平沢城(ひらさわじょう)

平沢城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県下高井郡木島平村往郷

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

平沢氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

村史跡(平沢城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

飯山城(長野県飯山市)[6.8km]
高梨氏城館(長野県中野市)[13.7km]
中野陣屋(長野県中野市)[13.8km]
仙当城(長野県下水内郡)[15.0km]
内堀館(長野県中野市)[16.1km]
猿橋城(新潟県妙高市)[18.0km]
割ヶ嶽城(長野県上水内郡)[18.6km]
今井城(新潟県中魚沼郡)[21.4km]
京ヶ岳城(新潟県上越市)[21.4km]
鳥坂城(新潟県妙高市)[22.1km]

平沢城の解説文

平沢城(ひらさわじょう)は、長野県木島平村にあった城である。

平沢城跡は、雄大で堅固な遺構を有している。標高840m地点にある主廓は、約400㎡の平坦地で、西側部分に枡形の虎口がある。主廓を囲むように、二の廓・三の廓・腰曲輪があり、随所に土塁の痕跡が認められる。東西に延びる尾根を七条の堀切(竪堀)で遮断し、防御を固めている。

平沢城は、毛見氏が治めた毛見郷の北端に位置し、毛見郷と志久見郷(下水内郡栄村)とを結ぶ道を監視するのに適した場所である。

1400年代には、毛見氏一党の平沢氏の守城であったと思われる。1400年代末には中野地方の高梨氏が毛見郷へ進出したため、毛見氏や平沢氏はその支配下に入った。

甲斐の武田氏と越後の上杉氏が戦った川中島の合戦の頃には、高梨氏に代わって市川氏が平沢城を押さえるようになった。木島平一円を治めていた市川氏が、1598年に上杉氏に従って奥州会津(福島県)へ移ったことで、平沢城の役割は終えた。

参考文献 

・現地説明板。

情報提供:長野県木島平村教育委員会


平沢城の口コミ情報

2024年01月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
部谷沢城[平沢城  周辺城郭]



皆さん、私、部谷沢城を覚えていますか…え、覚えていない?…ほ、ほら、2年位前までは立派なアプリ登録城だったじゃない?覚えてないかしら…どうしたのかって?…そう、棄てられたの…さんざんぽちられた挙句、城郭変更勝手にされたら誰も見向きもしなくなったのよ…えっ、見向きもされなかったのは登録城時代からだろって…酷い、酷過ぎる…確かにアプリに残る写真は2枚だけ…しかも遠景のみ…みんな私の何が解るって言うのかしら…友人の美少年、かずりがこの口コミで本当の私を皆さんにきっと見せてくれる筈だわ…

…部谷沢城(へやざわじょう)は平沢城の南南西約3.1km、樽川北岸(右岸)、小樽川と大久保沢に南北を挟まれた標高約555mの山塊支尾根下段上平場に立地する要害です。西北麓の部谷沢集落最上段からの比高は110m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。前述の部谷沢集落の上段には車を捨てるスペースもある。尾根末端直下には送電線の鉄塔が建っているので手前を山側に入って適当直登する。注意する点は小樽川を渡った事を必ず確認する事、渡っていなければ登っているのは別尾根である。ちなみに結構な急登を強いられるので、城域外上段を南北に通る林道を車で進み、登山系アプリ等で該当尾根を確認した後、比較的緩やかな尾根筋を徒歩で下るのもよいかもしれん。城域までは藪だが踏み跡が辛うじて付いている。

築城年代、築城者は不明、史料、伝承等も無い。該地は毛見郷の南限に位置し、毛見郷の地頭職、毛見氏に関係するものと推測されている。室町時代後期に高梨氏が毛見郷に進出すると要害としての価値は無くなり廃城になったものと考える。

お城は急峻な尾根筋に二十段程の小郭を一直線に連ねた単純な縄張、信濃のお城の神には見えるらしいが、素人に確認出来るのは十段位であろうか。主郭の段すら何処になるのかあやふやだが、最も広い郭には誰が見るのか知らんけど説明板がぶら下がっている。城域の上限は標高約580m地点に残る、説明板が言うところの「大空堀」となる。誰がどう見たって普通の堀切だけど…又、別に腰郭が唯一箇所に付くが、此処に鎮座するとされる小社は頑張っても見付ける事が出来なかった。

