小森氏館
小森氏館([横田城 周辺城郭])
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小森氏館の口コミ情報
2024年09月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
小森氏館は横田城の東南東約1.5km、千曲川北岸(左岸)、標高約353mの平野部平場に立地した居館です。現在の居館地は中央部分を斜めに横切る千曲川の堤防により大きく分断されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。堤防上への進入は軽自動車のみ可能である。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小森氏です。同氏の確かな事跡等は全く不明だ。
「長野県町村誌」には、「本村(小森村)の南方にあり。本丸東西四十四間(約80m)南北四十間(約72.7m)余、平地より三間(約5.5m)許高地なり。四面空壕ありて、回字形をなす。南に千曲川を繞らし、乾(北西)の方に大壟あり。小森氏居城せしと云ふ。事跡不詳。今該地をうがつもの往々古城具を得たり。」とある。
伝承によれば、諏訪氏の一族、小森遠江守の居館地である。小森氏は武田氏被官時代を経て、その滅亡後には上杉氏に従い会津へ移ったとされるが確証は無い。
居館の現況は…耕作地、空地、堤防等となっている。該地は高さ約5.5mの微高地だった訳だが、平らげられてしまったのか既に周囲との差は殆ど無い。又、居館敷地範囲の中央部分、南西隅から北東隅にかけて堤防が築かれており、この部分は往時よりも随分と高くなっている。遺構としては北西隅に若干の堀形、地元の人が荒神山と呼ぶ土塁の残欠が残り、土塁上には、慶安四年(西暦1651年)の年号が刻まれた石祠が鎮座、裏面には「小森云々」の文字も見えるんだそう。石祠は小森氏縁の物とも伝わり、村民に安産の神として崇められてきたとも。
小森氏館の東南東約0.3kmの位置には千曲川を渡渉可能な「十二ヶ瀨」と呼ばれる浅瀬がある。その対岸に聳える山塊の一部が、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」の際に上杉勢が本陣を置いた妻女山だ。小森付近では千曲川の川筋は殆ど変わっていない事から、十二ヶ瀬の浅瀬も当時から存在していたのであろう。
この十二ヶ瀬を渡れば妻女山から最短距離で八幡原に至るが、上杉勢は本陣から距離のある西方の雨宮の渡しを使って八幡原へ押し出している。眼前の浅瀬を捨てて渡し場を選んだのは何故であろうか。大人数が渡るのには難しかったとも考えられるが、山塊山中を通り、人数の行動を隠匿し、雨宮の渡しを渡る事で武田勢の裏をかく事を狙ったようにも思える。口で言うのは簡単だが、相手の動きを見極め、多勢の人数を纏め上げ、現地で実際に行動に移す事の難しさは後世の人間でも理解出来る。信玄ほどの人物を相手にそれをやってのけるのだから、謙信が稀代の戦上手である事に全く異論は無い。
※「十二ヶ瀬」〜周辺にある戌ヶ瀬と共に上杉勢の甘粕近江守が本陣と別れて後詰を果たすべく留まった場所とも伝わる。この働きにより妻女山に攻め寄せた武田勢の別隊は距離のある猫ヶ瀬に殺到、八幡原への着陣、加勢が遅れたとも伝わる。これを信ずるならば、謙信は決着を付けるべく算段を施し、八幡原での本陣同士のぶつかり合いに殺る気も満々だった訳だ。戦いにおいては最終的に敗走した謙信だったが、正に乾坤一擲、その狙いは信玄の首一つだったのだろう。関東管領の身にありながら勝敗の全てをそれに賭ける事が出来る…改めて言うが凄い男だ。
※町村誌に添付された小森村の絵図を見ると、明治時代の初頭、村内には、「川越」、「古戦場」の字地があった事が判る。
※現在の地図と往時の地形には大きな隔たりがある。千曲川の川筋に変化がある他、特に往時は犀川から南流して千曲川に流れ込む大小河川(基本的に乱流であった。)が無数に存在していたので注意が必要だ。従って、現在の地図を用いて「八幡原の戦い」の様相を細かく再現しようとする試みは誤りである。机上で知ろうとするよりは丹念なフィールドワークを頑張ろう、海津城、妻女山や茶臼山、千曲川を意識しながらの探索は凄く楽しいぜ。
※謂わゆる堤防分断系の城館だ。他にあるのか知らんけど。