大塔城(大塔の古要害)

大塔城(大塔の古要害)([横田城  周辺城郭])

横田城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「大塔城(大塔の古要害)」の地図・口コミがご覧頂けます。

「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。

大塔城(大塔の古要害)の口コミ情報

2024年04月11日 内記かずりヾ(・ε・。)


大塔城(大塔の古要害)は横田城の南西約1.5km、岡田川東岸(左岸)、千曲川北岸(左岸)、標高約355mの平野部平場に立地したと推測される要害です。岡田川はかつて御幣川と呼ばれ、現在は長野県道383号、犀口下居返線とぶつかる場所で急にその向きを南へと変えて千曲川に流れ込むが、この川筋の変化は近世の灌漑事業に伴うものである。これ等に代表される灌漑事業、もしくは治水事業等により、岡田川、千曲川の流れ自体が大塔城の在りし頃と現在では大きく異なっている。往時の川筋は知るべくもないが、何れにせよ該地周辺は古来より大小河川が集中する場所であり、氾濫を繰り返した両河川と聖川等により往時が低湿地帯であった事は現地に赴けば容易に想像が付く。

行き方はGoogleマップに「大塔の古要害跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、大塔城は応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」を書いた「大塔物語」に登場する文献上の要害であり、その正確な位置は不明である。更に言えばこれに比定される要害も別に2箇所が存在し、そもそも論で存在自体を疑問視する向きもある。よって該地は推測地にしか過ぎず、Googleマップが示すピンの位置はお城の説明板が立つ大当公民館となっている。

築城年代、築城者は不明です。てか説明する事が出来ねぃ…

…おいらの口コミには「大塔合戦」がよく登場するんだけど、よい機会なんで改めて簡略的に説明しようと思う。信濃の中世を語る上では避けては通れない戦い。前述の「大塔物語」は史料批判が進まない(たぶん比べ得る物が存在しない。)二次史料ではあるが、他に史料等無く貴重である。

…鎌倉時代に信濃守護職を独占したのは北条氏であり、建武二年(西暦1335年)七月の「中先代の乱」では御内人であった多くの信濃の国人が北条時行の挙兵に応じ国内は騒乱した。更に南北朝時代には南朝方と北朝方に二分し、続く「観応の擾乱」では尊氏方と直義方に二分、乱後も中央の威令が及ばない土壌が形成され、公然と守護権力に抗する等、幕府は事態の収拾に困難を極めている。

南北朝合一後の応永六年(西暦1399年)、信濃守護に小笠原長秀が補任される。応永七年(西暦1400年)三月十六日、小笠原信濃守宛、足利義持御教書には、「海蔵寺雑掌申、信濃國太田庄領家職事、訴状、具書如比、早退押領人、可被全雑掌所務之由、所被仰下也、仍執達如件、」とあり、長秀は太田庄の領家である海蔵寺から幕府へ訴えのあった同庄の押領を速やかに退けるよう求められている。守護権力を基に各種事態の正常化を図ろうと画策する幕府の期待も当然大きかった筈だ。

七月三日、京を出立した長秀は煌びやかに一族郎党二百余騎を従えて善光寺に入り信濃の国人領主等に対面するが極めて高圧的だったとされる。戦いに至った直接の要因は、川中島において国人領主等が押領する土地での租税の徴収を強引に推し進めた事にある。

長秀は横田河原に八百余騎を集めるが、大文字一揆衆を加えた反守護方勢は四千余騎に膨れ上がり数の上でこれを圧倒する。防ぎ切れないと判断した守護方勢は逃れるが、退き際を追い討ちされて坂西次郎長国以下の三百余騎は「大塔の古砦」に逃げ込み籠城する。籠城の備えの無い戦いは馬を殺して糧食に充てる等、凄惨を極めたらしく、二十日余りの戦いでその殆どが討死もしくは自害した。又、松田家館のリア攻めマップにある塩崎城に逃れた長秀も反守護方勢に攻囲されるが、同族の信濃守護代、大井光矩の仲介で和議に及び辛くも京に逃れた。後の応永八年(西暦1401年)には信濃守護職を解かれている。長秀は失敗した訳だ。

…長くなったけど「大塔合戦」の一連の流れを説明してみた。最後の方にちょろて登場する「大塔の古砦」がこの口コミの大塔城を示しており、同城が存在したていう不確実な根拠となっている。明確な城郭遺構が確認出来ない以上、該地が推測地であり続ける理由もこれにある。近年まで堀形と土塁様の地形が残っていたとされるが、信濃のお城の神が示す城域も聞き込みと現況から判断した推測地に過ぎない。但し、周辺を途方も無く彷徨ってみた結果、あながち根拠の無い推測でもないように思える。

「大塔の古砦」における凄惨な戦いは攻囲側の一部にも衝撃を与えたようで、大文字一揆衆を構成した香坂氏当主、香坂左馬亮入道宗継は厭世と無常の念を抱き、後に窪寺観音堂に三七日籠をもって出家した。今で言う、心的外傷、PTSDて感じでしょか。

※「大塔の古要害」とあるように既に当時も廃城である。

※長野県立博物館には大文字一揆衆が用いたとされる旗が収蔵されている。「大」の一文字のみをデザインした旗は単純にかっちょよいっす。

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore