど、その長大な事といったら開いた口が塞がらない感じ(地形模型図を見ると登って来た林道にぶち当たる…)…たぶんB4サイズのA5ランクの焼肉を口の中に入れられても気が付かないかもしれん。

長尾景虎はこの要害が武田勢に押さえられた事によって善光寺平、川中島における行動の自由を一時的に失ったとも言える。その理由を知りたければ、縄張図における通称3郭から眼下を見渡してみるとよい。犀川の渡し場を扼し直接の障りであるのは勿論の事、長尾勢が度々本陣を置いたアプリの登録城、横山城の動きが丸見えに覗ける。和議の条目に旭山城の破却が盛り込まれたのも至極当然の話である。

最後に…今年も一年が終わります。拙い口コミにお付き合いして頂き本当にありがとう。自分のためではあるんだけど、高卒の阿保が今更ながらも頑張って一生懸命勉強して書いてます。来年も精度を上げて続けていきたいと思いますのでどうぞ小動物を愛でる様な暖かい眼で見守ってやって下さいまし。

2024年04月02日 気分爽快根室守
旭山城



方形の主郭の東西に大きな堀切があり、主郭の南に複数の段郭があります。
主郭南側、西の堀切には石垣に使われたような石材がゴロゴロしていて、いにしえの景色が想像されます。
主郭東に延びた尾根の先端からは、善光寺平が見渡せます。もちろん川中島付近もバッチリ眺められます。

①主郭西の堀切
②主郭西の蔵屋敷手前には石垣が残る
③蔵屋敷から見た主郭西堀切と南の段郭
④主郭東の堀切と東に続く尾根
⑤主郭は土塁に囲まれている
⑥主郭南東にひっそり佇む木曾義仲霊碑
⑦ひがしの尾根先端に向かう途中の巨石
⑧尾根先端。この先に善光寺平が広がる

2024年03月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
窪寺城(城山)[旭山城  周辺城郭]



窪寺城(城山)は旭山城の南方約1.9km、犀川北岸(左岸)、標高992mの富士ノ塔山から東南東へ伸びる支尾根末端部上、標高約449m地点の平場を中心に立地する要害です。北東麓の登城路入口からの比高は55m位でしょか。近傍の方は確かに「城山」と呼んでいた。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、周辺に車の捨て場所は一切無いので注意が必要だ。ちなみにGoogleマップはお城の説明板の場所(登城路入口でもある。)で位置登録されているが城域外である。

築城年代は不明、築城者は窪寺氏です。同氏については同じ旭山城のリア攻めマップにある窪寺氏館を参照して下さい。窪寺城は応永七年(西暦1400年)、小笠原長秀の信濃守護補任に反感を強める大文字一揆衆が会堂し相談に及んだ場所と比定されるが、おもてなし度が皆無な要害にわざわざ他領主達を招き入れる事もないやろ…あからさまな叛意も疑われるしね。

比高も低く長野市郊外、安茂里の住宅地の正に裏山なんだけど、現況はリア攻めする者にとって極めて防御力の高いお城に変貌している。好立地にも関わらずあらゆる媒体での紹介例が極端に少ないのはそれが理由だ。基本的に城域の全てが私有地である事、登城するには耕作地を横断しなければならない事等、いきなりハードルが高く設定されており、よっておいらは畑の主が作業中のところを見計らって訪問している。この主のお話しによると、道は過去には3箇所に付いていたらしいんだけど現在は何れも消滅、竹藪が酷いんで行けるかどうかは知らんとの事…不安でしかない…

竹藪てよりは矢竹の密集なんすわ…突破する距離は10mにも満たないんだけど、矢竹の隙間に無理矢理身体を捩じ込む様な感じで兎に角、痛い。矢竹は冬でも元気一杯、跳ね返って来てもよいけど眼だけは勘弁してくれ…藪漕ぎで四足歩行になったのは久しぶり、こんな所で何やってんだおいらは…擦過傷2箇所をしっかりと土産に頂く…

お城は後世、全山耕作されていたそうでその痕跡が今も残る。てか、城域外の山側上段には廃家屋が建っていてかつては生活の場でもあったようだ(石組みの掘り抜き井戸が残る。)。城山そのものはたぶん地滑りによって創造された産物で、尾根末端部に位置しながらも結構な舟窪地形を形成している。舟窪の鞍部を自然の空堀として山側との連絡を断ち切り、谷側に残った土砂の微高地全てを城域としている。基本的に自然地形ありきの要害だ。