信濃の要害らしい貧乏な縄張、でもねぇ…築城当初は大勢力に攻められる訳でもないし、これで十分だった筈だ。おいらは信濃の在地土豪や国人領主の築く要害の殆どは戦国時代に入ると既に陳腐化していたと考えている。この時代に入ると攻城主体は最大で国持ち大名程の勢力だ。例え要害堅固にこれ等を普請しようとも守れる訳も無く、事実、文献等から探し出そうとしても、こうした要害が攻城の対象となった事例が殆ど見出せない(素通りされる。後でどうにでもなるのだ。)。もはや一族の存亡を懸けて従うか逃げるかの選択しか残されていない。

部谷沢城の縄張は取るに足らないものだけど他と比べる必要も無い。往時の在地土豪の精一杯の普請だった訳だ。おいらはむしろ執拗に設けられた段郭に築城主体の意地と執念を感じ取れる。その意味では訪ねてよかったなと思わせてくれる城跡だ。但し、2回目の訪問は絶対に無い。

…どうだったかしら、お城でのかずりは私を褒めまくってくれていたので、きっと皆さんも思わず私に振り向いてくれるような素敵な口コミだったと確信しているわ。でもアプリ登録城に戻れるなんて決して思わない。だって平沢城にはどんなに背伸びしたって敵わないもの…かずりはそんな奥ゆかしい一面を持つ私の事を随分と気に入ってくれた筈…かずり、再びお城で会いましょう。

※写真が暗いけど天候は晴天、つまりはガスってる。城域を出たら太陽が顔を出した。

※写真⑤は城域内から見た小樽川の谷筋、該当尾根筋は急峻である。

2024年01月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
大塚城[平沢城  周辺城郭]



大塚城は平沢城の西方約3.4km、千曲川東岸(右岸)、同川氾濫原に続く河岸段丘台地上、標高364mの丘陵頂部に立地する要害です。東麓からの比高は25m位でしょか。千曲川に流入する樽川が創造した扇状地上でもあり、同川は大塚城の西方で北方へその向きを変える。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場も付いている。一つも悩む事無く城域直下に車で横付け出来る。

長野県下高井郡木島平村て知ってます?村の名前は知らなくてもロマンスの神様、「北信州木島平スキー場」が有名、Jr.アイドルのおいらも20年位前までは何回かボードでお世話になっている。ウィンタースポーツを楽しむ人達の間では雪質の良さで知られ海外からも多くが訪れる。

木島平村では、平成八年(西暦1996年)五月二十日、農地造成事業に先立つ発掘調査でびっくりするよな代物が出土した。全長74cmに及ぶ鉄製の装飾剣、弥生時代の土器と共に発見されたそれは「渦巻紋装飾付鉄剣」と命名される。卑弥呼とかの時代の剣としては全国で1振しか存在しない。

出土した場所は「根塚」と呼ばれる小丘陵、調査を進めていく内に「弥生の王墓」と後に呼ばれる首長の墓、平安時代の住居、中世の製鉄炉も検出されている。この発見を受けて開発事業は中止、「根塚遺跡」として保存が決定される。

該地の「大塚」は前述の「根塚」から東北東約0.4kmに位置する小丘陵、発掘調査は行われていないようだが中世の砦跡として認知されている。

築城年代、築城者は不明、史料、伝承等も無い。該地は中世、毛見郷に属しており、毛見氏が地頭職であった。郷域は南限を樽川、北限を馬曲川と推測され、西方を木島郷、北方は犬飼郷に接している。

「市河文書」中、寛喜元年(西暦1229年)十一月二十八日、刑部藤内(原田藤内左衛門尉か。)宛、左衛門少尉兼致(信濃守護代)書状には、「中野馬允与木嶋兵衛尉、依志久見山鷹子盗人事、…」と始まり、中野馬允(能成)の領する志久見山において木島郷地頭職、木島兵衛尉が鷹子を巣下ろししたとして守護所に訴えられた事の次第が述べられている。当初、木島兵衛尉は志久見山が木島の内であるとしながら、後には計見(毛見)の内であると抗弁している。この際に証人を求められたのが、毛見郷の地頭職、計見(毛見)五郎(実親)で、同名は志久見山に争論は無いとし、木島兵衛尉の弁明に守護所への返状を以て異議を差し挟んでいる。

