横田城(よこたじょう)
横田城の基本情報
通称・別名
- 会の館、会館
所在地
- 長野県長野市篠ノ井会185他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 木曽氏?、小笠原氏?、原氏?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
松代城(長野県長野市)[4.5km]
屋代城(長野県千曲市)[4.8km]
吉窪城(長野県長野市)[6.1km]
尼厳城(長野県長野市)[6.8km]
霞城(長野県長野市)[7.1km]
松田家館(長野県千曲市)[7.4km]
旭山城(長野県長野市)[9.0km]
横山城(長野県長野市)[10.5km]
荒砥城(長野県千曲市)[10.6km]
葛山城(長野県長野市)[10.9km]
横田城の解説文
[引用元:Wikipedia「横田城」の項目]
横田城(よこたじょう)は、長野県長野市横田にあった日本の城。
概要
築城時期は平安時代末と伝えられる。
養和元年(1181年)に木曾義仲の旗揚げを鎮圧するため越後から圧倒的な大軍を率いて城氏が入城したとされている。しかし寡兵の木曾側の奇策によって敗走したとされている。ここ横田河原の戦いで勢いを得たことによって木曾方は倶利伽羅峠の戦いにおける大勝の足掛かりを得ることとなった。
応永7年(1400年)信濃守護小笠原長秀が大塔合戦で根拠地とした。室町幕府の命によって信濃国の守護として乗り込んだ小笠原氏に対して国人領主の村上氏が強訴。井上氏や高梨氏、海野氏、仁科氏等大文字一揆もが抵抗した。この鎮圧のため守護方は善光寺から横田城に押出したものの圧倒的多数の敵に包囲された。このため横田城を捨てて味方の塩崎城に合流して体勢の立て直しを図ろうと夜陰秘かに移動。しかし途中で発見分断されて長秀ら150騎余は辛うじて塩崎城に逃げ延びている。しかし逃げ遅れた300騎余は途中の大塔の古城に逃げ込んだ。だが兵糧も武器の備えも不十分なまま20日を超える篭城は乗っていた馬を殺して血を啜り生肉を食う凄惨なものであったと伝えられる。しかし救援は叶わず大塔の篭城軍は撃って出て全滅した。守護方は縁戚関係にあった大井氏の仲立ちで和睦して都へ逃げ帰ることとなった。
なお12年に及び5度も繰り返されたとされる甲越両軍による川中島の戦いはこの周辺で行われた。しかし雨宮の渡しの対岸にあって、両軍が通過せぬ筈のない重要な位置にあるこの城に関して甲陽軍鑑は何の記述もない。 ただし武田信玄に切りかかった上杉謙信と見られた武将に対して槍を繰り出して主君の危急を救った、との伝説にある原大隅守虎吉がこの城に篭ったと伝えられている。近くの地蔵寺にはこの原大隅守のものと伝えられる墓がある。
現在は古殿稲荷社のあたりに土塁跡がのこる。かつては丸馬出し等の甲州流築城術の特徴を示す遺構が南側にあったと伝えられる。このことから定説とはなっているが、横田河原の合戦や大塔合戦の頃の城地は現在の横田城跡を否定するむきもあって、そこよりは2キロほど南で千曲川岸に近い自然堤防上に位置する「横田砦跡」と伝えられている現在の観音寺(大正時代に千曲川の築堤工事に伴い河川敷地域内から現在地に移転)の辺りとする説がある。
参考文献
- 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
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横田城の口コミ情報
2024年10月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
真島氏館[横田城 周辺城郭]
真島氏館は横田城の北東約6.7km、千曲川西岸(左岸)、標高約346mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真島氏です。真島氏は、小笠原長清の後裔、大室牧の牧監、時光を始祖とする大室氏の分流とされ、該地の「堀之内」に居館を築いた。
更級郡真島の地は、鎌倉時代から戦国時代には真島郷と呼ばれていた。「真島」は「馬島」であり、古くは大室牧の一部を構成していたとも推測されている。
「吾妻鏡」、文治二年(西暦1186年)三月十二日庚寅の条、「乃貢未済庄々注文」の中に、貢税を未済する庄々として、「善光寺領河居、馬嶋、村山・吉(布)野」とあるのが真島の文書上の初見、嘉歴四年(西暦1329年)三月の諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、六番五月會分の条には、「右頭、山龐郷諏方刀四郎左衛門跡、付馬鳴(嶋)郷地頭等、」とあり、馬嶋郷には地頭があった事が判る。又、同年同月の「諏訪社上社造営目録案」によれば、馬嶋郷は玉垣二間分を負担している。
「諏訪御符禮之古書」、享徳三年(西暦1454年)甲戌の条には、「一 真嶋花會本所好て当候真嶋入道沙弥慈昌御符之禮三貫三百文御頭二十貫御教書」、長禄四年(西暦1460年)庚辰花會の条には、「一 磯並真嶋入道沙弥慈昌御符之禮四貫三百文頭役三十貫御教書禮三貫三百」、寛正七年(西暦1466年)丙戌花會の条には、「一 宮加頭真嶋讃岐守昌持御符之禮三貫三百問使二郎太郎御鉾本一貫三百頭役三十貫御教書禮三貫三百」、文明二年(西暦1470年)庚寅五月會の条には、「一 加頭真嶋讃岐守呂(昌)枝御符禮四貫八百文使曾次二郎頭役三十貫御教書禮三貫三百同使」、文明六年(西暦1474年)甲午明年花會御頭定の条には、「一 加頭真嶋讃岐守昌政御符禮 三貫三百使孫六御教書同前」、文明十年(西暦1478年)戊戌明年花會の条には、「一 加真嶋花會讃岐守昌枝御符祝三貫三百両度使金五郎四郎殿頭役三拾貫御教書禮三貫三百三十三文」、文明十五(西暦1483年)癸卯御射山明年御頭定の条には、「一 磯並真嶋宮内少輔昌秀御符禮三貫三百三十三文御頭役二拾貫御教書同前」、長享二年(西暦1488年)戌申花會明年御頭定の条には、「一 磯並真嶋周防守昌持御符禮三貫三百三十三文使孫六御教書禮三貫三百三十三文にて候と真嶋殿先年折紙を進し置候頭役直納両奉行判形被進候」とあり、真島氏の各人の名が多数確認出来る。「応仁の乱」、もしくはその前後に当たる時期(「信濃文正の変」)だが、川中島の小豪族である同氏が一貫して真島郷にあり続ける事が出来たのは何故だろうか。又、大永三年(西暦1523年)、真島右衛門尉が眼病平癒祈願のため、堀之内の屋敷内に薬師如来堂を建立、別に医王院を開基創建している。
