飯山城(いいやまじょう)

飯山城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県飯山市飯山(飯山城跡公園)

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

泉氏

築城年

室町時代

主な改修者

上杉謙信、岩井信能

主な城主

泉氏、上杉氏、岩井氏、関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、松平氏、永井氏、青山氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)、門、移築門

指定文化財

県史跡(飯山城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

平沢城(長野県下高井郡)[6.8km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[12.2km]
中野陣屋(長野県中野市)[12.4km]
高梨氏城館(長野県中野市)[12.4km]
内堀館(長野県中野市)[12.5km]
猿橋城(新潟県妙高市)[13.0km]
鳥坂城(新潟県妙高市)[17.7km]
髻山城(長野県長野市)[18.7km]
仙当城(長野県下水内郡)[19.7km]
箕冠城(新潟県上越市)[19.8km]

飯山城の解説文



飯山城(いいやまじょう)は、信濃国水内郡(のち下水内郡[1])飯山(現・長野県飯山市飯山)にあった日本の城(平山城)。

概要 

東部は千曲川、西部は山地に囲まれた地にあり、城郭は丘陵をならした平山城である。

築城年は不明である。14世紀初頭は泉氏の居城であったが、後に高梨氏館を本拠とする高梨氏の支城となった。戦国時代に上杉氏が武田氏に対する前線基地として改修した。江戸時代には飯山藩の藩庁が置かれた。

歴史 

弘治3年(1557年)武田氏によって、高梨政頼は高梨氏館から飯山城へと追われた。

永禄7年(1564年)に、越後の上杉謙信が、信濃一円に勢力を伸ばしてきた甲斐国の武田信玄に対抗して、越後の防御・信濃計略の前線基地として本格的に築城した。既に頚城・新川・北信に多くの城を保持していた長尾・上杉氏にあっては、謙信が新たに築城した稀有な城の一つである(『上杉輝虎書状案』によると、1564年10月1日に謙信自ら普請の完了を確認したことがわかる)。

天正6年(1578年)に、上杉氏より武田勝頼に割譲され、その滅亡後は一時森長可の居城となった後上杉景勝の持城となり、城代に岩井信能が入れられた。後に、豊臣秀吉の家臣である石川光吉が代官として千曲川両岸を支配したが、慶長3年(1598年)に関一政が3万石で入封した。関氏はその翌年に美濃国土岐へと移封した。慶長8年(1603年)松平忠輝が信濃国川中島に18万石で入封したため、その家臣である皆川広照が傅役として4万石で入れられたが、忠輝の不行跡を徳川家康に訴えたところ逆に家老として不適との指摘をうけて除封された[2]

その後、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏と目まぐるしく城主が替わった。享保2年(1717年)、本多助芳が越後糸魚川藩より入封すると、以降本多氏10代が明治維新まで飯山城に居を構えた。

明治元年(1868年)、旧幕府軍衝鋒隊の攻撃を受け城下を焼かれた(飯山戦争)。城の建物は、廃藩後に破却や焼失によって失われている。

構造 

丘陵上に、本丸、二の丸、三の丸を南北に連ね、西側山麓に西郭、北に外郭があり、南方山麓から外郭まで、周囲には1重の堀が巡っていた。建造物は、本丸、二の丸、三の丸に、それぞれ、居館、政庁、櫓が設けられ、門は全部で12棟あった。天守はなく二重櫓を代用としていた。また、西郭には重臣の屋敷が軒を連ねていた。弘化4年(1847年)の善光寺地震で石垣の大半が倒壊したが、嘉永2年(1849年)に再建した[3]

遺構

本丸は葵神社境内となり、二の丸は城址公園として整備されている。本丸から二の丸にかけて、石垣および土塁が残る。本丸庭園では年明けに鶯が訪れ、春には桜が満開となる。

関連建造物・参考資料など

建造物としては、南中門跡に民家から2層の城門が再移築され現存している。また、不開門が飯山市の妙専寺に、裏門と伝わる門が長野市田子の民家に、どこの門かは定かではないが城門が中野市江部の民家に、それぞれ移築され現存している。この他に、2層部分を焼失しているが、長野市の信雙寺に大手門が移築され現存している。

  • 「上杉謙信公 飯山城築城450年」飯山城址パネル - 鳥観図・「飯山城絵図」[4]複写写真上に縄張り加筆説明・今後の「飯山城址整備」方針(中期整備イメージ)と資料提供の依頼などが掲載。

交通 

  • JR飯山線・北飯山駅から徒歩5分
  • 上信越自動車道・豊田飯山IC → 国道117号線
    • 城山公園駐車場(無料、20台)

飯山城の口コミ情報

2024年04月22日 シゲゾー
飯山城



北飯山から徒歩5分ほど、門は復元されてますが城址公園となっているので園内は石垣と石段が残っているほかは遊具だったり弓道場、頂上には神社があります。

2024年02月04日 加納下総守
飯山城



アクセス良く1時間くらいあれば周れます。小ぶりの城ながら土塁、石垣も良く残っています。

2023年12月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
小境城(城山)[飯山城  周辺城郭]



〜小境城(城山)攻城編〜

お城は飯山平の西方山塊に立地し、南方から見れば飯山城の後背地に当たる。水内郡飯山の地は甲越が争った時期には上杉方の最重要拠点であるが裏を返せば信濃における影響力の限界でもある。五度に及ぶ「川中島の戦い」の戦略的勝者が武田勢であった事は疑いが無い。