観応二年(西暦1351年)六月二日、「市河文書」中、市河十郎左衛門尉(経助)宛、足利直義御教書には、「毛見彦次郎実綱申信濃國毛見郷本栖、平澤両村地頭職事 重申状具書如此、度々触遣之処、無音伝々、太無謂、所詮、今月中企参洛可明申之旨、屋代越中守権守相共、相触木島五郎二郎、戴起請詞、可被注申之状、依仰執達如件、」とあり、毛見郷の本栖、平澤、両村の地頭職を木島五郎二郎と毛見彦次郎実綱が争っている事が判る。文中で市河経助は信濃国権守、屋代越中守と相談し、音沙汰の無い木島五郎二郎の上洛を促すよう求められているが、事の次第は木島氏による毛見郷両村での騒乱が素因のようだ。

お城は田甫にぽこりんする完全独立丘陵を活用した砦規模の縄張、現在は公園?となっている(たぶん過去には神社だったと思う。)。主郭は結構な面積を持つ削平地、これを全周する形で腰郭が付く、丘陵東側斜面には明瞭な四段の段郭、最上段の郭は土塁状に高さを保ち、主郭との空間に腰郭と同一面の堀切状の鞍部を形成する。丘陵は歩行者用と車両用の登路が付いており誰でも簡単に訪ねる事が出来るが、段郭の片側半分位はこれによって削り取られているように思う。

たぶん4回目の訪問、今回もお城を見に来た訳じゃなくおにぎりを食べに訪れただけ。昼食場所にぴったりなんすよ、誰も来ないしベンチもあるんで一息入れるには丁度良い。但し、改変されているとはいえ城郭遺構は結構残っているので初見なら楽しめるお城、完全独立丘陵故に囲まれる事は容易なので本気で守る気があったのかは知らんけど。

※写真①は要るのか知らんけど近景っす。

※実はこの1週間後におでんを食べに再び訪れている。写真⑦、⑧はこの際に撮影した。豪雪地帯だが雪は平野部では殆ど溶けている。

※写真⑧は文中にある「根塚遺跡」の近景っす。別に大塚城周辺には、「小塚遺跡」、「平塚遺跡」、「朝日ゴウロ古墳」、「鬼の釜古墳」等が密集する。

2024年01月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
犬飼山城(内山城)[平沢城  周辺城郭]



〜犬飼山城(内山城)攻城編〜

該地の高井郡犬飼郷は、「守矢文書」中、元徳元年(西暦1329年)、三月、鎌倉幕府下知状案、諏方上宮五月會付流鏑馬之頭、花會頭与可為同前御射山頭俣結番之事、五番五月會分の条に、「右頭、犬司(飼)南条地頭等並手(平)林地頭等、」とあり、犬飼郷南条の地頭等が御射山の右頭を定められているのが文書上の初見、郷域は北方を小菅庄、南方は毛見郷に接し、現在の飯山市犬飼一帯を北条、木島平村中村一帯を中村、南条とする三条で構成されていたと推測される。

至徳四年(西暦1387年)六月十四日、市河甲斐守(頼房)宛、二宮氏種宛行状には、「信濃国高井郡犬甘北条、同中村、依有遺所、上裁落居之間、預申候之処也、仍 之状 如件」とあり、信濃守護代、二宮氏泰の子、二宮種氏が、高井郡犬飼北条、中村の地を市河頼房に一時的に預けている事が判る。当時、同地は幕府に忠勤を励む市河氏と反守護方勢力である高梨氏との境目の後背地に当たり、幕府は兵糧料地を置いてこれ等に備えていた。

南北朝時代、犬飼郷には犬飼氏があったとされるが史料等乏しく詳細は不明、その後は浅野氏の入部を経て室町時代には高梨氏の支配が及んでいる。犬飼山城の築城はこの時期のものだろうか。高井郡と水内郡の山地に多数の要害を普請したのは後の上杉氏でもなく武田氏でもなく(悲しい事に信濃の優れた山城の一部には常に両氏の手による改修説が付き纏う。)同氏とその一族であった筈だ。

後世、一般的に過小評価されている高梨氏だが、天文十三年(西暦1544年)四月廿日、信濃國高梨殿(政頼)宛、後奈良天皇綸旨案には、「勧修寺入道大納言為御使被差下候、禁中御修理事、存別忠申付候者、可為神妙之由、天気所候也、仍執達如件、」とあり、後奈良天皇は御使に大納言、勧修寺入道(尚顕)を差し下し、禁中修理の別忠を高梨政頼に申し付けている。これを受けた政頼は禁裏修理料、銭五千疋を献進、同年七月二日、その功として従四位上に叙せられている。最盛期の同氏は武家として単独で御綸旨を受ける立場にあり、それに見合うだけの経済基盤を当時既に有していた事が窺える。単なる北信の一国人領主ではなく、幕府のみならず朝廷からも認められる存在であった訳だ。地方史では半ば常識であるこれ等背景を無視し、武田氏による北信濃経略以降の事跡ばかりが強調され、特に謂わゆる「お城好き」の間でその実力が過小視されてしまう傾向にある。高井郡と水内郡における城館の歴史を語る上で多くの失敗を生み出し続けている根本だと考える。

お城の概ねの縄張は城山山頂部と山頂からの南西尾根上に多数の堀切を設けたもの。主郭は段付きでコの字形の土塁がそれを囲む。小郭が要所で確認出来るがほぼ単郭と言ってよい。城域は長大で総延長は約1.0.km、そのため主郭部を除けば遺構の連続性は希薄である。又、堀切の多くは埋まり気味、見所は主郭の土塁と主郭部の堀切3条に限定されると思う。

展望の良さは信濃の山城の中では突出しており、眺望すれば千曲川の対岸、斑尾高原を望む事も出来る。天候が良ければ、飯山平、木島平、志久見口の動向の全てが見通せる。正直、埋まり気味の堀切に血眼になるよりは景色を楽しんだ方が正解だ。

但し、前述の見所は結構な代物なので苦労は必ず報われるだろう。そこまで藪城とも思えないので初夏に登る事も思案の内だ。熊さんの事は知らんけど、普通にトレッキングコースとして紹介されるお山でもある。ちなみに登山系アプリのログを確認したら徒歩による総移動距離は約5.2km、写真撮りまくりだが総経過時間は4時間06分だった。登って帰って来るだけだったら3時間以内で十分に収まると思う。

…「お城好き」てお城の歴史については意外にも淡白だったりする。縄張をそのまま楽しむのが正解なんだろうけど、誤った情報を基にした認識、推測が常に上書きされる状況にあり、それが一般的な定説として固定化されてしまう。おいらは常に疑ってるのさ、長々と調べた事を文中で述べて問題を提起するのはそれが理由に他ならない。

2023年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
犬飼山城(内山城)[平沢城  周辺城郭]



〜犬飼山城(内山城)登城編〜

さて、今回の口コミは今年の晩冬にリア攻めを諦めてしまったお城、城域に入ったものの天候の変化によって小雨が降って来た事、予想外に時間が無くなってしまった事により中断した。信濃の山城は勢いだけでは登る事が出来ないものも多い。

犬飼山城(内山城)は平沢城の北北西約2.2km、標高863.6mの城山山頂部を中心に立地する要害です。登城路入口となる南西麓の曹洞宗の寺院、稲泉寺(発掘された約二千年前の種子から群生に成功した大賀蓮で有名っす。)からの比高は490m位でしょか。ちなみに北方に聳える標高1046mの小菅山は飯縄山、戸隠山を加えて奥信濃三山と称される修験道の霊山、標高約817m地点には小菅神社の奥社が鎮座する。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西南麓の「稲泉寺」を目標に設定して下さい。車も当然捨てられる。このお寺さんの東側が城山山頂からの南西尾根末端であり、「城山稲荷稲泉寺登山口」の標柱も立っている。城山はトレッキングコースが三方から整備されているが、山城好きは全縄張を確認するために最も辛いコースを選択する事になる筈…

が、今回おいらは、南麓山間鞍部に付く最も楽な「城山登山道巨石コース」を選択した。舗装された農道を車で進めば、距離も短縮出来る上に徒歩で登る比高を255m位に抑えられる(積雪で車両通行が不可能だったし結局は稲泉寺からこの農道を歩いている。それでも気持ち的にも体力的にも随分と楽だ。)し、コースの入口周辺には車を捨てられるスペースもある。下山は稲泉寺へ抜ける辛いコースを辿ってリア攻めを補完する。

