鐘山古城

鐘山古城([割ヶ嶽城  周辺城郭])

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鐘山古城の口コミ情報

2024年06月07日 内記かずりヾ(・ε・。)


鐘山古城は割ヶ嶽城の南南西約6.0km、鳥居川北岸(左岸)、標高約548mの河岸台地丘陵頂部に立地したと推測される砦です。南麓の国道18号からの比高は20m位でしょか。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…取り付きは北側台地上からがよいだろう。徒歩で登る比高は10mにも満たないし、車の捨て場所はそこら辺でOK♪レベルだ。

築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「養和年間(西暦1181年)木曽義仲旗を北国に翻すのとき、暫く爰に陣し、川入谷を経て、戸草村へ次すと云ふ。其跡今一塚を築く、高さ八尺(約2.4m)、周回三十間余(約54m)あり、近傍に馬場、駒繋石、遊山場等の名所存在せり、古老の口碑にて確呼たらす。」とある。信濃から北陸路を進んだ木曽勢は東山道支道に準ずる道筋を選んだと考えられるが、その経路上には様々な木曽義仲に纏わる伝承地が点在、これもその一つである。

多胡の駅から沼辺の駅に至る東山道支道の道筋ははっきりしていないが、鳥居川の南岸(右岸)を進んで川入谷に入り、見坂平を越えて戸草に至り、諏訪ノ原、針ノ木を経て野尻湖西岸の沼辺の駅へ向かうものがその一つとして推測されている。古老の言う事を正しいものとするならば、義仲が進んだ道筋は正にこの経路である。

該地は東山道支道の対岸に当たる事から、義仲が陣を敷いたとする伝承には少々疑問を覚える。但し、他に城館に関係する里俗伝も特に伝わらないようだ。

それ以外の里俗伝としては、太田庄地頭職、島津氏の庇護を受けた普光寺の旧地と伝わる。「鐘山」の地名は、この丘陵にかつて鐘撞堂が建っていた事に由来するらしい。信濃の中世のお寺さんは寺社放火魔、武田勢によって焼亡したものが特に多いけど、この普光寺も同勢に焼かれ、永禄二年(西暦1559年)、上段の前林に移ったとされる。

水田地帯に南北に長く伸びる丘陵は周囲から一際目立つ小山となっている。特に城郭遺構は認められないが、頂部は町村誌の記述にあるようにやや大きめの塚状地形を残す(富士塚と呼ばれ、飯綱町では経塚を疑っている。)。丘陵は南端で国道18号が掘り割って東西に走っており、それ自体が大きく削られている。往時は鳥居川の蛇行点に向かって張り出す要害地だった筈だ。従って縄張図に描かれる城域はその一部を示したものに過ぎないとも考えられる。

対岸の旧小玉村には近世の北国脇往還が通り、村内には武蔵国と加賀国の中間点を抱えていた。現在も残る「小玉道中堺碑(武州加州道中堺碑)」がそれを物語り、直近の黒柳家は加賀藩小玉小休所に定められていた。幕府によって制度化された参勤交代は結果として諸侯の財政の疲弊を招いたが、恩恵を受けたのは街道筋の宿場町である。水内郡における各宿場最大のカスタマーは大藩の加賀藩前田家であり、同藩が周辺地域に金を落としまくった事に間違いは無いだろう。

…現代に入ると大名に代わってめぐら〜が各観光地に金を落としまくる。滞在僅か数時間の隠岐島や佐渡島、種子島にワンぽちのためだけに旅客機やフェリーを使って渡り、味わう事なく急いでご当地グルメを掻き込み、ご当地の名産品が何なのかも知らない内にお土産を購入したりする。これを大名旅と言わずして何と呼ぼうか。今後は参勤交代だと思って旅をする事にする。

※小玉こどう会が発行する「小玉古道を行く」て小冊子が秀逸、文中にある「小玉道中堺碑」で拾える。ちなみにどなたか知らんけど、同所は割ヶ嶽城のリア攻めマップに碑・説明板としてスポット登録されている。

※ちなみに文章にするとまともな物件のように感じるかもしれないけど、何処にでもあるそこら辺の高い所に登ってみた…て感じのリア攻めだ。

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