大堀之館(町田氏屋敷)
大堀之館(町田氏屋敷)([横田城 周辺城郭])
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大堀之館(町田氏屋敷)の口コミ情報
2024年09月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
大堀之館(町田氏屋敷)は横田城の北東約5.2km、犀川南岸(右岸)、標高約350mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じくGoogleマップに位置登録されている南西側の「南組公民館」に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは町田氏です。同氏については確証が全く得られないが、治承四年(西暦1180年)、平氏打倒に失敗した以仁王に従って信濃に逃れ(以仁王が信濃に落ち延びた事実は無い。)、信濃国高井郡若穂町田に落居、在名を名乗って町田氏を称したとするものがある。大堀之館は、応安元年(西暦1368年)、町田盛実によって築かれたとも伝わるが…
「長野県町村誌」には「町田氏屋敷跡」として、「東西丗四間(約61.8m)南北丗五間(約63.6m)、面積三反九畝廿歩(約3934㎡)、村(大塚村)の午(南)の方字南耕地の中央にあり。天文年間(西暦1532年〜1555年)町田兵庫(幼名七郎)正之(はじめ光康)此処に居り大堀之館と称す。天文二十三年(西暦1554年)武田晴信に降り本国小岩岳城攻略の際、敵将山崎七郎を討取り、軍功に拠り、駿州有渡郡大内郷にて三百貫、並本国高井郡福島村にて、二百貫文の采場を賜はる。其男町田丹波(幼名兵庫)光直父子共に武田信玄、同勝頼の二代へ仕へ、天正十年(西暦1582年)武田氏滅亡の後、弓箭を収め、菜園を開き農に帰す。後年号干支不詳、居館烏有に罹り焦土となる。磽确不毛の痩地にして、唯茅草を生ずるのみ。遺壕今猶存し、西南北の三方は、二間(約3.6m)或は三間(約5.5m)の場所葭草茂り、民有に属せり。其子孫今に十戸ありて其宗家たるは当今町田八重治なる者の家なりと云ふ。然れども旧記確証なく、唯土人の口碑に伝ふる所を記す。」とある…
…口碑にしてはやけに詳しくて草…が、問題がある。小岩嶽城が天文二十一年(西暦1552年)に落城した事は確実であり、町田氏が武田氏に出仕する以前の話である。更に言えば采地として賜った、「駿州有渡郡大内郷にて三百貫、」も極めて不審だ。個人的には若穂を領した綿内井上氏の一族、もしくは郎党だったと考えるのが自然だと思うのだが…
大塚館とも呼ばれている。該地は中世には更級郡大塚郷に属していた。天文七年(西暦1538年)、諏訪社上社の造営費用を負担する大塚郷の代官に、町田五郎兵衛、町田新介の名が見られる。
かつては、幅三間半(約6.4m)、高さ二間半(約4.5m)の土塁が四方を囲み、土塁の外側には、幅四間(約7.3m)、深さ九尺(約2.7m)の空堀が巡っていた。大堀之館の名称はこの堀に由来するんだろう。ちなみに大堀山とも呼ばれるらしいが、こちらの方は大塚の地名の成り立ちに関係しているとも。
居館の現況は…長野市立更北中学校の校庭と体育館の一部となっている。リア攻めはあらゆる意味で不可能だし、探索する必要性が微塵も無い。ちなみに中学校の正門前には立派な城跡碑が建っており、その傍らには説明板も立っている。
大堀之館は、弘治元年(西暦1555年)、第二次川中島の戦い、通称、「犀川の戦い」において武田勢の本陣が置かれた場所とも伝えられている。犀川を挟んだ上杉勢との戦いは約四ヵ月の長陣に及んだが小競り合いに終始、最終的には今川義元の仲裁により両勢は和睦、共に退陣している。町田氏はこの際に居館地を空けたて事になるんだろうか。
武田晴信が陣城とした物件…そうと知ればただの中学校の校庭の風景が一変したりするんだから、変態てつくづく救いようの無い生き物だなて思う。
※一説によれば綱島を領した綱島豊後守保品の館とも。
※菅谷不動尊の旧地でもある。
※写真は授業中だったので正門前で撮った1枚のみ。頑張ってもしょうもない。