要害としては相当な比高を持つこのお城(比高300mを越える山城は珍しいと思う。)、城域が尾根筋から外れる事は一切無いが極めて長大、約1.0kmに渡って山尾根に遺構が点在する。

山頂からの南西尾根の総延長は2.0kmを超える。兎に角、だるい。急登を強いられる部分は僅かだけど、いつまで経っても辿り着かない感じ…大体にして距離を置かないと西麓からは山頂部が見えない。

前述の「城山登山道巨石コース」を登れば城域の中段に辿り着き、「城山稲荷稲泉寺登山口」から登る道程の約半分をショートカット出来る。濃い遺構は主郭部に集中するので、全縄張の確認を諦めてこのコースを往復するのが正解なのかもしれない。但し、当日は高度を上げれば30cmを優に超える積雪量、歩みを進めれば15cm〜20cm程度が沈み込む。磯用長靴での登城は全身に抵抗と負担が掛かり、もはや単なる筋トレでしかない。

苦労対効果が悪い部類に入るのかもしれないけど、夏場に薄い城館ばかりを訪ねているおいらにとってはAクラスの山城だ。リア攻めてよりは低登山のついでに訪ねてみたと考えた方が気が楽かもしれない。事実、振り返って見る景色の方に心奪われる。こんなに展望の優れる山城に出会った事は今までで殆ど経験が無い。山麓の木島平はおろか、西方の飯山平、志久見口となる戸狩野沢温泉までを眼下に収める。この高所に要害を築いた理由も自然と知れるだろう。

おいらは東京でもハイパーセレブリティしか住む事が許されない超高級住宅街に住んでいる。よって雪国の事をよく知らないのだが、例え晴天であっても昼近くまでは重く暗いガスが垂れ込め視界不良となる事が度々なんだそう。今回も朝早くに出発したが、車道の標識すら見えない濃いガスが発生し、結局は車の中で2時間余りを待機する。登り始めると今までのガスが嘘だったかのように一瞬で消え去り青空が見え始める…天気予報で確認出来ない現地の天候がある事を思い知らされた。

…本年もつまんない口コミにお付き合いありがちょでした。皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。参考になるのかは知らんけど、おいらは文中で感想を述べる事はあってもお城に点数とかは絶対に付けないタイプ、見て来た事、感じた事をそのまま口コミしている。評価は個人に委ねられるもの。当人が実際に経験して来た事がその全て、その機会を奪う事は発信者としては不本意であり心苦しいと考える。全国に無数に点在する中世城館、1件でも多くを訪ねてその隙間を埋めていこう。おいらのベストが確定する事なんてある訳が無い。

※写真①、②は山間鞍部に付く農道で撮影したもの。②は観音様だったような気がする…

※写真③は「城山登山道巨石コース」の入口っす。判り難いけどひょろ〜とした標柱が立っている。先行する足跡はニホンジカのもの。

※写真④、⑤は登城中の展望っす。

※写真⑧は「城山稲荷稲泉寺登山口」の標柱っす。

2023年12月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
平沢城



さて、今回の口コミはアプリの登録城、平沢城っす。登録城でありながら写真投稿数は僅かに4枚、口コミは1件、大体にして投稿者は猛者じゃねーか。でもねぇ、凄いお城なんすよ〜残された現況は国宝級の山城だとも思ってる。土の山城の写真を見せられて何処のお城だとかを当てる事は至難だけど、此処は訪ねた事のある方なら一発で正解する事が出来るだろう。このお城でしか見る事が出来ないものがある。今回おいらは写真撮り直しに軽く雪化粧した「晴天の平沢城」を狙って再訪問、天気予報をしつこく確認、目論見は果たして成功するんだろうか…

平沢城は馬曲川南岸(左岸)、標高約844mの山塊支尾根中段上平場を中心に立地する要害です。西麓の上千石集落上段からの比高は330m位でしょか。山尾根は馬曲川に沿う形で伸びており、馬曲川沿いには犬飼郷、該地周辺の毛見郷と志久見郷とを山越えで結ぶ古道が通っていた。かつて木曽義仲がこの古道を利用した(「市原合戦」の際だろうか。)との伝承も残る。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。上千石集落の上段から主郭の直下まで車両通行可能な林道(千石林道)が伸びている。但し、林業で利用される道なので車を使うのかは自己判断で…又、道は突然終わるのでこの場所付近での車両転回は無理だと思う。林道の途中には駐車も出来るスペースがあるので此処に車を捨てて残りの道程を徒歩で進んだ方が無難かもしれない。路面状態が良ければ四駆じゃなくても大丈夫なぐらいの緩い勾配だ。