築城年代は不明、築城者、城主として尾崎重広の二男、西堀刑部少輔重次が伝わるが確証を得られない。

飯山には鎌倉幕府御家人、清和源氏満快流、泉氏の嫡流を称する尾崎氏があり、同地と周辺地域に尾崎八家(血縁関係はなく地縁的繋がりとも。)と称する分家を輩出し勢力を保ったが、室町時代後期には高梨氏(惣領制からの脱却を図った北信最有力の国人領主だ。)、次いで戦国時代には上杉氏に従っている。北信の国人領主や在地土豪は元来が越後守護家や越後守護代家との関係が深く、尾崎氏も永正年間(西暦1504年〜1521年)には度々その差配を受けている。信濃国は上杉房定の代には越後守護が兼務する半国守護の状態にあり、尾崎氏が越後国頚城郡鴨居村に飛地の所領を得ていた事からもそれは理解出来るだろう。

尾崎八家は飯山城の城番衆を務め、別に上杉氏からは外様衆とも呼ばれる。それ故に小境城には飯山城の支城として上杉氏の手による改修説が唱えられるが否定したい。永禄六年(西暦1563年)卯月(四月)廿日、上倉下総守、奈良澤民部少輔、上境彦六、泉彌七郎、尾崎三郎左衛門、中曾根筑前守、今清水源花丸宛、上杉輝虎書状案には、「為其口備、安田惣八郎人数ニ岩井備中守相添差越候、如聞入候者、何も在所有之故、今度も無四度計仕合出来、無是非候、所詮向後者皆々有在陣、堅固之仕置専一候、陳所事者、於其元請合候而、可然様見量簡要候、猶子細備中守可有口説候、謹言、」とあり、重ねて文末には、「追而、近日可取出候間、各有談合、如何共其内堅固之具尤簡要候、以上、」とある…

…飯山城の武田勢による一次的失陥を叱責するものだが、その原因を城番衆が「在所」にあった事にあるとし、今後は各衆の在番をもって飯山城を堅固にする事を第一に求め、仔細にあっては岩井備中守(信能)が口頭で説明すると言っている。更には各衆が相談し、飯山城を堅固に備える事が最も肝要であると重ねて言っている。上杉氏にとって在地土豪の一要害等を気にする必要が全く無い事は明白であり、地域の拠点城である飯山城の確保のみが飯山平一帯の安定に繋がる事を輝虎は承知している。位置関係のみで支城群の一つと単純に断ずるのは誤りである。飯山城を補完する支城としての役割を全く果たしていない。

お城の現況は廃城からそのまま時を経たもの。遺構はほぼ完存している。主郭からの西側斜面は比較的なだらかであり、もし改変があるとすれば長大な竪堀(途中に集合を含み総延長は200m強に及ぶ。)の内であるこの部分であろうか、後世の耕作の跡である可能性が残る。主郭部は2郭で構成される。縄張図における通称2郭には虎口様の窪みが2箇所に付くが藪、通称1郭(主郭)には土壇と土塁が付くが激藪、主郭北側山側背後は四重堀切、小郭を挟んで城域北端となる堀切が残るが藪、一部が激藪、堀切から落とされる竪堀も激藪、一部が藪となっている。此処に至れば降雪の時期を選んで訪ねる必要がきっと理解出来る筈…夏場は多くのものを諦めざるを得ない。苦労した挙句に損もするのだ。

通称3、4、5郭は山稜下段に設けられた郭群であり殆ど一城別郭、城域内に特に道筋は付いていないので急峻な斜面を直下山するしかない。郭群は「御屋敷」とも呼ばれるので、城主、もしくは城番の屋敷地であろうか、通称3郭は縄張中最大の削平地でもある。屋敷地とはいえ、郭群には堀切、虎口、土塁等が付き、櫓台様の高まり(通称5郭)も確認出来る。但し、通称4、5郭は檄藪だ。又、縄張は全体で在地土豪の要害を超える事は一切無い(主郭部に籠もれるのは数十人が限界だ。)。

未整備の山城のリア攻めには常に苦労が付き纏う。はっきり言って優しくないのだ。おいらだってそれを望まないけど、史跡だろうが何だろうが地権者等の問題もあるし、整備して欲しい等と軽々しくお願いしようとは決して思わない。所詮個人的道楽じゃないか、観光資源は別として極めて少数の人間のために自治体等の予算を使わせるなんて烏滸がましい事だと考える(おいらは地元の方とよくお話しするけど、地域に住まう人達にとっては山城なんてどうでもよい事だ。)。本当に困っている人は別にいるんじゃないのか。当人が苦労すればよいだけの事、その先に見る景色にこそ山城好きの本望がある。己れの根性、体力と技術を維持する事だけが解決する唯一の手段だ。

※リア攻めの困難さを書き綴っているが、少なくとも城域縁には労せずして辿り着く。

2023年12月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
小境城(城山)[飯山城  周辺城郭]



〜小境城(城山)登城編〜

最近のおいらの口コミは山城とは無関係なものばかり…城館の紹介てよりは個人的な訪城、訪問記録の趣きの方が強い。それでもやっぱり皆様に足を運んで頂きたい山城も当然ある訳で…但し、最初に断りを入れとくけど、このお城はどの季節においても訪ねる人を選ぶ山城でもある。甘い事は決して言わない。それなりの覚悟を持って臨む事が必要、コンパクトな縄張とはいえ、全縄張を確認するのに要した時間は4時間30分弱となった(写真を272枚撮りながらだが…)。理由にあっては後述する。

実は2回目の訪問、再訪した理由は縄張を廻り切れていない事と、カメラの基本的なミスにより写真が全滅してしまった事にある。再訪したい気持ちは去年から持ち続けていて、今冬、初めて北信入りして最初に訪ねたのがこのお城て訳だ。

小境城(城山)は飯山城の北方約6.5km、飯山市最強のビュースポット、標高879.4mの鷹落山山頂から南東へ伸びる尾根中段、標高約588m地点の平場を中心に立地する要害です。東麓の長野県道409号、曽根藤ノ木線からの比高は260m位でしょか。山名の由来は鷹が落ちながら飛び立つ程の急勾配である事から名付けられたんだそう。山頂部には飯山デジタルテレビ中継局、鷹落山展望台の他、信濃平テイクオフと呼ばれるハンググライダー、パラグライダーの離陸場がある。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。東南麓の曹洞宗の寺院、「弥勒寺」でも構わない。何れにせよこのお寺さんに車を捨てる事になる。境内の西側にはお山に入る林道が伸びているのでこれをひたすらに進む。

「権現清水」と呼ばれる水の手を過ぎて幾つかの耕作地跡の脇を抜けると、沢筋に並走する竪堀様地形に気付くだろう。が、これ、実はガチの竪堀、主郭背後の堀切から端を発する極めて長大なもの。この堀底を辿れば自然と主郭部に至るが途中からは結構な藪となる。無理だと思った箇所から縄張図にある通称2郭を目標に北側に見える尾根稜線上を目指す。尾根筋は急登で所々で四足歩行を余儀なくされるかもしれない。

城域の探索は縄張図をよく確認しよう。軽い気持ちでお城に登ると多くのものを見落とす。おいらも初回訪問時に通称3、4、5郭を見落とす大失態、又、登山系アプリを仕込む事も忘れずに…前述の竪堀は比較的傾斜の緩い斜面に設けられている上に長大、周囲の状況からも現在地の把握が困難となっている。

このお城は主郭部に入ってからが本当に苦労させられる。豪雪地帯故か遺構の残存率が極めて良好、縄張が今も生きているのだ。堀の深さ、切岸の角度、ほぼ往時のままなんじゃないかとさえ思える。主郭西側山側背後は四重堀切を含む計5条の堀切が穿たれているが、堀切から落とされる多重の集合竪堀と急峻な斜面によって脇に逃げる事すら簡単には許してくれない。更には一城別郭とも言える郭群も控えており、此処に辿り着くのにも難儀させられる。山城で遺構を見ると疲れが吹き飛ぶ人を何人も知っているが、きっとこのお城では当てはまらないだろう。

北信の山城は極めて賞味期限が短いものばかり。近年、根本的にお山に人が入る事が少なく激藪が多い(鑑賞に耐えない。)。熊笹藪、蔦藪に加えて低雑木の密集なんてのもある。特に低雑木は冬でも元気だし突破するのにも難しい代物だったりする(痛いのよ…跳ね返った枝が口の中に入った時は笑ったけど…)。物理的に進めなくなる事も度々だ。

平野部での積雪が殆ど見られなかったので今回はパウダースノー的なものを期待してたんだけど、流石にお山の中の事は予想外、林道で5〜15cm位、吹き溜まりで25cm位だった。又、日中は気温がまだ高く、樹木からの融雪が常に降り注ぐ状況には辟易した。気付けばおいらのニット帽から襟首はびちょ濡れに…落雪は何度も経験してきたが想定外の事態となった。日常環境下とは異なる場所での万全とは常に図れないものだ。

※冬場はリア攻めてよりはバックカントリーでスノーボードする勢いで臨んだ方が気持ちは楽だ。

※実は登城路入口となる弥勒寺に大切な忘れ物をしてしまい1週間の内に2度の訪問…積雪の少ない2回目のリア攻め写真はインスタにアップしてある。

※2回目のリア攻め時には明瞭な熊さんの足跡が散見された他、犬様の鳴き声に加え四足歩行の大きな足音を耳にした。たまらずおもちゃの火薬銃を弾倉が空になるまで撃ちまくる…該地周辺では初秋に獣害死亡事故が発生している。あらゆる情報はマイナスにはならないので必ず確認し今後も準備を怠らないようにしたい。ちなみに個体にもよるんだろうけど次の寒波まで寝ないと思う。

続く…

2023年05月22日 マグロ常陸介祐平
飯山城



駐車場に車を停めると目の前に武者走りが見られます(遺構ではないようです)。近世城郭らしい石垣の本丸虎口や移築復元門などを楽しむことが出来ました。

寺町にある忠恩寺には、松平家(桜井)、本多家の墓があります。

2022年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
田草城[飯山城  周辺城郭]



田草城は飯山城の南西約4.8km、南北に延びる山塊尾根上、標高約712mのピークの一つに主郭が存します。南東麓の林道からの比高は135m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、自分、お城の南東麓の田草集落(道は荒れまくってるけど車で行ける。駐車場所は悩む以前の問題で誰も来ない。)と称する廃集落から登ったんですが、取り付きがよく判らなかったので適当直登して城域北端の尾根筋に辿り着きました。どうやって此処まで登ったのかも不明だし、説明しよとしても目標が一切無いので知らんがな…それから同じ飯山城のリア攻めマップにある東方の小田草城もそうですが、該地は携帯の電波が殆ど入らないので登山系アプリの活動開始はお早目に…結局自分は使えませんでした。

築城年代、築城者は不明ですが、江戸時代に描かれた古地図には城主として望月伊豆の名を伝えています。この方の詳細は全く不明、ちなみにお城の詳細も皆無に等しいです。戦国時代にお城の存する静間の地は高梨氏の領分だったそうで、感じとしては在地土豪の要害に拡張と改修を加えた二次利用てところでしょか。それなりの縄張を持っています。

お城は尾根筋の各所に小郭を、要所を堀切と竪堀で遮断した安定感ある縄張、畝状竪堀なんかも確認出来ますが写真は壊滅…謎なのは信濃のお城の神が描いた縄張図から北側に外れた場所にある削平地と長大な空堀様地形で、自分は後世の改変なのかなと判断したけどそうとも言い切れないものがあるし、これを城域に含む捉え方をされる方もいらっしゃるので参考までに…

田草城、並びに東方の小田草城は蓮方面から斑尾高原の南方を通り野尻湖方面へ抜ける間道を押さえる立地で、野尻湖方面からは妙高高原を通り上越方面へ抜ける事が出来ます。結果として上杉氏の信濃政略は飯山周辺地域を残すのみとなりましたが、越後への関門に当たる同地は甲越双方の境目となりました。お城を語る際によく使われる上杉氏、武田氏による改修、拡張があったかどうかは資料が無いので不明ですが、そう考えさせるだけの縄張を持っています。

※周辺地域は当たり前だけど完全な熊さん生息地、目撃情報多数です。地元の方はわざわざ通報しないので実数は遥かにこれを上回ります。訪ねる際は装備品に注意を。

2022年05月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田草城[飯山城  周辺城郭]



小田草城は飯山城の南西約4.4km、田草川南岸(右岸)、東方へ延びる山塊尾根上、標高約587mのピークの一つに主郭が存します。北麓の林道からの比高は100m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは西麓からで林道から田草川を渡る小橋を見落とさないように…後は尾根筋を直登するだけですが、西麓には表札程度の案内板が立木に打ち付けられています。少し前までは道が付いていたのかもしれません。

築城年代、築城者は不明ですが、江戸時代に描かれた古地図には城主として望月肥後の名を伝えています。この方の詳細は全く不明、ちなみにお城の詳細も皆無に等しいです。戦国時代にお城の存する静間の地は高梨氏の領分だったそうで、感じとしては在地土豪の要害に拡張と改修を加えた二次利用てところでしょか。それなりの縄張を持っています。

信濃のお城マニアからも敬遠される登城困難な激藪城っす。が、冬場から初春まではそんなに藪は酷くない。蔦藪が群生する前ならOK♪かと。ちなみに自分は2回目の挑戦、城納めと意気込んだ降雪中の令和三年大晦日、登城中に胸まで沈み込む新雪を泳いで脱出、クレバーな美少年なのにどうかしてたわ…

お城は主郭部まで尾根筋に多数の小郭を段郭状に連ね要所を堀切と竪堀でぶった斬り、土橋なんかも確認出来ますね。主郭は土塁と腰郭付き、圧巻なのは主郭西側山側背後の巨大堀切でして、この手の山城としてはちょと信じられない程の大きさ、凄まじいです。ただこの堀切、中土塁を2条入れた三重堀切とする見方もあるんですが、ちょと無理があるんじゃないでしょか。少なくとも現況は堀切内の両切岸に帯郭状の段が付いているのみ、且つこの段には堀切を構成出来るだけの面積もありません。又、三重にする意味も不明っす。

つまらん説明よりもネットを「小田草城・信濃(同名城は美作にも存する。)」で検索すると昭和四十年代に撮影された貴重な丸裸の遠景画像を楽しめます。山城ファンならきっと訪ねてみたくなる素晴らしい写真、ただ年間を通じたお城の賞味期限は短いのです。

※北信のお城の藪は前に進めない頑張れないものが多いです。謂わゆる細かで元気な枝を持つ密集した低雑木ですので鞭で数百回叩かれても大丈夫な方は是非、経験上1番無理なのは椿藪っす。

2021年12月28日 RED副将軍
飯山城



上杉謙信が武田信玄に対抗するための前線基地⚔

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。在地土豪の泉氏によって築城。
1557年、武田氏の侵攻から逃れた高梨政頼が入城。
1564年、上杉謙信が武田信玄に対抗するため、前線基地として本格的に改修。
その後、武田氏の属領となり、武田氏滅亡後は織田氏が占領。本能寺の変後は上杉景勝の所領となった。
その後も、石川氏、関氏、松平氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏、本多氏と目まぐるしく城主が代わりながら明治を迎えました。

見所
石垣造りの本丸。
渡櫓があったともいわれる本丸北西隅の枡形門。
南中門。飯山市内の旧庄屋宅に払い下げた城門を移築復元。かつては城内に13の門が存在。

2021年12月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
鬼小島弥太郎の墓[飯山城  寺社・史跡]



鬼小島弥太郎の墓は飯山城の北西約0.7km、千曲川に注ぐ皿川北岸(左岸)、標高約320mの平野部平場に位置する英岩寺境内に設けられた墓地北端部に建つお墓です。

行き方は英岩寺がGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

上杉ファンの皆様、お待たせしました。そうこれが越後十七将の一人、伝説の勇士、鬼小島弥太郎こと小島貞興(勝忠とも一忠とも。通称は慶之助とも。)のお墓らしいです。伝説の類いを一切合切否定する向きのある浪漫のかけらも無い自分ですが、ここはあえて紹介するとしましょう!

鬼小島弥太郎伝説て言えば…

足利義輝が飼っていた大猿を懲らしめた!→武田信玄に使いした際に、信玄がけしかけた猛犬を打ち殺した!→川中島の戦いの際、山県昌景と一騎討ちの最中に武田義信が危機に陥り、昌景が「主君の御曹司の窮地を助けんが為、勝負を預けたい。」とお願いしたところこれを快諾した!→この事から山県昌景から「花も実もある勇士」と称賛された!→川中島の戦いから退く際に深手を負っていた為、主君の足手まといになる事を憚り潔く自害した!

