真島氏館
真島氏館([横田城 周辺城郭])
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真島氏館の口コミ情報
2024年10月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
真島氏館は横田城の北東約6.7km、千曲川西岸(左岸)、標高約346mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは真島氏です。真島氏は、小笠原長清の後裔、大室牧の牧監、時光を始祖とする大室氏の分流とされ、該地の「堀之内」に居館を築いた。
更級郡真島の地は、鎌倉時代から戦国時代には真島郷と呼ばれていた。「真島」は「馬島」であり、古くは大室牧の一部を構成していたとも推測されている。
「吾妻鏡」、文治二年(西暦1186年)三月十二日庚寅の条、「乃貢未済庄々注文」の中に、貢税を未済する庄々として、「善光寺領河居、馬嶋、村山・吉(布)野」とあるのが真島の文書上の初見、嘉歴四年(西暦1329年)三月の諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、六番五月會分の条には、「右頭、山龐郷諏方刀四郎左衛門跡、付馬鳴(嶋)郷地頭等、」とあり、馬嶋郷には地頭があった事が判る。又、同年同月の「諏訪社上社造営目録案」によれば、馬嶋郷は玉垣二間分を負担している。
「諏訪御符禮之古書」、享徳三年(西暦1454年)甲戌の条には、「一 真嶋花會本所好て当候真嶋入道沙弥慈昌御符之禮三貫三百文御頭二十貫御教書」、長禄四年(西暦1460年)庚辰花會の条には、「一 磯並真嶋入道沙弥慈昌御符之禮四貫三百文頭役三十貫御教書禮三貫三百」、寛正七年(西暦1466年)丙戌花會の条には、「一 宮加頭真嶋讃岐守昌持御符之禮三貫三百問使二郎太郎御鉾本一貫三百頭役三十貫御教書禮三貫三百」、文明二年(西暦1470年)庚寅五月會の条には、「一 加頭真嶋讃岐守呂(昌)枝御符禮四貫八百文使曾次二郎頭役三十貫御教書禮三貫三百同使」、文明六年(西暦1474年)甲午明年花會御頭定の条には、「一 加頭真嶋讃岐守昌政御符禮 三貫三百使孫六御教書同前」、文明十年(西暦1478年)戊戌明年花會の条には、「一 加真嶋花會讃岐守昌枝御符祝三貫三百両度使金五郎四郎殿頭役三拾貫御教書禮三貫三百三十三文」、文明十五(西暦1483年)癸卯御射山明年御頭定の条には、「一 磯並真嶋宮内少輔昌秀御符禮三貫三百三十三文御頭役二拾貫御教書同前」、長享二年(西暦1488年)戌申花會明年御頭定の条には、「一 磯並真嶋周防守昌持御符禮三貫三百三十三文使孫六御教書禮三貫三百三十三文にて候と真嶋殿先年折紙を進し置候頭役直納両奉行判形被進候」とあり、真島氏の各人の名が多数確認出来る。「応仁の乱」、もしくはその前後に当たる時期(「信濃文正の変」)だが、川中島の小豪族である同氏が一貫して真島郷にあり続ける事が出来たのは何故だろうか。又、大永三年(西暦1523年)、真島右衛門尉が眼病平癒祈願のため、堀之内の屋敷内に薬師如来堂を建立、別に医王院を開基創建している。
戦国時代、真島氏は村上氏に従い越後に逃れていたようだが、武田氏の滅亡後、信長の横死後、川中島に勢力を伸長させた上杉氏によって同氏は信濃に還住を果たした。天正十年(西暦1582年)七月十六日、真島与七郎宛、上杉景勝宛行状案には、「今度額田跡出置候、可致知行者也、仍如件、」とあり、上杉景勝は、真島与七郎に、額田の旧跡(調べたけど何処になるのかは不明だ。)を宛行っている。又、文禄三年(西暦1594年)九月、上杉氏の「定納員数目録」には、「二百十七石 真嶋民部、三十五石 真嶋源左衛門、七石 真嶋平助」とある。後に真島氏は上杉氏の会津移封に従って信濃を離れる事になるが、これに名を連ねる人物がそうした者達なんだろう。同氏は、慶長五年(西暦1600年)、上杉氏の大減封によって会津の地で帰農する事になる。
居館の現況は…耕作地、空地、一般住宅地等となっている。居館敷地範囲は不明、遺構は完全消滅、堀跡を追う事すら出来ない。大手は南側だったらしいが…そんなもん知ったところでねぇ…とっとと帰ろうよ。ちなみにたぶん往時は微高地だった筈だ。
大室牧は「延喜式」に載る信濃十六牧の一つ。現在の長野市松代町大室には、「一等牧」、「牛新田」、「室牧」等の牧に関係する地名が今も残り、大室の南方には、「牧島」、北方には、「牛島(輪中の旧村として知られる。)」の地名が大字として残っている。「真(馬)島」はその千曲川の対岸に当たる地域だが、大室牧が同川の両岸に及んでいたと推測される根拠の一つになっている。
※「信濃の山城と館2、更級・長野編」に掲載があるが、真島氏の記述には誤りがある。