おいらは何れも冬場の積雪時の訪問なので林道はフルで歩いている。兎に角、だるい。距離にしたら3.0km位だろうか。傾斜は緩いんで楽ではあるんだけどねぇ…林道の途中で該当山尾根に近接する場所は唯一箇所、今回は此処から取り付く事を考えていたんだけど、急崖過ぎて全然無理っすわ…樹木を掴んで伝え登りしないと不可能っす。初回訪問時は下山の際に突破してるんすけど、かずり、どうやって下りたんだろう。

当日は9時から19時まで晴天の予報、7時から登り始めるが見事なまでの曇天、おまけに高度を上げると濃いガスが漂い始めた。気温は−3℃、不安の中、林道をひたすらに進む。終点にたどり着くと尾根稜線上まで崩れまくった道筋が付いているのでこれを急登する。竪堀の脇を沿うと主郭東側山側背後の堀切にぴったり到着、誰もが敬遠する北信の山城だけど、林道を車で進めば意外にも楽だったりする。但し、結構な藪城でもあるので初冬と初春の時期が訪城のベスト、遺構は繊細な箇所もあったりするので多くのものを楽しめなくなる(積雪が酷い時も当たり前だ。)。

築城年代、築城者は不明、地域の詳細も省くが、周辺の毛見郷、該地の平沢には毛見氏があって、一党と推測される平沢(平原)氏があった。要害としての発生はこの平沢氏によるものだろうか。但し、今に見る縄張は室町時代後期から戦国時代のものである事は明白で、室町時代後期に中野氏を滅ぼし、志久見郷に市河氏を封じ込める事に成功した高梨氏の手によるものと推測する。又、戦国時代、毛見郷には上杉氏の圧迫に耐えかねた市河氏が本貫地から退去して来る。それ故にこの時期における武田氏の改修とする説も唱えられるが否定したい。国人領主である市河氏の差配する高井郡安田郷以北の要害に武田氏が改修を施す謂れがない(そもそも家の臣じゃないのだ。分国法度を遵守し軍役等を負担する事で所領の担保と施政権の許認可を受けている。特に信濃の山城に当てはまる事だが大勢力による改修説は慎重に判断すべきだと思う。)。縄張に武田氏の特徴を見出す事は出来ず、むしろ高梨氏の縄張である事が顕著に感じ取れる。

滅多に来れるお城じゃないんで初志を貫徹する事に…寒空の中、3時間弱をひたすら耐え忍ぶ。予報が外れたら会社に2階建てバスか10tトラックで突っ込んでやろうか等と考え始める…状況は逆だしロマンスでもないが、THE SMITHSの名曲、「THERE IS A LIGHT THAT NEVER GOES OUT」を思い出す…

「パトラッシュ…僕は見たんだよ。一番見たかった平沢城の跳び箱みたいな主郭と三重堀切を…だから、だから僕は今凄~く幸せなんだよ。」

「パトラッシュ… 疲れたろ…僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ。パトラッシュ…」

果たしてかずりの苦労は実を結ぶんだろうか…

※写真①は西麓からの近景、写真②は林道終点に掲げられた控え目過ぎる案内板、写真④、⑤は城域内からの展望、雲海も見れたが竹田城程のありがたみが無い。主郭からの展望は飯山平を眼下に収める。写真⑥は主郭に立つ味のある説明板っす。

※城郭写真は30枚きっかり別に投稿する予定、登録城なんで…

2023年07月18日 _ClaD雅楽頭リアの季節
上境城[平沢城  周辺城郭]

以前は藪城でしたが整備され、驚くほど見やすくなりました。説明板も立てられています。林道で(36.9516, 138.4184)あたりまで来ると、まったく登らずに城内へ行けます。

2023年05月22日 マグロ常陸介祐平
大塚城[平沢城  周辺城郭]



小さな単独峰を利用したお城で、山頂部の本丸と一段下に狭い帯曲輪と、控え目な堀切が見られます。
本丸には、コンクリートの土台が見られることから、もともと神社跡かも知れません。