…色々なエピソードを持つ弥太郎ですが、上杉家の軍役帳にその名が見られず、実在は相当に怪しい…ただ小島姓は上杉氏家中においてよく見られる姓であるらしく、アプリ登録城である新潟県長岡市に存する乙吉城主だったとの伝承があるらしいっすね。SLGだと政治5、武力95位でしょか、実に潔い脳筋キャラクターです。

おかしな伝説のみで語られるから実在も逆に疑われると思うんすけど、小島姓が上杉氏家中によく見られる姓ならば、小島姓を名乗る越後国古志郡辺りに所領を持つ土豪の子弟が上杉謙信に近待していたと想像すれば自然じゃないでしょか。裏付けされるものは出て来ないと思いますけど、火の無い所に煙は立たないのでそれに比定出来るような人物の存在はあったのでは?と考えられると思います。

お墓は文禄四年(西暦1595年)に建立されたものらしいですが、墓石て言うかただの大石が置かれているだけです。ちなみに弥太郎最後の地は英岩寺北西約0.9kmの小佐原らしいっすね。又、お墓は墓地の北端てよりは墓地の外れに建っているので探す時は注意して下さいまし。訪問時間1分位、これ書くのに1時間位…阿保なんでしょか。

2021年12月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
六郎別当屋敷[飯山城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

六郎別当屋敷は飯山城の北西約5.5km、標高約938.4mの黒岩山東麓、標高約424mの緩斜面上平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…ただ長野県道411号線・新潟県道412号線、飯山新井線沿いで、かつての信濃平スキー場のリフト乗降場の一つ、その東側に位置します。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは六郎別当です。長野県町村誌には「古宅跡」で記載があるらしく、寿永年間(西暦1182年〜1184年)に戦乱を避けてこの地に居を構えた隠士の屋敷なんだそうです。寿永年間の出来事と言えば、木曽義仲の入京から没落、敗死までの一連の流れがそっくりそのまま入ります。寿永の元号の宣旨自体複雑な事情を汲んでいてまぁ面倒な時代だったとは思うんですが、ドラマティックな激動の時代だったとも言えるんでしょう。

居館の主、六郎別当についても何一つ不明(隠士だしね。)でして、考えてみりゃその姓さえ不明じゃないすか…別当(何の別当かは知らんけど。)の地位に就いていた事は間違い無いんでしょうからある程度の人物だったとは思いますが、六郎に比定出来る人物も多いでしょうし結局のところ何が何だかよく判らねぃよて感じですかね。何れにせよ義仲による一連の争乱が遠因だとは想像出来ます。

付近にある2つの清水の位置から概ねの場所は特定されていますが、耕作放棄地である事以外に何かを見出す事は凄く難しい…付近は雪崩が頻発する場所ですが屋敷に到達する事は一度も無かったそうです。有徳者の持つ恩恵てやつなんでしょかね。ちなみに写真を見て何らかを想像出来たり見えたりするよて方は一度病院で検査を受ける事をお勧めします。病名はきっと「変態」、程度は重症、救えるのは御家族だけだと思います。

自分は写真を撮りましたが、自分が居館跡を確認したていう「記録」としてしか今でも見る事が出来ないのでまだまだ大丈夫なようです。いつの日か屋敷で寛ぐ隠士の姿が見えるようになるのでしょうか。ちなみにリア攻め時間は1分位ですが、これ書くのに1時間30分位掛かりました。阿保なんでしょか。

2021年12月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
黒岩城[飯山城  周辺城郭]



〜黒岩城攻城編〜

行き方は〜黒岩城登城編〜を参照して下さいまし。

信越トレイルを進めば(30分弱っす。)迷う事無く城域に辿り着きます。城域はおかしな形の東屋から始まりますので現地でもやっとしないでしょう。縄張図を見ると概ねで細尾根に4つの郭と5条の堀切を持つ砦規模のお城です。最北端の堀切は登山道(城域は登山道から外れる。)の一部として使われ、現況此処が主郭部への入口(虎口ではない。)となっています。以前は城域を貫通する道が付いていたと思うんですが、今は激藪(降雪のせいなのか殆どの低木が全て斜めに、しかも元気に生えている頑張れない藪…滅茶苦茶痛いよ…)で冬場でも大変厳しい…ただ確認しない事には何の為に此処まで来たのか…その苦労が報われないので頑張りました。

その結果、激藪ではありますが堀切周りは意外にも見れたりしますし、堀切に面するぽこりんとした土塁なんかも確認出来ます。ただ郭に関してはその輪郭さえ不鮮明で観賞の対象とするには誰にとっても難しいでしょう。謂わゆるただの激藪です…

黒岩城の東麓には同じ飯山城のリア攻めマップにある顔戸氏の居館、顔戸館が存します。信濃のお城の神はこの顔戸氏の要害城との見方を示していますが、実際に訪ねてみると詰城としては標高が高過ぎるように感じます。この場所に、砦規模の縄張に過剰とも言える堀切の数は違和感でしかありません。顔戸氏の要害であったとしても上杉氏方のこの地域における主要な物見台(眼下に遮ぎる物の無い景色が広がる。)、狼煙台として引き続き利用が続けられていたのではと自分は想像してみました。

藪漕ぎの際、枝や低木が跳ね返って来て顔を直撃する度に「ぶっ殺すぞっ!こんにゃろ〜」等と美少年らしからぬ下品な言葉を叫んでしまいましたが、それもこれも前日ホテルで優雅にパックしたお顔を守るため…下山したら肌がかさかさに逆戻りしてましたわ…徒歩でのトータルリア攻め時間は3時間56分、ただ復路は殆ど駆け足でした。

※黒岩山は全山が国指定の天然記念物っす。

2021年12月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
黒岩城[飯山城  周辺城郭]



〜黒岩城登城編〜

黒岩城は飯山城の北西約6.6km、標高938.4mの黒岩山の一支脈、標高911mの山塊山頂から南方へ延びる尾根上、標高約893mのピークの一つに主郭が存します。南東麓の長野県道409号線、曽根藤ノ木線からの比高は570m位でしょか。

行き方ですが、黒岩城自体の紹介例が少なくともネット上では探せませんでした。平野部との比高差570mは高位標高に位置する山城が多い信濃でも珍しい部類に入ります。お城の位置は信越トレイルと呼ばれる苗場山と斑尾山を結ぶ総延長約110kmに及ぶコースの一部(堀切の1条はコースになっている。)でして、お城を目指すてよりは信越トレイルのコースを進んで行くと考えた方が無難です。当たり前ですが全行程を走破する必要は無いので安心して下さい。