戦国時代、真島氏は村上氏に従い越後に逃れていたようだが、武田氏の滅亡後、信長の横死後、川中島に勢力を伸長させた上杉氏によって同氏は信濃に還住を果たした。天正十年(西暦1582年)七月十六日、真島与七郎宛、上杉景勝宛行状案には、「今度額田跡出置候、可致知行者也、仍如件、」とあり、上杉景勝は、真島与七郎に、額田の旧跡(調べたけど何処になるのかは不明だ。)を宛行っている。又、文禄三年(西暦1594年)九月、上杉氏の「定納員数目録」には、「二百十七石 真嶋民部、三十五石 真嶋源左衛門、七石 真嶋平助」とある。後に真島氏は上杉氏の会津移封に従って信濃を離れる事になるが、これに名を連ねる人物がそうした者達なんだろう。同氏は、慶長五年(西暦1600年)、上杉氏の大減封によって会津の地で帰農する事になる。
居館の現況は…耕作地、空地、一般住宅地等となっている。居館敷地範囲は不明、遺構は完全消滅、堀跡を追う事すら出来ない。大手は南側だったらしいが…そんなもん知ったところでねぇ…とっとと帰ろうよ。ちなみにたぶん往時は微高地だった筈だ。
大室牧は「延喜式」に載る信濃十六牧の一つ。現在の長野市松代町大室には、「一等牧」、「牛新田」、「室牧」等の牧に関係する地名が今も残り、大室の南方には、「牧島」、北方には、「牛島(輪中の旧村として知られる。)」の地名が大字として残っている。「真(馬)島」はその千曲川の対岸に当たる地域だが、大室牧が同川の両岸に及んでいたと推測される根拠の一つになっている。
※「信濃の山城と館2、更級・長野編」に掲載があるが、真島氏の記述には誤りがある。
2024年10月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
広田城(広田の砦)[横田城 周辺城郭]
広田城(広田の砦)は横田城の北東約3.2km、標高約356mの平野部平場に立地する居館城です。
行き方はGoogleマップに「藤牧館(広田砦)跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ曹洞宗の寺院、佛日山東昌寺に捨てられる。
築城年代、築城者は不明です。城主としては小笠原氏の一族、水内郡小河庄内を本貫地とする大日方氏の惣領、大日方美作守直忠(入道)の三男、佐渡守直長、その子、山城守直家の名が伝わる。大日方氏は武田氏に重用された一族であり、「大日方文書」には、武田晴信(信玄)、同勝頼発給の書状等が多数残されている。
「長野県町村誌」には、「本村(田牧村)卯(東)の方一町にあり。本郭東西三十間(約54.5m)、南北五十間(約90.9m)、外郭東西八十間(約145.5m)、南北九十間(約163.6m)、周囲壕を繞らす。壕跡尚存す(該地は元村上氏の幕下某の邸跡なり)天文、弘治中、本村武田晴信の所有となり、同氏此砦を築き、安曇郡千見城主、大日方佐渡守源直長(水内郡古山城主、大日方美作守三男なり)武田氏に属し、此砦を守る。後其男山城守直家嗣で守る。天正十年(西暦1582年)武田氏亡ぶるの後、上杉氏に属す。慶長三年(西暦1598年)三月上杉景勝、会津へ移封の際浪人となり、本領水内郡小根山村に居住し、農に復す。今此地を穿つもの、往々武具の腐損したるものを得る事あり。直家父直長の冥福を祈り、天正五年(西暦1577年)一寺を開基す。即昌龍寺是なり。」とある。
お城の現況は耕作地、一般住宅地、前述の東昌寺の境内、藤牧公民館等となっている。該地に建つ東昌寺縁起の説明板に添付された縄張図は境内のみを城域と図示しているが、実際には四方へかなりの広がりを見せている。境内を取り巻く舗装道路は全て内堀の跡、外堀の跡は不明だが、往時は二重の空堀で囲われていたとも。城郭遺構としては本堂の北東側に立派な土塁の残欠が残っている。
該地(東昌寺)の東方約0.2kmの位置には、町村誌に記述がある、曹洞宗の寺院、光陽山昌龍寺が立地する。現在のGoogleマップ等でも混乱を見せているが、長きに亘って昌龍寺の境内が広田城の中心地と目されてきた。昌龍寺の住職さんのお話しによると、寺地は砦の外を選んで創建されたと伝わっているそうなので、昌龍寺の場所は城域外に該当すると考えてよいようだ。但し、同寺も不正形な四辺を舗装道路(堀跡)に囲われた寺院であり、広田城とは別の中世城館の旧地だったとも考察されている。即ち、大日方氏の入部以前には、村上氏の一族、広田氏が、小島田、広田、藤牧を知行していた時期があり、昌龍寺の位置には広田氏の居館地が、東昌寺の位置には広田氏の一族、藤牧氏が居館していたとも推測されている。
昌龍寺は大日方佐渡守直長の菩提寺だが、墓地の一角には上人の物と並んで同名の五輪塔が残っている。又、境内の一角には、松代城の隅櫓(火の見)とも伝承される火の見櫓が屹立する。住職さんのお話しによると、松代城の櫓は精緻な図面が全て残されているそうで、偉い先生がやって来てこれに照らし合わせたところ、該当するような櫓は残念ながら無かったんだそう。現在の櫓自体も上段が継ぎ足されているそうだが、松代城の櫓の部材を持ち運んで再利用、火の見櫓を建てた可能性は十分にあるらしい。ぷち浪漫すね。
※大日方氏〜「おおひがた」、「おおひなた」、「おびなた」と読ませる。同氏は戦国時代に発祥した一族だが、史料等が豊富、特に武田氏時代の物が数多く残されている。同氏の各人はそれぞれちょとした北信のキーパーソンでもあるので詳細にあっては別の機会に譲りたい。又、一般的にはあまり知られていない大日方氏だが、当時の一族の軍役を合わせると三百騎を優に超えていたらしい。ちなみにwikiの記述は佐渡守直長の部分で矛盾を抱えている。
※写真⑧は要るのか知らんけど南東側の舗装道路から撮影した近景っす。
※昌龍寺については別にスポット登録して写真だけ置いておく。丸に二引きの家紋(大日方氏のもの。)が目立つ由緒あるお寺さんだ。
2024年10月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
水沢氏屋敷[横田城 周辺城郭]
水沢氏屋敷は横田城の東北東約3.9km、千曲川西岸(左岸)、標高約350mの平野部平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは水沢氏です。同名については全くの不明だ。該地の南南西約1.2kmの位置には、同じ横田城のリア攻めマップにある杵渕館が立地するが、居館の主、杵渕氏に水沢氏は仕えていたと伝えられている。
「長野県町村誌」には、「村(杵渕村)北方水沢にあり。塁及び濠周囲に存せり。近年水田となす。水沢氏は俗名重輔と称し、杵渕氏の臣なりと云ふ。事跡不詳。後該地に松代藩士小出某居住す。今平民今井某の宅地なり。」とある。
同じ横田城のリア攻めマップにある戸部城の城主、戸部家俊の郎党に杵渕小源太重光があり、その被官の屋敷て事になる。細か過ぎるんでそれ以上の事は全く不明、時代的にも平安時代の末期て事になるしね。平氏に与した家俊の陪臣に当たる重輔の事情てもんを察してやろう。ちなみに主の重光は、治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」で敵勢に重囲され壮絶な自害を果たしている(「源平盛衰記」)。
