荒堀内記屋敷
荒堀内記屋敷([横田城 周辺城郭])
横田城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「荒堀内記屋敷」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
荒堀内記屋敷の口コミ情報
2024年09月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、おいらはこのアプリでずっと「内記」の受領名を自称し続けている。が、意味なんか特に無くて、「NIKE」みたいでかっちょよいじゃんぐらいのレベルの話だ。「内記かずり」で定着しちゃった感じもあるし、今更変えるのもなんだしねぇ…今回の口コミは、そんな「内記」を名乗る方のお住まいなんだけど、従って何か個人的に特別だったりとか、感慨深いとかの気持ちは一切ありまてん…
荒堀内記屋敷は横田城の東方約3.4km、千曲川西岸(左岸)、標高約351mの平野部平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ荒堀公民館に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは荒堀内記です。同名については全くの不明だ。該地の南西約0.4kmの位置には、同じ横田城のリア攻めマップにある杵渕館が立地するが、荒堀内記は、居館の主、杵渕氏に仕えていたと伝えられている。
「長野県町村誌」には、「本村(杵渕村)中央荒堀組にあり。丘の形をなし、今士族某の宅地となれり。里俗伝に荒堀内記は本村杵渕氏の家臣なりと云ふ。」とある。
同じ横田城のリア攻めマップにある戸部城の城主、戸部家俊の郎党に杵渕小源太重光があり、その被官の屋敷て事になる。細か過ぎるんでそれ以上の事は全く不明、時代的にも平安時代の末期て事になるしね。平氏に与した家俊の陪臣に当たる内記の事情てもんを察してやろう。ちなみに主の重光は、治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」で敵勢に重囲され壮絶な自害を果たしている(「源平盛衰記」)。
屋敷地の正確な場所は不明であり、該地は信濃のお城の神が導き出した比定地である。荒堀組の中心地且つ、最も古い場所である事がその理由だ。
屋敷の現況は…一般住宅とその敷地、公民館等となっている。該地に建つ一般住宅の北側には堀跡が残っていたとの家伝があるらしいが、遺構は完全消滅、町村誌が言うところの、「丘の形をなし。」もすっかり平らげられてしまっており、現在は一面の平場である。推定屋敷地の北西側には辻を控えるので集落の中心地である事に間違いは無いんだろう。
該地の北北東約0.6kmの位置には、みんな大好き武田信繁の墓所が残る曹洞宗の寺院、松操山典厩寺が立地するが、その東側の一帯には「猫島」と名付けられた地籍がある。謂わゆる千曲川の氾濫原、「猫ヶ瀬」と呼ばれる場所であり、更にその北方には、「陣ヶ瀬」、「馬場ヶ瀬」と浅瀬が続き、同川の渡渉が十分に可能であった。永禄四年(西暦1561年)、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、海津城を出立した武田勢の本陣は、こうした浅瀬を渡って八幡原に押し出した筈だ。
※「八幡原の戦い」〜戦国時代史上、最も有名な戦いの一つだが、長野市立博物館で観る事が出来る八幡原の戦いの紹介映像中にもあるとおり、戦いの真相を知る者は誰もいない。伝えられる戦いの様相は、後世の「上杉軍記」や「甲陽軍鑑」を基にしており、両書に書かれる事を事実だと断ずるのは少々乱暴である。
※写真⑧は該地に建つ猿田彦大神の石碑を撮影したもの。屋敷地とは何の関係も無いだろう。