過去には改変があるとはいえお城の基本形は実に良く残っている。軍艦みたいな縄張、段の付いた連郭式の郭群で構成され削平も良好、切岸の切れ味も素晴らしい。主郭北東側の大堀切の1条には誰でも感動する事間違い無し。又、舟窪地形の空堀の末端部には人工の跡が見受けられ、特に南西側の部分は中土塁を挟んだ二重の竪堀を形成している。

おいらは山城の整備を望まない派だが、窪寺城に限って言えば地形に手を加えない範囲の公園化が望ましいと考える。展望も良いしね。何だか近所の裏山が耕作放棄地として荒れるに任せるのが勿体無いような気がするのさ。整備されれば誰でも簡単に訪ねる事が出来る良好な城跡に成り得るんだけど…

※写真⑧は登城路から撮影した近景、楽な小山だが正面に見える矢竹の密集を突破する必要がある。ちなみに城域内にはとげとげしい草木が群生してるんで時々痛かったりもする。

※藪漕ぎに臨む際には人間である事を忘れよう。人類としての知性、礼儀廉恥は全く必要無い。

2024年03月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
窪寺氏館(御屋敷)[旭山城  周辺城郭]



窪寺氏館(御屋敷)は旭山城の南方約2.1km、犀川北岸(左岸)、標高約382mの緩斜面上平場に立地した居館です。該地は西方山塊が善光寺平に消える裾野の最上段に当たる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、周辺に車の捨て場所は一切無いので注意が必要だ。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは窪寺氏です。同氏は滋野姓海野氏の分流とされるが確証を得られない。「吾妻鏡」、文永二年(西暦1265年)大廿日甲寅、善光寺奉行人の一人に窪寺左衛門入道光阿が定められているのが文書上の初見、続いて建治元年(西暦1275年)五月、「六条八幡宮造営注文」には窪寺入道跡の名が見られ、入道跡(この場合の「跡」は入道の後嗣を意味する。当人の名を把握出来ていなかったので便宜上そう呼んでいる。)は造営費用に六貫文を負担している。鎌倉幕府の御家人として既にこの頃には当地にあった訳だ。

「諏訪御符禮之古書」には、長禄二年(西暦1458年)戌寅花會の条、寛正四年(西暦1463年)癸未花會の条に窪寺備前守貞光の名が見られる。但し、これ以降、同書に同氏の名は見られなくなり、窪寺郷には小田切氏への領主の交替が確認される。在地土豪としての独立性は失われ、以後は同族とされる小田切氏に従ったものと推測されている。

応永七年(西暦1400年)には信濃守護に補任された小笠原長秀に抗する大文字一揆衆を形成する十二氏の内の一氏となった。一揆衆は長秀の善光寺入部を受けて相談を行なっているが、会堂の場所は窪寺郷内とされている。ちなみにこの時点での採るべき方針は態度を見極め様子見する事で決したらしい。又、永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十五番 小田切殿 窪寺殿」とある。

居館の現況は…もはや住宅地の中の一角なので何がどうやら…改変著しく旧態を見ない。該地の段差と道筋に堀形を求めようとする事が関の山、流石に阿呆らしくなって中断した。

口碑によると、戦国時代には小田切氏に従って武田氏に抗したが、窪寺大学幸忠は窪寺郷において自滅、武家としての窪寺氏は断絶したんだそう。少なくとも同氏は約三百年の間、窪寺郷にあった事になる。

※写真②は居館地西側に建つ西蓮寺とその一帯、同寺は現在無住だが檀家の方達によって丁寧に管理されている。ちなみに窪寺氏の菩提寺でもあるのだが墓塔等は探し出す事が出来なかった。

※写真③は「御屋敷」地籍中央部から撮影した窪寺氏の要害、窪寺城っす。この写真は去年の物、薄い物件だけど実は再訪、別件で近くを通り掛かったんで…

2021年11月08日 ヤンヤン
旭山城



街中からナビを頼りに登りましたがなかなか分かりにくかったです。お寺までも対向車が来ると大変な道です。登山道からは30程度の登山ですが、靴はしっかりした物を履きましょう。大きな堀切が特徴の山城ですが、なんと言っても長野市の景色がサイコーですのでオススメの山城です