屋敷の現況は…耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。遺構としては西辺と北辺に堀形が残っているが、堀形てよりはただの段差に近いレベル、縄張図にでも描かれなければ誰も気が付かないだろう。町村誌の記述から江戸時代までは武士の居住があった訳だが、一帯は千曲川の氾濫原でもあり、屋敷の主は大水の時にはさぞかし緊張した事だろう。
該地の東南東約0.1kmの位置には槌井神社が鎮座、その祭神は事大主神と八杵命である。同社は時代不明なるも、水沢氏の主人である杵渕氏の創建と伝わり、杵渕氏の氏神であったとも。又、八杵命は諏訪地方でしか見る事が出来ないレア神様だが、諏訪社上社の五官祝の一つ、禰宜大夫を務めた小出氏の祖神と伝えられている。町村誌が言う、「松代藩士小出某」と何か関係があるのだろうか。
※写真⑧は文中にある槌井神社を撮影したもの。
2024年09月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
小森氏館[横田城 周辺城郭]
小森氏館は横田城の東南東約1.5km、千曲川北岸(左岸)、標高約353mの平野部平場に立地した居館です。現在の居館地は中央部分を斜めに横切る千曲川の堤防により大きく分断されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。堤防上への進入は軽自動車のみ可能である。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小森氏です。同氏の確かな事跡等は全く不明だ。
「長野県町村誌」には、「本村(小森村)の南方にあり。本丸東西四十四間(約80m)南北四十間(約72.7m)余、平地より三間(約5.5m)許高地なり。四面空壕ありて、回字形をなす。南に千曲川を繞らし、乾(北西)の方に大壟あり。小森氏居城せしと云ふ。事跡不詳。今該地をうがつもの往々古城具を得たり。」とある。
伝承によれば、諏訪氏の一族、小森遠江守の居館地である。小森氏は武田氏被官時代を経て、その滅亡後には上杉氏に従い会津へ移ったとされるが確証は無い。
居館の現況は…耕作地、空地、堤防等となっている。該地は高さ約5.5mの微高地だった訳だが、平らげられてしまったのか既に周囲との差は殆ど無い。又、居館敷地範囲の中央部分、南西隅から北東隅にかけて堤防が築かれており、この部分は往時よりも随分と高くなっている。遺構としては北西隅に若干の堀形、地元の人が荒神山と呼ぶ土塁の残欠が残り、土塁上には、慶安四年(西暦1651年)の年号が刻まれた石祠が鎮座、裏面には「小森云々」の文字も見えるんだそう。石祠は小森氏縁の物とも伝わり、村民に安産の神として崇められてきたとも。
小森氏館の東南東約0.3kmの位置には千曲川を渡渉可能な「十二ヶ瀨」と呼ばれる浅瀬がある。その対岸に聳える山塊の一部が、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」の際に上杉勢が本陣を置いた妻女山だ。小森付近では千曲川の川筋は殆ど変わっていない事から、十二ヶ瀬の浅瀬も当時から存在していたのであろう。
この十二ヶ瀬を渡れば妻女山から最短距離で八幡原に至るが、上杉勢は本陣から距離のある西方の雨宮の渡しを使って八幡原へ押し出している。眼前の浅瀬を捨てて渡し場を選んだのは何故であろうか。大人数が渡るのには難しかったとも考えられるが、山塊山中を通り、人数の行動を隠匿し、雨宮の渡しを渡る事で武田勢の裏をかく事を狙ったようにも思える。口で言うのは簡単だが、相手の動きを見極め、多勢の人数を纏め上げ、現地で実際に行動に移す事の難しさは後世の人間でも理解出来る。信玄ほどの人物を相手にそれをやってのけるのだから、謙信が稀代の戦上手である事に全く異論は無い。
※「十二ヶ瀬」〜周辺にある戌ヶ瀬と共に上杉勢の甘粕近江守が本陣と別れて後詰を果たすべく留まった場所とも伝わる。この働きにより妻女山に攻め寄せた武田勢の別隊は距離のある猫ヶ瀬に殺到、八幡原への着陣、加勢が遅れたとも伝わる。これを信ずるならば、謙信は決着を付けるべく算段を施し、八幡原での本陣同士のぶつかり合いに殺る気も満々だった訳だ。戦いにおいては最終的に敗走した謙信だったが、正に乾坤一擲、その狙いは信玄の首一つだったのだろう。関東管領の身にありながら勝敗の全てをそれに賭ける事が出来る…改めて言うが凄い男だ。
※町村誌に添付された小森村の絵図を見ると、明治時代の初頭、村内には、「川越」、「古戦場」の字地があった事が判る。
※現在の地図と往時の地形には大きな隔たりがある。千曲川の川筋に変化がある他、特に往時は犀川から南流して千曲川に流れ込む大小河川(基本的に乱流であった。)が無数に存在していたので注意が必要だ。従って、現在の地図を用いて「八幡原の戦い」の様相を細かく再現しようとする試みは誤りである。机上で知ろうとするよりは丹念なフィールドワークを頑張ろう、海津城、妻女山や茶臼山、千曲川を意識しながらの探索は凄く楽しいぜ。
※謂わゆる堤防分断系の城館だ。他にあるのか知らんけど。
2024年09月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
荒堀内記屋敷[横田城 周辺城郭]
さて、おいらはこのアプリでずっと「内記」の受領名を自称し続けている。が、意味なんか特に無くて、「NIKE」みたいでかっちょよいじゃんぐらいのレベルの話だ。「内記かずり」で定着しちゃった感じもあるし、今更変えるのもなんだしねぇ…今回の口コミは、そんな「内記」を名乗る方のお住まいなんだけど、従って何か個人的に特別だったりとか、感慨深いとかの気持ちは一切ありまてん…
荒堀内記屋敷は横田城の東方約3.4km、千曲川西岸(左岸)、標高約351mの平野部平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ荒堀公民館に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは荒堀内記です。同名については全くの不明だ。該地の南西約0.4kmの位置には、同じ横田城のリア攻めマップにある杵渕館が立地するが、荒堀内記は、居館の主、杵渕氏に仕えていたと伝えられている。
「長野県町村誌」には、「本村(杵渕村)中央荒堀組にあり。丘の形をなし、今士族某の宅地となれり。里俗伝に荒堀内記は本村杵渕氏の家臣なりと云ふ。」とある。
