鍛冶屋敷
鍛冶屋敷([横田城 周辺城郭])
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鍛冶屋敷の口コミ情報
2024年09月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、夏場の居館廻りは結果として寺社廻りの彷徨でもある(居館地の旧地に寺社が創建、勧進される事が多々あるからだ。)。おいらはこの分野の門外漢である事を自覚している訳だけど、これ等において、密かについでとはいえそれなりの勉強もするようになった。成長してるんだろうか。この情熱と探究心が高校生ぐらいの時のおいらにあったら…たぶん東大にトップで合格…財務省に入省、キャリア街道を爆進、今頃は事務次官として辣腕を振るってたんじゃ…
( ' ^'c彡☆))Д´)バーン
鍛冶屋敷は横田城の北北東約2.1km、標高約357mの平野部平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているの浄土宗の寺院、「法蔵寺」を目標に設定して下さい。この寺院と隣接する伊勢神社の境内が概ねの該地であり、当然、車も捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは志津麿です…実はあんましやる気が無かった物件、名称のとおり鍛冶屋(刀工)の屋敷なのだ。「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があるので訪ねたが、本来の神本の趣旨からすれば対象外となる筈だ。個人的な趣味の範疇からも外れている。
「長野県町村誌」には、「本村(御厨村)西の方字北町裏にあり。往古越前国の名家、郷の義弘の孫、志津麿の住せし処なり、此者常に名刀を練る事莫耶に譲らず、其名四方に高し、然るに彼が旧国の浪士、志津麿訪来り滞在し、故ありて志津麿を害し脱去す、志津麿の子意三なる者、父の仇を復せんと故郷を去り畿内に志す。浪士漂白して旅費困じ、春日の社頭へ忍び入り金灯籠を盗み拘へらる。是豊臣氏執政の時なり。意三父の讐たるを以て、豊臣氏に請ふて復仇す。意三後に不正ありて刑せらるると云ふ。元和年間(西暦1615〜1623年)爰に伊勢社を移す。」とある…
…調べてみたら、郷(江)義弘は、南北朝時代、越中国新川郡松倉郷に住した実在の刀工、正宗十哲でもある。但し、「義弘」の在銘の作は皆無であり、刀剣マニアの間では、「郷とお化けは見たことがない。」とまで言われているんだそう。又、国宝、重要文化財に指定されている物が多く、作品は刀剣中、最も入手が困難な代物でもあるらしい。
町村誌の記述から、郷義弘の孫、志津麿とその子、意三が居した屋敷となる。志津麿も有能な刀工だった訳だが調べても何も出て来ない。深入りしないんでもぅいいや。
屋敷の現況は法蔵寺と伊勢神社の境内となっているが、「かじ屋敷」と呼ばれる場所は神社である。遺構は完全消滅、屋敷敷地範囲すら明確ではない。お参りでもしてとっとと帰ろう。ちなみにこの伊勢神社の造りは、素人でも伊勢社てのが判るそれっぽい佇まいだ。
該地は更級郡御厨村(廃村)に属していたが、「御厨」の地名は、平安時代の末期に成立したと推測される、富部(戸部)御厨等に由来する。「御厨」とは、伊勢神宮の神領となった荘園であり、該地の伊勢神社は、「戸部の御旅館(おたや)」と今も呼ばれている。「御旅館」は、伊勢神宮の御師が逗留する場所でもあった。
※「御厨」の地名は全国各地に残る。伊勢神宮パワーだ。ちなみに「みくりや」て読ませる…滅茶苦茶知ったかぶりしてるけど、数年前のおいらは「おんちゅう」て読んでた。阿保…
※写真①は東側、舗装道路上から撮影した近景っす。道は法蔵寺の手前で鉤の手となる。意味あるのか知らんけど。
※やる気は無かったけど、訪ねたからには何かしらを持って帰る。知らないでいる事は己れの視野を狭めている事に等しい。基本的に盲目のままリア攻めしても一向に楽しくないのが居館廻りだ。