杵渕館(殿屋敷)

杵渕館(殿屋敷)([横田城  周辺城郭])

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杵渕館(殿屋敷)の口コミ情報

2024年09月24日 内記かずりヾ(・ε・。)


杵渕館(殿屋敷)は横田城の東方約3.2km、千曲川西岸(左岸)、標高約352mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは杵渕氏です。該地の北東約0.4kmの位置には、同じ横田城のリア攻めマップにある荒堀内記屋敷が立地するが、屋敷の主、荒堀内記はこの杵渕氏の被官であったと伝えられている。

「長野県町村誌」には、「本村(杵渕村)南の方杵渕にあり。里俗伝杵渕氏屋敷跡と云ふ。少しく丘壟をなし、雑木数株あり。周囲に塁及遺濠あり。近年崩れ堙りたりと雖も、自ら其形を存す。里俗伝に杵渕氏代々居住し、本村を領せしと云ふ。後氏を中沢氏と改称す。(今東京都に住す中沢氏は則本村杵渕氏の後胤なり。)杵渕山中沢寺 中沢氏の開基なり。除地若干を寄付す。後高五石の地となる。維新の際上知す。」とある。

該地の杵渕は、長野県小諸市大久保の天台宗の名刹、布引山釈尊寺が蔵する、元亨元年(西暦1321年)十一月十八日の「大般若経奥書」に、「於信濃国更級郡富部御厨、杵渕郷、書写畢」とあり、鎌倉時代の末期には郷村として富部御厨の内にあったことが判る。

平安時代の末期に富部御厨を領したのは伊勢平氏、平正弘であり、同御厨には正弘の郎党、もしくは後裔と推測される、富部三郎家俊があった。家俊は、治承五年(西暦1181年)六月に行われた「横田河原の戦い」において、上野国の住人、西七郎広助が為に討死、家俊の浪党、杵淵小源太重光(勘当中の身であった。)が広助を仇とばかりに討ち取るが、重光も敵に囲われ、太刀を口に咥えて馬から飛び降り壮絶な自害を果たした(「源平盛衰記」)。

以降、富部氏の郎党であった杵渕氏は歴史の表舞台から姿を消す。戦国時代には村上氏に従って越後に逃れ上杉氏の下で活躍した杵渕備中守が出たとされるが詳細は不明だ。

居館の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。何も無いかと思いきや、西辺には堀形と高さのある土塁の残欠がしっかりと残っている。土塁上には稲荷社が鎮座、この部分は北西隅に当たるが、櫓台でも建っていたんじゃないかと思えるぐらいの幅員もある。かずぽん感動…ちなみにこの土塁前には杵渕館跡を示す説明板も立っている。

川中島て今は高低差の殆ど無いだだっ広い平野地だけど、江戸時代の初頭までは、犀川から南流して千曲川に流れ込む多数の大小河川によって文字通りの川中の島々の様相を呈していた(現在も「島」の付く地名が多い。)。千曲川自体の流れにも変遷があり、「川中島の戦い」の頃の川筋は現在よりも南寄りであった。即ち、川水は、横田から小森へ向けて流れた後に東南へ向きを変え、赤坂山(妻女山)の山裾を洗い、清野で急に向きを変えて杵渕の東側を北流する。河川の蛇行点付近では滞留する流れによって淵を形成する事が多いが、「杵渕」の地名もきっとこれに由来するものなんだろう。

※川中の島々〜オーバーな描き方をされているとはいえ ネット等で流布されている古地図等を参照するとよい。

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