同じ横田城のリア攻めマップにある戸部城の城主、戸部家俊の郎党に杵渕小源太重光があり、その被官の屋敷て事になる。細か過ぎるんでそれ以上の事は全く不明、時代的にも平安時代の末期て事になるしね。平氏に与した家俊の陪臣に当たる内記の事情てもんを察してやろう。ちなみに主の重光は、治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」で敵勢に重囲され壮絶な自害を果たしている(「源平盛衰記」)。
屋敷地の正確な場所は不明であり、該地は信濃のお城の神が導き出した比定地である。荒堀組の中心地且つ、最も古い場所である事がその理由だ。
屋敷の現況は…一般住宅とその敷地、公民館等となっている。該地に建つ一般住宅の北側には堀跡が残っていたとの家伝があるらしいが、遺構は完全消滅、町村誌が言うところの、「丘の形をなし。」もすっかり平らげられてしまっており、現在は一面の平場である。推定屋敷地の北西側には辻を控えるので集落の中心地である事に間違いは無いんだろう。
該地の北北東約0.6kmの位置には、みんな大好き武田信繁の墓所が残る曹洞宗の寺院、松操山典厩寺が立地するが、その東側の一帯には「猫島」と名付けられた地籍がある。謂わゆる千曲川の氾濫原、「猫ヶ瀬」と呼ばれる場所であり、更にその北方には、「陣ヶ瀬」、「馬場ヶ瀬」と浅瀬が続き、同川の渡渉が十分に可能であった。永禄四年(西暦1561年)、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、海津城を出立した武田勢の本陣は、こうした浅瀬を渡って八幡原に押し出した筈だ。
※「八幡原の戦い」〜戦国時代史上、最も有名な戦いの一つだが、長野市立博物館で観る事が出来る八幡原の戦いの紹介映像中にもあるとおり、戦いの真相を知る者は誰もいない。伝えられる戦いの様相は、後世の「上杉軍記」や「甲陽軍鑑」を基にしており、両書に書かれる事を事実だと断ずるのは少々乱暴である。
※写真⑧は該地に建つ猿田彦大神の石碑を撮影したもの。屋敷地とは何の関係も無いだろう。
2024年09月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
杵渕館(殿屋敷)[横田城 周辺城郭]
杵渕館(殿屋敷)は横田城の東方約3.2km、千曲川西岸(左岸)、標高約352mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは杵渕氏です。該地の北東約0.4kmの位置には、同じ横田城のリア攻めマップにある荒堀内記屋敷が立地するが、屋敷の主、荒堀内記はこの杵渕氏の被官であったと伝えられている。
「長野県町村誌」には、「本村(杵渕村)南の方杵渕にあり。里俗伝杵渕氏屋敷跡と云ふ。少しく丘壟をなし、雑木数株あり。周囲に塁及遺濠あり。近年崩れ堙りたりと雖も、自ら其形を存す。里俗伝に杵渕氏代々居住し、本村を領せしと云ふ。後氏を中沢氏と改称す。(今東京都に住す中沢氏は則本村杵渕氏の後胤なり。)杵渕山中沢寺 中沢氏の開基なり。除地若干を寄付す。後高五石の地となる。維新の際上知す。」とある。
該地の杵渕は、長野県小諸市大久保の天台宗の名刹、布引山釈尊寺が蔵する、元亨元年(西暦1321年)十一月十八日の「大般若経奥書」に、「於信濃国更級郡富部御厨、杵渕郷、書写畢」とあり、鎌倉時代の末期には郷村として富部御厨の内にあったことが判る。
平安時代の末期に富部御厨を領したのは伊勢平氏、平正弘であり、同御厨には正弘の郎党、もしくは後裔と推測される、富部三郎家俊があった。家俊は、治承五年(西暦1181年)六月に行われた「横田河原の戦い」において、上野国の住人、西七郎広助が為に討死、家俊の浪党、杵淵小源太重光(勘当中の身であった。)が広助を仇とばかりに討ち取るが、重光も敵に囲われ、太刀を口に咥えて馬から飛び降り壮絶な自害を果たした(「源平盛衰記」)。
以降、富部氏の郎党であった杵渕氏は歴史の表舞台から姿を消す。戦国時代には村上氏に従って越後に逃れ上杉氏の下で活躍した杵渕備中守が出たとされるが詳細は不明だ。
居館の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。何も無いかと思いきや、西辺には堀形と高さのある土塁の残欠がしっかりと残っている。土塁上には稲荷社が鎮座、この部分は北西隅に当たるが、櫓台でも建っていたんじゃないかと思えるぐらいの幅員もある。かずぽん感動…ちなみにこの土塁前には杵渕館跡を示す説明板も立っている。
川中島て今は高低差の殆ど無いだだっ広い平野地だけど、江戸時代の初頭までは、犀川から南流して千曲川に流れ込む多数の大小河川によって文字通りの川中の島々の様相を呈していた(現在も「島」の付く地名が多い。)。千曲川自体の流れにも変遷があり、「川中島の戦い」の頃の川筋は現在よりも南寄りであった。即ち、川水は、横田から小森へ向けて流れた後に東南へ向きを変え、赤坂山(妻女山)の山裾を洗い、清野で急に向きを変えて杵渕の東側を北流する。河川の蛇行点付近では滞留する流れによって淵を形成する事が多いが、「杵渕」の地名もきっとこれに由来するものなんだろう。
※川中の島々〜オーバーな描き方をされているとはいえ ネット等で流布されている古地図等を参照するとよい。
2024年09月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
町田氏屋敷[横田城 周辺城郭]
さて、今回の口コミはあっさりと済ませられる。何故なら他の口コミで頑張っておいたから。内容が重複するんで見事なまでに割愛させて頂く。
町田氏屋敷は横田城の北東約5.6km、犀川南岸(右岸)、標高約350mの平野部平場に立地した居館です。該地の南南西約0.4kmの位置には同じ横田城のリア攻めマップにある大堀之館が立地する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは町田氏です。同氏については前述の大堀之館の口コミを参照して下さい。同居館も町田氏が居したとされる。
現在も町田氏宗家の方がお住まい。居館地の移動時期が問題になると信濃のお城の神は仰られているが、大堀之館の下屋敷として既に同時期には存在していたとの家伝もあるらしい。又、屋敷地の西側には「宿」と呼ばれる一帯があるが、これは宿下りをしたために生まれた地名なんだそう。
屋敷の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。何も無いかと思いきや、東辺に堀形(石橋が架かってる。水堀だったのかもしれない。)が、北西隅を中心にして堀形と土塁が、何れも明確な遺構がしっかりと残っている。北西隅の土塁なんて遠目からでも判るぐらいだ。今回ばっかしは遺構を間近で確認するために突撃お宅訪問したかったんだけど、全く応答無し…残念無念…次回の居館廻りの際に再訪する事としよう。