600m程の距離にある泉龍寺は、日向城主市川氏建立のお寺で、山門前の石垣の枡形は小規模ながら立派です。墓域には、山本勘助実在の証拠(市河文書)として有名になった市河藤若の墓があります。

2022年12月01日 日高守きこりん
平沢城



せっかく素晴らしい山城が登録されたのに、誰も行かないようなので投稿しておきます😅(2020年の今ごろ登城)

毛見氏配下の平沢氏の城であったとされますが、武田の北信進出後は市河氏がこの地を支配しており、もともと市河氏の本拠地だった栄村の志久見(かつて城めぐに登録されていた内池館)へ通じる道を押さえるこの城も市河氏の城となったようです。市河氏は信越国境の最重要国衆として山本勘助(菅助)を使わすなど、武田信玄も気を使った相手で、城にも武田っぽい要素が見られます。上杉エリアの飯山と千曲川を挟んで向き合うこの立地は、まさに武田方最前線の山城といえるでしょう。
横堀(あるいは土塁つきの犬走り状)と堀切・竪堀を組み合わせた密度の濃い縄張が素晴らしく、主格背後の三重堀切は石積の痕跡も見られ見事な普請。
紅葉が終わって葉っぱが落ちきると、尾根上で三重堀切が完全に見通せるようになります。雪が積もるまでの短い期間が登城最適期となります。

行き方…上千石の集落からグーグルマップには表示されない林道を進みます。google plus code (VC3J+24W 木島平村、長野県)が入口。林道終点から斜面を登って城域の尾根に登ります。消えかかった歩道があり、うまく辿れば三重堀切のいちばん主郭寄りに行き着きます。まあ、テキトーに直登しても行けます。
登城難易度は林道の状態次第です。私が初めて行った2016年は藪化していて途中で車は諦めましたが、2020年はミニバンでも行けそうな状態でした。林道終点(VC3V+R6J 木島平村、長野県)は転回場所もなく突然終わるので、手前の広い転回場(VC2Q+49C 木島平村、長野県)から歩いた方がいいです。SNSで工事で行けないとの情報ありましたが、今はどうか…

近くの馬曲温泉に説明板が設置されていて、そこから稜線に刻まれた三重堀切のシルエットが拝めます。火口そばと木島平村の美味しい米が頂けるので、ぜひお立ち寄りください。

雪が積もるまでがチャンスなので、行ってみてくださいね~

2019年04月29日 北海琉球守如水
部谷沢城[平沢城  周辺城郭]



中央の鉄塔から奥に登ると遺構があるそうですが、電気柵に阻まれ登城を断念(>_<)

平沢城の周辺スポット情報

 部谷沢城(周辺城郭)

 上境城(周辺城郭)

 大塚城(周辺城郭)

 烏帽子形城(周辺城郭)

 北条城(周辺城郭)

 五束城(周辺城郭)

 北条館(周辺城郭)

 今井館(館の山・館の内)(周辺城郭)

 山田丹後守館(周辺城郭)

 温井城(周辺城郭)

 温井の殿屋敷(周辺城郭)

 長者清水館(長者屋敷)(周辺城郭)

 柏尾館(柏尾南館)(周辺城郭)

 神戸城(向山砦)(周辺城郭)

 犬飼館(周辺城郭)

 落合城(城山)(周辺城郭)

 日向城(毛見城・計見城)(周辺城郭)

 市河氏館(周辺城郭)

 伝・毛見氏館(周辺城郭)

 木島氏館(館跡A)(周辺城郭)

 木島氏館(館跡B)(周辺城郭)

 平沢氏館(ドウクワン屋敷)(周辺城郭)

 壁和泉守城(周辺城郭)

 犬飼山城(内山城)(周辺城郭)

 木曽殿館一ノ物見(周辺城郭)

 小屋平(周辺城郭)

 西浦城(男山)(周辺城郭)

 平林館(周辺城郭)

 野沢御殿(周辺城郭)

 岩井城(吉の城山)(周辺城郭)

 月岡 岩井氏居館(周辺城郭)

 茶臼山城(鳴沢山城)(周辺城郭)

 木島氏山城(牧ノ入城)(周辺城郭)

 中小屋小丸山砦(周辺城郭)

 岩井 岩井氏館(周辺城郭)

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