信濃のお城の神は「城跡まで一応車道はあるが歩く方が確実。」と著述してますが、そんな道はとっくの昔に無くなっている(それらしき道形は残っていました。)ので諦めましょう、今では徒歩で辿り着けるかも不安です。従ってまずはGoogleマップに位置登録されている北方の桂池テントサイトを目標に設定して下さい。長野県道411号線・新潟県道412号線、飯山新井線沿いに立地していて車で行けて駐車も余裕っす。このテントサイトの南側、桂池西岸に「ソブの池」てのを目指す登山道の入口(太郎清水)が付いてますのでこれを使って黒岩山を目指します。信越トレイルのコースは基本整備されていますので、此処からの登城は比較的楽(徒歩で登る比高は100m位っす。)だと思います。

注意点は熊さんの生息地である事…特にブナの原生林が点在する山塊山中は遭遇の危険性(登山道途中にある池は熊ノ巣池て呼ばれる…)も高いと思われます。季節を避けるかソロ活動は慎んだ方が無難です。

自分は季節を避けましたが大失敗しちゃいました。桂池テントサイトまで通じる県道が冬季閉鎖状態…従って距離にして往復約13.5km、比高差約450mを全て徒歩で進むはめに…閉鎖が解除されるのはGW頃なので注意です。

※お城は黒岩山の正式な山頂にはありませんし、コース自体も山頂を外れています。山頂は鞍部を挟んだ別尾根にありますのでお山を制覇したい方は注意です。

※黒岩城は長野県長野市にも存するので混同に注意です。

※積雪時は装備と覚悟を…

2021年12月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
中条城・累城(城山)[飯山城  周辺城郭]



AWESOME!!!

中条城・累城(城山)は飯山城の北西約4.6km、標高938.4mの黒岩山の一支脈から南東へ延びる山塊尾根上、標高約429mのピークの一つに主郭が存します。東麓の長野県道409号線、曽根藤ノ木線からの比高は100m位でしょか。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…お城の南東麓には一般住宅(入城の屋号で呼ばれる。)が建っていて、この民家の敷地内から取り付くのが一般的?登り始めれば直ぐに城域に入ります。ちなみにこのお宅の姓は築城者と同じ…上杉氏の会津移封に従わず帰農した一族もあったようですね。

2in1のお城っす。中条城の築城年代は文明年間(西暦1469年〜1487年)、築城者は尾崎信濃介政重の弟、今清水越中守重継と伝わります。累城の築城年代も文明年間、築城者は中曽根左衛門尉重道と伝わります。二人は兄弟なんだそうですね。

中条城と累城(かさねじょう)は別々に築かれたとされるお城ですが、事実上縄張を共有していて要害としては最終的に一つのお城として機能していたようです。今清水重継と中曽根重道は兄弟和せず相争いましたが、重道は後に同じ飯山城のリア攻めマップにある中小屋城に退去しました。

お城は大変素晴らしい。細かな事は省きますが、原始に立ち戻ってる山城が多い飯山では現況最も見れるお城の一つです。少しの藪漕ぎは必要ですし、高い切岸を登るのに難儀したりしますけど…お城は通称1郭から通称9郭までの郭で概ね構成されており、通称1郭北側山側背後の四重堀切にはきっと誰でも驚かされるでしょう。特に3条目の堀切は曲げを伴って山を下り、他の2条の堀切はそこへ落ち込んでいたりして極めて技巧的です。又、累城の城域はこの四重堀切の北側山側背後となりますが、こちらも三重堀切で北側山側背後をぶった斬っています。

永禄年間(西暦1558年〜1570年)頃には上杉氏方の要害として重要視されていたと思います。お城は改修と拡張を重ねたのでしょう、二つのお城は見事なまでに纏まりのよい一つのお城に相成りました。飯山城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

※一般住宅の家人(凄く親切です。)に「熊さんに会わないとよいね〜」と注意を受けました。集落の裏山とはいえそういう場所ではあります。

2021年12月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
中小屋城(中曽根城)[飯山城  周辺城郭]



中小屋城(中曽根城)は飯山城の北西約4.9km、標高938.4mの黒岩山の一支脈、標高約428mの山塊ピークの一つに主郭が存します。東麓の長野県道409号線、曽根藤ノ木線からの比高は115m位でしょか。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…ただお城までは林道が延びていますので楽に行けるとは思います。

築城年代は文明年間(西暦1469年〜1487年)とされ、築城者は中曽根氏、中曽根重道とされています。十五世紀、泉親衡の後裔を称した泉重治は尾崎八家と呼ばれる上倉氏、今清水氏、上境氏、大滝氏、中曽根氏、岩井氏(岩井信能で有名?かな。)、奈良沢氏を輩出(血縁関係の分家ではなく地縁の繋がりとも。)しましたがその内の一氏となります。同氏は蔵人道秋の代に上杉氏の被官となり、道秋は飯山城の番将の一人となりました。永禄六年(西暦1563年)の武田氏による飯山城の一時的失陥の際には上杉謙信に怒られまくった事でしょう。

お城は正に在地土豪の詰城の趣きです。東麓には同じ飯山城のリア攻めマップにある中曽根館と呼ばれる居館の存在が確認されているのでその関係性も理解出来ると思います。縄張は通称1郭から通称3郭までの三段の削平地で概ね構成されており主郭も三段の段付き、主郭は土塁付きで曲げを伴う大堀切で西側山側背後をぶった斬り、堀切を越えて更に西側へ進むと小郭を経て長めの細土橋で山側と連絡、ひょろ〜て感じです。又、東麓の平場は墓地となっていますが本来の大手筋とされ、墓地を抜けて段郭の合間を登り主郭部に至ります。この墓地の平場も城域の一部だった事でしょう。