現在の正門は東側に付くが、往時は南側に開いていたらしい。又、屋敷地の南東隅には立派な十王堂が建っており、この十王は東側の辻の場所から移されたとも。すっかり挨拶忘れてしまったけど、おいらが亡者となったらこの事をネタに厳しく断罪されてしまうんだろうか…
※付近に建つ浄土宗の寺院、城住山長徳寺には、武田氏二代に亘って出仕した町田兵庫正之の墓があるんだそう。未見なんで今度探してみる。
※十王にだけは必ず挨拶するのがおいらの流儀…以前だったら神仏の類いには見向きもしなかったけど…Jr.アイドルなのにそういうお年頃なんすかね。
2024年09月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
大堀之館(町田氏屋敷)[横田城 周辺城郭]
大堀之館(町田氏屋敷)は横田城の北東約5.2km、犀川南岸(右岸)、標高約350mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じくGoogleマップに位置登録されている南西側の「南組公民館」に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは町田氏です。同氏については確証が全く得られないが、治承四年(西暦1180年)、平氏打倒に失敗した以仁王に従って信濃に逃れ(以仁王が信濃に落ち延びた事実は無い。)、信濃国高井郡若穂町田に落居、在名を名乗って町田氏を称したとするものがある。大堀之館は、応安元年(西暦1368年)、町田盛実によって築かれたとも伝わるが…
「長野県町村誌」には「町田氏屋敷跡」として、「東西丗四間(約61.8m)南北丗五間(約63.6m)、面積三反九畝廿歩(約3934㎡)、村(大塚村)の午(南)の方字南耕地の中央にあり。天文年間(西暦1532年〜1555年)町田兵庫(幼名七郎)正之(はじめ光康)此処に居り大堀之館と称す。天文二十三年(西暦1554年)武田晴信に降り本国小岩岳城攻略の際、敵将山崎七郎を討取り、軍功に拠り、駿州有渡郡大内郷にて三百貫、並本国高井郡福島村にて、二百貫文の采場を賜はる。其男町田丹波(幼名兵庫)光直父子共に武田信玄、同勝頼の二代へ仕へ、天正十年(西暦1582年)武田氏滅亡の後、弓箭を収め、菜園を開き農に帰す。後年号干支不詳、居館烏有に罹り焦土となる。磽确不毛の痩地にして、唯茅草を生ずるのみ。遺壕今猶存し、西南北の三方は、二間(約3.6m)或は三間(約5.5m)の場所葭草茂り、民有に属せり。其子孫今に十戸ありて其宗家たるは当今町田八重治なる者の家なりと云ふ。然れども旧記確証なく、唯土人の口碑に伝ふる所を記す。」とある…
…口碑にしてはやけに詳しくて草…が、問題がある。小岩嶽城が天文二十一年(西暦1552年)に落城した事は確実であり、町田氏が武田氏に出仕する以前の話である。更に言えば采地として賜った、「駿州有渡郡大内郷にて三百貫、」も極めて不審だ。個人的には若穂を領した綿内井上氏の一族、もしくは郎党だったと考えるのが自然だと思うのだが…
大塚館とも呼ばれている。該地は中世には更級郡大塚郷に属していた。天文七年(西暦1538年)、諏訪社上社の造営費用を負担する大塚郷の代官に、町田五郎兵衛、町田新介の名が見られる。
かつては、幅三間半(約6.4m)、高さ二間半(約4.5m)の土塁が四方を囲み、土塁の外側には、幅四間(約7.3m)、深さ九尺(約2.7m)の空堀が巡っていた。大堀之館の名称はこの堀に由来するんだろう。ちなみに大堀山とも呼ばれるらしいが、こちらの方は大塚の地名の成り立ちに関係しているとも。
居館の現況は…長野市立更北中学校の校庭と体育館の一部となっている。リア攻めはあらゆる意味で不可能だし、探索する必要性が微塵も無い。ちなみに中学校の正門前には立派な城跡碑が建っており、その傍らには説明板も立っている。
大堀之館は、弘治元年(西暦1555年)、第二次川中島の戦い、通称、「犀川の戦い」において武田勢の本陣が置かれた場所とも伝えられている。犀川を挟んだ上杉勢との戦いは約四ヵ月の長陣に及んだが小競り合いに終始、最終的には今川義元の仲裁により両勢は和睦、共に退陣している。町田氏はこの際に居館地を空けたて事になるんだろうか。
武田晴信が陣城とした物件…そうと知ればただの中学校の校庭の風景が一変したりするんだから、変態てつくづく救いようの無い生き物だなて思う。
※一説によれば綱島を領した綱島豊後守保品の館とも。
※菅谷不動尊の旧地でもある。
※写真は授業中だったので正門前で撮った1枚のみ。頑張ってもしょうもない。
2024年09月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
鍛冶屋敷[横田城 周辺城郭]
さて、夏場の居館廻りは結果として寺社廻りの彷徨でもある(居館地の旧地に寺社が創建、勧進される事が多々あるからだ。)。おいらはこの分野の門外漢である事を自覚している訳だけど、これ等において、密かについでとはいえそれなりの勉強もするようになった。成長してるんだろうか。この情熱と探究心が高校生ぐらいの時のおいらにあったら…たぶん東大にトップで合格…財務省に入省、キャリア街道を爆進、今頃は事務次官として辣腕を振るってたんじゃ…
( ' ^'c彡☆))Д´)バーン
鍛冶屋敷は横田城の北北東約2.1km、標高約357mの平野部平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているの浄土宗の寺院、「法蔵寺」を目標に設定して下さい。この寺院と隣接する伊勢神社の境内が概ねの該地であり、当然、車も捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは志津麿です…実はあんましやる気が無かった物件、名称のとおり鍛冶屋(刀工)の屋敷なのだ。「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があるので訪ねたが、本来の神本の趣旨からすれば対象外となる筈だ。個人的な趣味の範疇からも外れている。
「長野県町村誌」には、「本村(御厨村)西の方字北町裏にあり。往古越前国の名家、郷の義弘の孫、志津麿の住せし処なり、此者常に名刀を練る事莫耶に譲らず、其名四方に高し、然るに彼が旧国の浪士、志津麿訪来り滞在し、故ありて志津麿を害し脱去す、志津麿の子意三なる者、父の仇を復せんと故郷を去り畿内に志す。浪士漂白して旅費困じ、春日の社頭へ忍び入り金灯籠を盗み拘へらる。是豊臣氏執政の時なり。意三父の讐たるを以て、豊臣氏に請ふて復仇す。意三後に不正ありて刑せらるると云ふ。元和年間(西暦1615〜1623年)爰に伊勢社を移す。」とある…
