水沢氏屋敷
水沢氏屋敷([横田城 周辺城郭])
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水沢氏屋敷の口コミ情報
2024年10月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
水沢氏屋敷は横田城の東北東約3.9km、千曲川西岸(左岸)、標高約350mの平野部平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは水沢氏です。同名については全くの不明だ。該地の南南西約1.2kmの位置には、同じ横田城のリア攻めマップにある杵渕館が立地するが、居館の主、杵渕氏に水沢氏は仕えていたと伝えられている。
「長野県町村誌」には、「村(杵渕村)北方水沢にあり。塁及び濠周囲に存せり。近年水田となす。水沢氏は俗名重輔と称し、杵渕氏の臣なりと云ふ。事跡不詳。後該地に松代藩士小出某居住す。今平民今井某の宅地なり。」とある。
同じ横田城のリア攻めマップにある戸部城の城主、戸部家俊の郎党に杵渕小源太重光があり、その被官の屋敷て事になる。細か過ぎるんでそれ以上の事は全く不明、時代的にも平安時代の末期て事になるしね。平氏に与した家俊の陪臣に当たる重輔の事情てもんを察してやろう。ちなみに主の重光は、治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」で敵勢に重囲され壮絶な自害を果たしている(「源平盛衰記」)。
屋敷の現況は…耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。遺構としては西辺と北辺に堀形が残っているが、堀形てよりはただの段差に近いレベル、縄張図にでも描かれなければ誰も気が付かないだろう。町村誌の記述から江戸時代までは武士の居住があった訳だが、一帯は千曲川の氾濫原でもあり、屋敷の主は大水の時にはさぞかし緊張した事だろう。
該地の東南東約0.1kmの位置には槌井神社が鎮座、その祭神は事大主神と八杵命である。同社は時代不明なるも、水沢氏の主人である杵渕氏の創建と伝わり、杵渕氏の氏神であったとも。又、八杵命は諏訪地方でしか見る事が出来ないレア神様だが、諏訪社上社の五官祝の一つ、禰宜大夫を務めた小出氏の祖神と伝えられている。町村誌が言う、「松代藩士小出某」と何か関係があるのだろうか。
※写真⑧は文中にある槌井神社を撮影したもの。