広田城(広田の砦)
広田城(広田の砦)([横田城 周辺城郭])
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広田城(広田の砦)の口コミ情報
2024年10月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
広田城(広田の砦)は横田城の北東約3.2km、標高約356mの平野部平場に立地する居館城です。
行き方はGoogleマップに「藤牧館(広田砦)跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ曹洞宗の寺院、佛日山東昌寺に捨てられる。
築城年代、築城者は不明です。城主としては小笠原氏の一族、水内郡小河庄内を本貫地とする大日方氏の惣領、大日方美作守直忠(入道)の三男、佐渡守直長、その子、山城守直家の名が伝わる。大日方氏は武田氏に重用された一族であり、「大日方文書」には、武田晴信(信玄)、同勝頼発給の書状等が多数残されている。
「長野県町村誌」には、「本村(田牧村)卯(東)の方一町にあり。本郭東西三十間(約54.5m)、南北五十間(約90.9m)、外郭東西八十間(約145.5m)、南北九十間(約163.6m)、周囲壕を繞らす。壕跡尚存す(該地は元村上氏の幕下某の邸跡なり)天文、弘治中、本村武田晴信の所有となり、同氏此砦を築き、安曇郡千見城主、大日方佐渡守源直長(水内郡古山城主、大日方美作守三男なり)武田氏に属し、此砦を守る。後其男山城守直家嗣で守る。天正十年(西暦1582年)武田氏亡ぶるの後、上杉氏に属す。慶長三年(西暦1598年)三月上杉景勝、会津へ移封の際浪人となり、本領水内郡小根山村に居住し、農に復す。今此地を穿つもの、往々武具の腐損したるものを得る事あり。直家父直長の冥福を祈り、天正五年(西暦1577年)一寺を開基す。即昌龍寺是なり。」とある。
お城の現況は耕作地、一般住宅地、前述の東昌寺の境内、藤牧公民館等となっている。該地に建つ東昌寺縁起の説明板に添付された縄張図は境内のみを城域と図示しているが、実際には四方へかなりの広がりを見せている。境内を取り巻く舗装道路は全て内堀の跡、外堀の跡は不明だが、往時は二重の空堀で囲われていたとも。城郭遺構としては本堂の北東側に立派な土塁の残欠が残っている。
該地(東昌寺)の東方約0.2kmの位置には、町村誌に記述がある、曹洞宗の寺院、光陽山昌龍寺が立地する。現在のGoogleマップ等でも混乱を見せているが、長きに亘って昌龍寺の境内が広田城の中心地と目されてきた。昌龍寺の住職さんのお話しによると、寺地は砦の外を選んで創建されたと伝わっているそうなので、昌龍寺の場所は城域外に該当すると考えてよいようだ。但し、同寺も不正形な四辺を舗装道路(堀跡)に囲われた寺院であり、広田城とは別の中世城館の旧地だったとも考察されている。即ち、大日方氏の入部以前には、村上氏の一族、広田氏が、小島田、広田、藤牧を知行していた時期があり、昌龍寺の位置には広田氏の居館地が、東昌寺の位置には広田氏の一族、藤牧氏が居館していたとも推測されている。
昌龍寺は大日方佐渡守直長の菩提寺だが、墓地の一角には上人の物と並んで同名の五輪塔が残っている。又、境内の一角には、松代城の隅櫓(火の見)とも伝承される火の見櫓が屹立する。住職さんのお話しによると、松代城の櫓は精緻な図面が全て残されているそうで、偉い先生がやって来てこれに照らし合わせたところ、該当するような櫓は残念ながら無かったんだそう。現在の櫓自体も上段が継ぎ足されているそうだが、松代城の櫓の部材を持ち運んで再利用、火の見櫓を建てた可能性は十分にあるらしい。ぷち浪漫すね。
※大日方氏〜「おおひがた」、「おおひなた」、「おびなた」と読ませる。同氏は戦国時代に発祥した一族だが、史料等が豊富、特に武田氏時代の物が数多く残されている。同氏の各人はそれぞれちょとした北信のキーパーソンでもあるので詳細にあっては別の機会に譲りたい。又、一般的にはあまり知られていない大日方氏だが、当時の一族の軍役を合わせると三百騎を優に超えていたらしい。ちなみにwikiの記述は佐渡守直長の部分で矛盾を抱えている。
※写真⑧は要るのか知らんけど南東側の舗装道路から撮影した近景っす。
※昌龍寺については別にスポット登録して写真だけ置いておく。丸に二引きの家紋(大日方氏のもの。)が目立つ由緒あるお寺さんだ。