お城は夏場になると見れたもんじゃないと思えるぐらいの藪です。冬場でも熊笹藪は消えないし、細い低木の細かな枝(痛いよ…)が写真撮影の邪魔を見事にやってのけてくれます。土橋なんか本当にひょろひょろしてて直接見ると感動出来るけど写真を撮ると周囲に擬態してしまって訳判らん…飯山市の山城全般に言える事でもありますが、縄張図とかは本当に凄いし確かに遺構もちゃんと残っているけどお山に人が入らず藪と言うよりは原始に立ち戻っている印象を強く受けます。冬場は積雪が多い地域だし、観賞に耐えうる山城の方が圧倒的に少ないのでとても悩ましく感じますわ…ただこの中小屋城はまだましな方だとは思います。

2021年12月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
中曽根館(坪ノ内館)[飯山城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

中曽根館(坪ノ内館)は飯山城の北西約4.9km、標高約365mの緩斜面上平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…そして居館の正確な位置も特定されていません。山へ入る林道(詰城とされる中小屋城に通じる。)北側の平場、もしくは林道南側の平場になるとは思うんですが…林道北側の平場をそれとした場合は長野県町村誌の「中曽根古館跡之図」と相違が見られるそうで、林道南側の平場をそれとした場合は町村誌の「東南西の三方低く、凸にして平なり。」と相違が見られます。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは中曽根氏です。十五世紀、泉親衡の後裔を称した泉重治は尾崎八家と呼ばれる上倉氏、今清水氏、上境氏、大滝氏、中曽根氏、岩井氏(岩井信能で有名?かな。)、奈良沢氏を輩出(血縁関係の分家ではなく地縁の繋がりとも。)しましたがその内の一氏となります。慶長三年(西暦1598年)、上杉氏の会津移封では中曽根重清が同地の新宿(不詳っす。)に居を移しました。ちなみに第71、72、73代内閣総理大臣の故中曽根康弘さんとは何の関係もありません。

居館の現況はほぼ耕作放棄地です。改変も多く含んでいると思われますが、林道北側の平場は信濃のお城の神が著述するように確かに適地です。林道南側の平場は細かな段々地形(写真5、6枚目の地形です。)となっているので居館を築くには建ぺい率が著しく低くなるような…ただ古図から導き出される場所は正に此処って感じ…

何れにせよ多くの方にとってはどうでもよい事でしょう。おいらも位置が特定されていない以上どうでもよいです。とっとと詰城の方へ向かいましょう。

2021年12月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
泉館[飯山城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

泉館は飯山城の北西約5.7km、標高938.4mの黒岩山東麓、標高約480mの緩斜面上平場に存したかもしれない居館です(居館は存在が確認されていない…つまりは比定地です。)。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…一応長野県道411号線・新潟県道412号線、飯山新井線沿いとなりますが、冬季には積雪が6〜7mに達するので管理保全不能、11月には閉鎖となります。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。てか本当に実在したのかも判らん…信濃のお城の神本(信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編〜88.六郎別当屋敷)に記述があるだけでして、六郎別当屋敷の近くにある「泉館」と言う地名が居館の存在を裏付けてるよて話みたいです。飯山で泉と言えば清和源氏満快流の泉氏が想起されますが、単なる水場を示す泉かもしれないので悪しからず…

地名から場所は特定されていますが、耕作放棄地である事以外に何かを見出す事は凄く難しい…「ひら〜っとしてるなぁ…」とは思うけど、周囲一面もひら〜っとしているので特に何の感情も湧いて来ないです。又、周辺はかつて信濃平スキー場と呼ばれたスキー場でして、スキー場としては割と初心者にも優しいコースだったとは思います。

雪崩が頻発する場所だったらしく、昭和45年(西暦1970年)と昭和60年(西暦1985年)には大規模な雪崩により死者が発生したらしいです。昔も今も雪崩の危険性は変わらないと思うので居館の存在も疑わしくは感じますが、地名の伝承はそれに勝るのでしょう、現地に赴いて色々確かめようと思いましたが、そもそも論で濃霧によって20m先は真っ白でした。

黒岩山に存する黒岩城からの帰りには晴天となったので再確認しよかなと下山してましたが、登山トランス状態(山登りが嫌いな人間が身に付けた思考逃避状態…自分の足元しか見てませんし携帯にも応答しません…)に入っていたので見事に通り過ぎてました。場所さえ特定出来ればGoogleマップの3Dでリア攻め?出来ますので気になる変態の方は是非お試しあれ、現地に赴かなくてもそれで十分満足出来ると思います。ハイパーマニア向け、訪ねる必要無し。

2021年12月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
顔戸館(館の内)[飯山城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

顔戸館(館の内)は飯山城の北方約5.5km、標高約341mの平野部緩斜面上平場に存した居館です。ちなみに「ごうどやかた」と読むんですが、現地入りするまでは「かおとやかた」と読んでました…

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

築かれた年代は永正年間(西暦1504年〜1520年)、お住まいになられていたのは顔戸氏です。十五世紀、泉親衡の後裔を称した泉重治は尾崎八家と呼ばれる上倉氏、今清水氏、上境氏、大滝氏、中曽根氏、岩井氏(岩井信能で有名?かな。)、奈良沢氏を輩出(血縁関係の分家ではなく地縁の繋がりとも。)しましたが、その内の奈良沢氏、奈良沢重直の二男、勘解由重胤が顔戸の地に入り地名を取って顔戸氏を称しました。同氏は永禄年間頃に上杉氏の被官となり、当時の飯山一帯の国人領主を総した外様十人衆の一つに数えられています。又、重胤の子、帯刀重敏は上杉景勝に仕えて後の会津移封に従い信濃の地を去りました。