…調べてみたら、郷(江)義弘は、南北朝時代、越中国新川郡松倉郷に住した実在の刀工、正宗十哲でもある。但し、「義弘」の在銘の作は皆無であり、刀剣マニアの間では、「郷とお化けは見たことがない。」とまで言われているんだそう。又、国宝、重要文化財に指定されている物が多く、作品は刀剣中、最も入手が困難な代物でもあるらしい。
町村誌の記述から、郷義弘の孫、志津麿とその子、意三が居した屋敷となる。志津麿も有能な刀工だった訳だが調べても何も出て来ない。深入りしないんでもぅいいや。
屋敷の現況は法蔵寺と伊勢神社の境内となっているが、「かじ屋敷」と呼ばれる場所は神社である。遺構は完全消滅、屋敷敷地範囲すら明確ではない。お参りでもしてとっとと帰ろう。ちなみにこの伊勢神社の造りは、素人でも伊勢社てのが判るそれっぽい佇まいだ。
該地は更級郡御厨村(廃村)に属していたが、「御厨」の地名は、平安時代の末期に成立したと推測される、富部(戸部)御厨等に由来する。「御厨」とは、伊勢神宮の神領となった荘園であり、該地の伊勢神社は、「戸部の御旅館(おたや)」と今も呼ばれている。「御旅館」は、伊勢神宮の御師が逗留する場所でもあった。
※「御厨」の地名は全国各地に残る。伊勢神宮パワーだ。ちなみに「みくりや」て読ませる…滅茶苦茶知ったかぶりしてるけど、数年前のおいらは「おんちゅう」て読んでた。阿保…
※写真①は東側、舗装道路上から撮影した近景っす。道は法蔵寺の手前で鉤の手となる。意味あるのか知らんけど。
※やる気は無かったけど、訪ねたからには何かしらを持って帰る。知らないでいる事は己れの視野を狭めている事に等しい。基本的に盲目のままリア攻めしても一向に楽しくないのが居館廻りだ。
2024年04月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
横田城
横田城は千曲川北岸(左岸)、標高約355mの平野部平場に立地した居館城の類いです。該地は第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」で上杉勢が渡渉した雨宮の渡しの対岸に当たるが、周辺における現在の千曲川の川筋は往時と異なり北方へ約0.9km移動している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。Googleマップが示すピンの位置はお城の説明板が立つ古殿稲荷社が鎮座する土塁の残欠上である。
築城年代、築城者は不明です。該地周辺は古来からの交通の要衝、律令制下で整備された東山道支道の道筋ははっきりしないが、麻績の駅家と犀川を渡る亘理の駅家の中間点に当たる。治承五年(西暦1181年)六月十四日には木曾義仲と城助茂が戦った「横田河原の戦い」が発生し、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際には、善光寺を発った信濃守護、小笠原長秀が同地に陣を進めている。双方の時代に横田城が存在していたのかは不明だが、少なくともそれに比定されるような何某かの目的を持った城館が存在していた事は確実なところだと考える。又、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」では、武田氏家臣の原大隅守虎吉が籠ったとの伝承が残るが、戦いの状況からすると現実的だとはとても言い難い。
横田城は外堀を周囲に巡らせた環濠集落となっており、西半分を「宮内(くねうち〜郭内を表す。)」、東半分を「古町」と呼ぶ。この宮内にある「殿屋敷」と呼ばれる部分が城館の位置となり、その西北隅に前述の土塁の残欠、古殿稲荷社が鎮座する。この土塁の北側には近年まで幅6m以上の堀が残っていたんだそう。又、周辺には、「馬出し」、「土居沢」と呼ばれる場所がある。
リア攻めは街中遺構ハントて感じ…該地は舗装道路が縦横無尽に走り、用水路が複雑に巡らされ、単純に堀形を追う事が極めて困難、城域をトレースする事さえ途方も無い作業となる。一応、概略図を参考にして廻ってみたけど、道形や用水路は必ずしも堀形を踏襲している訳ではないので尚更だ。ちなみに城域外東側に建つ地蔵寺には、前述の原大隅守虎吉の物と伝わる墓塔が残る。「八幡原の戦い」において実際に詰めていたのか知らんけど、ある一時期において在城、在番していたて事実はあるのかもしれない。
個人的には街中遺構ハントを最も苦手としている。最近では長野市市街地中心部なんかにも出没してるんだけど、おいらにとっては山中をふる◯んでリア攻めするより恥ずかしい事なんす。又、リア攻めの終了には本人の納得がどうしても必要になってくると思うんすけど、物件が物件だけにそれがなかなか出来なくて結構な時間を要したりもする。住宅地の中をカメラ片手に1時間も2時間も彷徨い続ける美少年を見掛けたら皆さんはどう感じます?人目が気になるお年頃なんすかねぇ…
…横田城の西方に位置する石川条理遺跡では古代の水田跡、溝遺構が検出されている。ちょと面白いのは洪水による土砂の堆積土層の上に中世以降の畑地跡が検出されている事、大小河川の洪水、氾濫等により水田としての土地の再利用が放棄され、より簡易な畑地としての開発が選ばれたらしい。河岸に定住する事の難しさもあるが、氾濫原故の肥沃な土地を容易に諦め切れない往時の人々の逞しさも感じる。
※横田城の南方約1.4kmに建つ浄土宗の寺院、観音寺は横田砦の旧地と推測されており、戦国時代以前の要害として利用されたのはこの横田砦であるとする説がある。ちなみに未把握だったんで今度行ってみる。
※原大隅守虎吉は決して有名な人物ではないんだけど、川中島古戦場跡に鎮座する八幡社には虎吉に纏わる色物伝承物件、「執念の石」が伝えられている。ちなみに事の真偽は当然不明なるも、武田信玄に斬り掛かる上杉政虎の乗馬を槍の柄で突いたのが虎吉なんだそう。
※本当にふる◯んで山中をリア攻めしているかについては謎なところだが、例え誰かに見付かって通報されても逃げ果せる自信だけはある。
※写真⑥は「馬出し」と呼ばれる場所っす。
※信濃⑧は隣接する可毛羽神社、横田城の裏鬼門に当たる。
2024年04月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽義仲墓所[横田城 寺社・史跡]
⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎
帰って来たかずりの自己満足口コミシリーズ、おいらの推し武将である木曽義仲関連の伝承、伝説地を丁寧に御紹介〜ちなみに全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…
木曽義仲墓所はアプリの登録城、横田城の城域内に建立された墓所、先週に訪ねたんすけど、義仲様関連物件だけでも100件を優に超えるネタを抱え込みながら急いで口コミする理由は…時が経ったら記憶に残っていないだろうと踏んだから。忘れない内に作成しとこう…
義仲様の墓所といえば、滋賀県大津市馬場の義仲寺と長野県木曽郡木曽町日義の徳音寺が有名だけど、長野県長野市篠ノ井会にもあるのれすっ!え、何故かって?…
…出直して来いやーっ!ヾ(。`Д´。)ノ
…出直されても困るので一応説明しとく。該地周辺は無位無官の義仲様が中央にまでその名を一気に轟かせる事になる、治承五年(西暦1181年)六月に行われた「横田河原の戦い」の舞台、義仲様は越後桓武平氏、城助茂の追討を受けて同地で激突、数に劣る義仲様だったけど、天才的な奇襲に打って出て助茂をぼこぼこに…そう、義仲様は強え〜んすわ。頼朝だったら態勢を立て直そうかな…とか尻込みして鎌倉に馬を返すと思うんだけど、義仲様は脳筋なんで躊躇せず殴り込み。やっぱし中二病的キーワードが付き纏う武士はかっちょよいっす。「寡兵」と「奇襲」には永遠の浪漫が詰まっちょる。
但し、戦いの舞台だっただけでは墓所が存在する理由にはならない。実は墓所を建立したのは木曽義仲の子孫を称する久保田さんで、先祖の霊を弔うために自宅敷地の一角に墓塔を建てたらしい。当然、埋物は何も無い訳だから正式には供養塔である。写真を見れば判るように墓塔自体は昭和に入ってからの物と思われ、説明板の年月日も昭和四十五年正月二十日となっている。なんで義仲様の子孫が此処にお住まいなのかは知らんけど…
墓所があるのは知っていたけど、探し出すのには苦労した。墓塔に対する大体のイメージてものは誰でも持っていると思うんだけど、この墓塔はおいらの想像とは見事にかけ離れていた。2回眼前を通り過ぎて、もしかしてこりかな?て思ったらやっぱしこりだった…てな感じ。墓塔は控え目な方が味があるなぁ…
※「横田河原の戦い」が行われた年月には諸説ある。口コミは「玉葉」に準じた。
※義仲様の墓塔は黒光りするなんちゃら石で見事なまでに悪魔チックだった…普通の地味な宝篋印塔であって欲しかったぜ…
※正直、史跡にもならないと思う。
※最近のおいらが萌えるキーワードは「出家」と「帰農」っす。
※この薄過ぎる物件の口コミに添削含めて1時間40分、阿保なんでしょか。
2024年04月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
大塔城(大塔の古要害)[横田城 周辺城郭]
大塔城(大塔の古要害)は横田城の南西約1.5km、岡田川東岸(左岸)、千曲川北岸(左岸)、標高約355mの平野部平場に立地したと推測される要害です。岡田川はかつて御幣川と呼ばれ、現在は長野県道383号、犀口下居返線とぶつかる場所で急にその向きを南へと変えて千曲川に流れ込むが、この川筋の変化は近世の灌漑事業に伴うものである。これ等に代表される灌漑事業、もしくは治水事業等により、岡田川、千曲川の流れ自体が大塔城の在りし頃と現在では大きく異なっている。往時の川筋は知るべくもないが、何れにせよ該地周辺は古来より大小河川が集中する場所であり、氾濫を繰り返した両河川と聖川等により往時が低湿地帯であった事は現地に赴けば容易に想像が付く。
行き方はGoogleマップに「大塔の古要害跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、大塔城は応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」を書いた「大塔物語」に登場する文献上の要害であり、その正確な位置は不明である。更に言えばこれに比定される要害も別に2箇所が存在し、そもそも論で存在自体を疑問視する向きもある。よって該地は推測地にしか過ぎず、Googleマップが示すピンの位置はお城の説明板が立つ大当公民館となっている。
築城年代、築城者は不明です。てか説明する事が出来ねぃ…
…おいらの口コミには「大塔合戦」がよく登場するんだけど、よい機会なんで改めて簡略的に説明しようと思う。信濃の中世を語る上では避けては通れない戦い。前述の「大塔物語」は史料批判が進まない(たぶん比べ得る物が存在しない。)二次史料ではあるが、他に史料等無く貴重である。
…鎌倉時代に信濃守護職を独占したのは北条氏であり、建武二年(西暦1335年)七月の「中先代の乱」では御内人であった多くの信濃の国人が北条時行の挙兵に応じ国内は騒乱した。更に南北朝時代には南朝方と北朝方に二分し、続く「観応の擾乱」では尊氏方と直義方に二分、乱後も中央の威令が及ばない土壌が形成され、公然と守護権力に抗する等、幕府は事態の収拾に困難を極めている。
南北朝合一後の応永六年(西暦1399年)、信濃守護に小笠原長秀が補任される。応永七年(西暦1400年)三月十六日、小笠原信濃守宛、足利義持御教書には、「海蔵寺雑掌申、信濃國太田庄領家職事、訴状、具書如比、早退押領人、可被全雑掌所務之由、所被仰下也、仍執達如件、」とあり、長秀は太田庄の領家である海蔵寺から幕府へ訴えのあった同庄の押領を速やかに退けるよう求められている。守護権力を基に各種事態の正常化を図ろうと画策する幕府の期待も当然大きかった筈だ。
七月三日、京を出立した長秀は煌びやかに一族郎党二百余騎を従えて善光寺に入り信濃の国人領主等に対面するが極めて高圧的だったとされる。戦いに至った直接の要因は、川中島において国人領主等が押領する土地での租税の徴収を強引に推し進めた事にある。
長秀は横田河原に八百余騎を集めるが、大文字一揆衆を加えた反守護方勢は四千余騎に膨れ上がり数の上でこれを圧倒する。防ぎ切れないと判断した守護方勢は逃れるが、退き際を追い討ちされて坂西次郎長国以下の三百余騎は「大塔の古砦」に逃げ込み籠城する。籠城の備えの無い戦いは馬を殺して糧食に充てる等、凄惨を極めたらしく、二十日余りの戦いでその殆どが討死もしくは自害した。又、松田家館のリア攻めマップにある塩崎城に逃れた長秀も反守護方勢に攻囲されるが、同族の信濃守護代、大井光矩の仲介で和議に及び辛くも京に逃れた。後の応永八年(西暦1401年)には信濃守護職を解かれている。長秀は失敗した訳だ。
…長くなったけど「大塔合戦」の一連の流れを説明してみた。最後の方にちょろて登場する「大塔の古砦」がこの口コミの大塔城を示しており、同城が存在したていう不確実な根拠となっている。明確な城郭遺構が確認出来ない以上、該地が推測地であり続ける理由もこれにある。近年まで堀形と土塁様の地形が残っていたとされるが、信濃のお城の神が示す城域も聞き込みと現況から判断した推測地に過ぎない。但し、周辺を途方も無く彷徨ってみた結果、あながち根拠の無い推測でもないように思える。