2021年05月16日 pika北見守
旭山城



城跡は山の頂上にあり、朝日山観世音堂から30分ほど山登りになります。靴などそれなりの準備が必要です。
登っている最中や頂上からの展望はありません。2〜300メートル先に展望台がありますのでぜひ立ち寄ってみて。長野市を一望できます。

2021年05月15日 伊達 幸村
旭山城

上杉謙信と武田信玄が争奪戦を繰行った城跡。遺構は本丸に少しの石垣?石積み、土塁、説明板などあり。この周辺は城跡がいっぱいあるのでまた行きたい。

2021年05月15日 おかっぴき
旭山城



上杉方と武田片桐で争われた城跡です。石垣の痕跡が主郭にある。土塁、堀切、竪堀、横堀、説明板などある。葛山城とセットで行くと良いです。

2020年03月31日 東市佑飯綱権現の使い
旭山城



積雪の中を強行軍。市街地の雪はそれほどでもなかったが旭山城の雪は深く何度も滑りました。朝日山社務所から登山道まで数分、そこから主郭まで20分程。主郭手前で分岐して展望台へ行く道もある。雪で確認しづらかったが、竪堀と主郭部の石垣を確認出来た。展望台手前には物見岩と呼ばれる巨石あり。

2019年05月26日 龍馬備中守【】
旭山城



(左)主郭と倉屋敷を分断する堀切☆第2次川中島合戦で北に上杉謙信様が守る葛山城☆それに対抗して武田信玄様が対岸の旭山城に兵を入れる☆北側は戦闘スペースになっていて深い堀切・竪堀群が無数に伸びる☆


2018年04月27日 カデル織部正
旭山城

修正です。
裾品川× 裾花川〇 です。

失礼しました。

2018年04月26日 カデル織部正
旭山城

旭山城山頂の北側に近寄らないこと。2017年に転落死亡事故がありました。裾品川、里島発電所からの登山道は登山道の崩落と死亡事故があり、現在は登れません。

2018年04月26日 カデル織部正
旭山城

旭山へ上る小柴見、平柴の住宅街にイノシシがでます。付近に住み着いているイノシシです。数頭いるそうなのでご注意を!

2017年11月07日 カーネル
旭山城

横山城から旭山城は東に位置するが、裾花川を越えるため、山王小南の相生橋を目指して南西へ歩きます

相生橋を超えると朝日山観世音の看板と案内地図があるので、それに従い、緩い舗装路を登ります

高度が上がると車道でなく歩行者用?の道を歩くが傾斜がきつい。横山城から1時間で朝日山観世音着です

ここから車道を西へ進むと、旭山城の遊歩道の看板に従い山を登る。傾斜は緩く、道もしっかりしているので、南側から登りましょう。北側の道は危険で、通行禁止の看板もあります
観音様から30分ほどで本丸に

本丸から反対側に下ると石垣がありました。南側斜面を下り安茂里駅へ向かいました

葛山城-善光寺-横山城-旭山城の全行程で7時間でした

2017年11月07日 カーネル
旭山城

葛山城の南側の谷を挟んで反対側に位置します

葛山城を下り、川を超えて、城の北西にある里山発電所を目指し、その導水路に沿って登る
その先は、城の北側の急斜面の山道を登ると、山裾を巻く道にでますが、通行禁止の看板があります

道は手すりが壊れ、倒木土砂崩壊で道の体をなしていません。旧旭山観音を過ぎたところであきらめて引き返す

もうひとつの登山道は、南側から登るため時計回りに山を半周しないといけません・・・。やけになり善光寺と横山城に寄りました。バス停から葛山城を経由してここまで4時間です



旭山城の周辺スポット情報

 木曽殿屋敷(周辺城郭)

 旭城(周辺城郭)

 小柴見城(周辺城郭)

 富士の塔砦(周辺城郭)

 国見ごてんしょう砦(周辺城郭)

 窪寺氏館(御屋敷)(周辺城郭)

 窪寺城(城山)(周辺城郭)

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