居館は現況ぴったり3枚の水田となっています。北西辺を除いてコの字形に空堀が巡る所謂単郭方形の縄張だったようですが、信濃に存した居館跡としては個人的になんか好き…w切岸がちゃんと残っていて居館と周囲の隔たりが生きてるし、居館から眺める風景もどことなく雄大(まぁ水田地帯だしね。)で「おいらが領主様じゃっ!」感に浸れたりも出来ます。又、空堀跡は当然埋まっていますが、その堀形は今でも十分追えると思います。

3枚の水田は居館の縄張をそのまま活用している事になります。ある意味凄く判り易いので、普段は居館に一つも興味を持てない方も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年08月01日 織田上総介晃司
飯山城

飯山城の東側に駐車場があります。コンパクトな城跡公園に移築復元門と石垣があります。

飯山市は長野県スキー発祥の地といわれてます。

飯山市から北に行くと野沢温泉があるので、リア攻め後の汗をながしてはいかがでしょう。

2021年05月13日 桜井太政大臣静龍
飯山城



無料駐車場。から階段あがったら城門裏😅。城門潜り直して本丸跡まで。神社だけど、出雲系かな?土塁が高いのは昔からなんかなあ?生活音がよく聴こえます(笑)

2020年09月28日 kurobuta
飯山城



駐車場に🚗を停めてポチすればリア攻めとなりますが、せっかくですから登ってみましょう👍
弓道場の横の階段を登り、門をくぐり左手に。30メートルほどで本丸跡地です。
天気次第ですが良い景色が見られます。
本丸上の神社⛩前の階段を弓道場方面に降りると井戸があります。
そこから球場方面に降りて駐車場まで30分〜40分もあれば一周出来ます。
小振りですが遺構も残っており楽しめます。
平日の昼間は駐車場は地元営業マンの休憩所となってるようなので大人の対応でお願いします😊

2020年08月28日 副将軍こうちゃん播守
飯山城



飯山城の駐車場です。直感的では御座いますが、江戸時代の城跡だなぁ〜って思いました。ここから本丸までは緩やかな坂なので、一度登城されては、いかがでしょうか。

2019年05月02日 右兵衛督お砂糖くん
南大手門口[飯山城  駐車場]



南大手門口に駐車場があり、そこから登城できます

2019年04月29日 北海琉球守如水
飯山城



東側の坂下門から切通しに沿って登ると高さ5m程の本丸石垣の存在感に圧倒される。

2019年04月26日 源陸中守@ポンコ2…①
飯山城



ここだけ復元か補修されてる西曲輪へつながる切通。土の色が真新しく桜絨毯のハーモニーが面城うございました。

2019年04月26日 源陸中守@ポンコ2…①
本丸門枡形[飯山城  遺構・復元物]



見所の一つに本丸門枡形虎口があります。小規模ながら正攻法な造りでした。虎口すぐそばの本丸櫓台に上がると、その造りがよくわかります。

2019年04月25日 源陸中守@ポンコ2…①
飯山城



北飯山駅徒歩5分。4月25日現在、桜吹雪に絨毯がキレイでした。城内には古絵図付の案内板が各所にあり、わかりやすかったです。城内から周囲を見下ろすと、急峻な崖などわかり、防御の高さを感じられました。
フォトは
①本丸から二ノ丸を見下ろす。
②復元城門。
③本丸虎口。
④三年坂

帰りは飯山線が本数少なく北飯山駅で乗れず、飯山駅まで徒歩20分ほどでした。

2017年10月23日 権中納言みきを
飯山城

JR飯山駅から徒歩で20分弱です。
(距離的には北飯山駅のほうが近いのです)

城域には遺構の近くに案内板があり、遺構の説明はもちろん、現在地が書いてある地図も載ってあるので、わかりやすく回ることができます。
本丸には神社が建っていますが、本丸の枡形虎口にある石垣は見応えがありました。

飯山城の周辺スポット情報

 本丸門枡形(遺構・復元物)

 復元門(遺構・復元物)

 桜井戸(遺構・復元物)

 枡形石垣・本丸門説明書(碑・説明板)

 中曽根館(坪ノ内館)(周辺城郭)

 中小屋城(中曽根城)(周辺城郭)

 黒岩城(周辺城郭)

 泉館(周辺城郭)

 顔戸館(館の内)(周辺城郭)

 中条城・累城(城山)(周辺城郭)

 六郎別当屋敷(周辺城郭)

 小境城(城山)(周辺城郭)

 山口城(周辺城郭)

 大倉崎館(周辺城郭)

 小田草城(周辺城郭)

 田草城(周辺城郭)

 蓮城(城山)(周辺城郭)

 駒立館(駒立城)(周辺城郭)

 静間館(静間神社館)(周辺城郭)

 北畑館(周辺城郭)

 とんば城(上倉城・とんび城・城山)(周辺城郭)

 後谷城(奈良沢城・堂平城)(周辺城郭)

 坪根城(周辺城郭)

 富倉城(遠見城)(周辺城郭)

 大川日蔭城(日影城)(周辺城郭)

 大川沢端城(鳶ヶ沢の城)(周辺城郭)

 小佐原城(周辺城郭)

 山口城(御屋敷)(周辺城郭)

 山口城(小城)(周辺城郭)

 馬の峯城(周辺城郭)

 中条館(たての内)(周辺城郭)

 尾崎城(三桜城)(周辺城郭)

 小境の古城(周辺城郭)

 葵神社(飯山藩主本多家を祀る)(寺社・史跡)

 鬼小島弥太郎の墓(寺社・史跡)

 南大手門口(駐車場)

 駐車場(駐車場)

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