健翁寺館
健翁寺館([割ヶ嶽城 周辺城郭])
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健翁寺館の口コミ情報
2024年05月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
健翁寺館は割ヶ嶽城の南南東約4.5km、斑尾川西岸(右岸)、標高722.6mの鼻見城山の南東裾野に当たる小扇状地、標高約545mの段丘台地斜面上平場に立地した居館です。該地は近世の北国脇往還の横道、川東道に面する交通の要衝、同道は、野尻から針ノ木を抜けて、舟岳、二十塚(レア物件、旗塚が残る。)、倉井を経て千曲川西岸(左岸)の浅野に至り、浅野からはやや北行して立ヶ花で千曲川を渡り、最終的には高井郡の中野に至る。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。曹洞宗の寺院、健翁寺が該地であり車も捨てられる。ちなみに山号は富峯山、元は真言宗の寺院だったんだそう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは芋川氏とされる。天保年間(西暦1831年〜1845年)に成立した「芋川氏累世譜録」によると、芋川氏の祖は藤原氏で、藤原鎌足十七世の孫、芋川弥次郎兼定であったとするが確証を得ない。別に芋河荘の地頭職であった大中臣氏を祖とする説も存在し、個人的には後者の可能性の方が遥かに高いように思う。又、芋川氏は芋河庄の上下地頭であったとも言っているがその時代は不明である。そもそも論で譜録の記述は信憑性に乏しい。
芋川氏の文書上の初見は遅く、永禄十二年(西暦1569年)二月廿四日、芋河右衛門尉(親正)宛、武田信玄書状であり、武田氏被官時代が最初である。書状には、「就于当國出陣、態音問祝著候、如露先書候、逐日任于存分候、就中松平蔵人向遠州懸川詰陣、織田弾正忠為合力、近日出陣之由候、彼等ニ当表之備相任、消雪候者、至于越府可及行候、猶其堺無事ニ候哉承度候、恐々謹言、」とあり、武田信玄は、芋川親正に遠江表の近況(松平勢による掛川城攻めの事を言っている。織田勢が合力するので、彼等に当表の備えを任せるとも言っている。)を報せると共に、雪解けを待って越府(春日山)へ出陣する旨を伝え、併せて信越国境の様子を尋ねている。信越国境を本貫地とする芋川氏は、武田氏にとって志久見口を押さえる野沢温泉(当時からの地名である。)に退去した市河氏と共に常に重要視されており、書状の始まりは丁寧、気の遣いようが窺える。
「健翁寺安置霊仏略縁起」によると、健翁寺は、鼻見城山の「じょうせんぼう」にあった「常懺法道場浄泉院」が、天文十九年(西暦1550年)、山津波によって流出、後に郷民が埋没した懸仏を掘り出し、天正元年(西暦1573年)、健翁院と改称して現在地に再建されたとある。開基となったのは芋川氏と推測されているが、縁起の記述を正しいものとするならば、同氏が同じ割ヶ嶽城のリア攻めマップにある芋川氏館に移り住む以前の居館であったと考えるのが適当だ。縁起には、ある時代には芋川氏の館であろうとする。
居館の現況は…名称のとおり現在はお寺さんの境内となっており旧態は想像出来ない。段の付いた境内の敷地は後世の改変だろうか、周辺地形と同様である。城館跡としての遺構は確認出来ず(参道は一部で土橋様となっており、堀跡の存在は疑える。)、探索は不毛な作業に終わる。但し、お寺さんとしての佇まいが凄く素敵、居館跡てよりは健翁寺を訪ねに来たと考えれば慰められるだろう。
健翁寺館は飯綱町において埋蔵文化財としての登録が無い。健翁寺を芋川氏の居館跡とする史料が同寺の縁起にしか求める事が出来ないからだろう。又、同縁起によれば古代の県主、小野連の館跡ともしている。
※該地一帯は中世の城下町である。現在の町(地名である。)集落には市神が鎮座し、遊女町の名残りである「茶の子町」の地名が残っていたんだそう。
※ 常懺法浄泉院には、善光寺が現在地に移る以前、皇極天皇二年(西暦643年)より天智天皇八年(西暦669年)までの二十七年間、善光寺如来像が安置されていたとの伝承がある。後身の健翁寺は中世における新善光寺の一つであり、現存する「虎御前の墓」と称する多宝塔は善光寺遺跡の一つでもある。
※善光寺を調べてたら「全国善光寺会」て団体がある事を知った。善光寺信仰恐るべし…