「大塔の古砦」における凄惨な戦いは攻囲側の一部にも衝撃を与えたようで、大文字一揆衆を構成した香坂氏当主、香坂左馬亮入道宗継は厭世と無常の念を抱き、後に窪寺観音堂に三七日籠をもって出家した。今で言う、心的外傷、PTSDて感じでしょか。
※「大塔の古要害」とあるように既に当時も廃城である。
※長野県立博物館には大文字一揆衆が用いたとされる旗が収蔵されている。「大」の一文字のみをデザインした旗は単純にかっちょよいっす。
2022年07月22日 武蔵守kangcheng
今井四郎兼平の墓[横田城 碑・説明板]
横田河原の合戦時、今井四郎兼平が陣取った場所と伝わる場所。
粟津の浜に散った兼平を弔うため家臣が建てた五輪塔が残る。
以前は農免道路沿いに看板があったが既に撤去されているので、隣接する今井神社を目印にするのが良いでしょう。
2022年07月19日 Yana右兵衛督
横田城
北側の道路側からは城跡とわかり辛く、この季節のせいか草が生い茂っていてちょっと残念。
2022年01月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
布施氏布施高田館(布施城)[横田城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
布施氏布施高田館(布施城)は横田城の北西約0.6km、標高約356mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地内には駐車場がありますが月極なので注意です。居館の存した場所は「内堀」、「佃(荘園制度において領主が直接経営する田を言う。)」の地名が残っています。
築城年代、築城者は不明ですが、伝承から布施氏の名が伝わります。この布施氏の出自が曲者でして、系図には「鳥羽院北面下総左衛門大夫正弘、有旅に居住し、岡田茶臼山に城を築き、その子左衛門大夫家弘、布施三郎惟俊共に居住する」、「佐久郡望月郷の望月三郎重俊の七代の孫の左衛門尉重盛の二男次郎助重布施郷に居住し、布施をもって氏とし、その孫布施八郎頼重岡田に城を築く」とかあるんですが、これにプラスして他説も二つあり、複雑過ぎて阿保には理解不能、布施の地名も佐久郡、更科郡に残っているので結局のところどうなんだみたいな感じです。
居館の現況は市街地、縄張図を見ると概ねで堀に囲われた方形居館だったようです。実はJR篠ノ井駅から東北に約0.3kmの駅近物件でして遺構が残っている方が奇跡でしょう。堀跡は部分で水路に変わっていますが、堀幅が全く狭まっている(確かに水路ではあるけど謂わゆる側溝っす。)し、暗渠になっている場所の方が多いので追う気になれません。居館なんで守る気も大して無かったとは思うんですが、周辺は千曲川に注ぐ御幣川、聖川の合流点に近く、往時は洪水の多発する低湿地帯だったそうです。又、居館の成立は鎌倉時代以前に遡ると思われるのですが、木曽義仲と城長茂による横田河原の戦い、信濃守護小笠原長秀と大文字一揆勢による大塔合戦、そして川中島の戦いではその存在時期も含めてどのように機能していたんでしょかね。
びっくりする事に居館の中心部付近に簡易な縄張図の付いた説明板が建っています。目標が不明確な事で悩んだりする事が多いこの手の居館跡ですが、これはとても優しい配慮だと考えます。行政側のこうした試みはただの市街地に重みを与えると同時にその地に連綿と脈づく歴史を証明してくれる物だと思います。マニア向け。
2020年05月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
湯ノ入神社城[横田城 周辺城郭]
湯ノ入神社城は横田城の西南約2.9km、標高約410mの台地状緩斜面上平場に主郭が存します。南麓からの比高は25m位でしょか。名前のとおり現在は湯ノ入神社が鎮座していますが、少なくとも室町時代には村上氏の庶流、夏目氏の要害がありました。お城の跡地系の神社っすね。
応永七年(西暦1400年)、赴任して来た信濃守護小笠原長秀の横暴にぶち切れまくった信濃の国人衆は、大文字一揆衆に呼応して守護方をこの近辺でフルボッコしていますが、大塔物語にある守護方が逃げ込んだとされる大塔古城の一つにお城は比定されていました。しかし発掘調査の結果、この頃には既に廃城されていたそうです。ちなみに真田氏の文書上の初見はこの大塔物語であり、大塔古城大手門攻めの禰津遠光配下に「実田」として記録されているのがそうなんじゃないかなとする説があるそうです。
三方ヶ原の合戦で徳川家康を無理矢理逃し、25騎を率いて奮戦、身代わりとなって討死した夏目吉信はこの夏目氏の出身です。吉信の直系は無跡断絶しましたが、二人の男子の家系は旗本として存続しました。旧制中学の生徒が数学教師の眠る蚊帳の中にイナゴを投げ入れる小説、坊っちゃんで有名な、自分でも知ってる夏目漱石はこの旗本の子孫ということになりますね。
お城はただの神社かと思っていたら、意外にもお城っぽくて楽しめました。主殿のある削平地には小郭だったと考えられる大きな盛土があり、これには改変でなければ土塁のような高まりも確認出来ます。周辺には堀を想起させる窪みもいくつかあったりなんかして、思わぬ探索魂に突然火を付けることになるかもしれません。が、自分が訪城した時は雨が降って来たので一気に鎮火しました。
色んなお城にもそれぞれの歴史あり…物語があることで興味は数倍にもなりますね!たぶん誰も行かないとは思いますが、行き方はGoogleマップに位置登録されている湯入神社を目標に設定して下さい。ちなみに二柳神社と入力するともう一つ似たようなお城に辿り着きます。
2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
横田城
篠ノ井市の住宅地にある。駅から東へ600メートルほど、駐車場はない。小さな塚状の盛り土があるので、土塁痕跡か。
横田城の周辺スポット情報
今井四郎兼平の墓(碑・説明板)
湯ノ入神社城(周辺城郭)
布施氏布施高田館(布施城)(周辺城郭)
篠の城(岳の城・御座平)(周辺城郭)
茶臼山陣場(周辺城郭)
二ッ柳神社城(二ッ柳城)(周辺城郭)
大塔城(大塔の古要害)(周辺城郭)
小森氏館(周辺城郭)
水沢氏屋敷(周辺城郭)
戸部城(蔵屋敷)(周辺城郭)
鍛冶屋敷(周辺城郭)
真島氏館(周辺城郭)
大堀之館(町田氏屋敷)(周辺城郭)
町田氏屋敷(周辺城郭)
横田砦(周辺城郭)
杵渕館(殿屋敷)(周辺城郭)
荒堀内記屋敷(周辺城郭)
広田城(広田の砦)(周辺城郭)
木曽義仲墓所(寺社・史跡)
原大隅守の墓(寺社・史跡)
槌井神社(寺社・史跡)
昌龍寺(寺社・史跡)