今井館(館の山・館の内)
今井館(館の山・館の内)([平沢城 周辺城郭])
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今井館(館の山・館の内)の口コミ情報
2025年05月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
今井館(館の山・館の内)は平沢城の北北西約9.2km、千曲川西岸(左岸)、標高約357mの段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地の東側を南北に走る、長野県道・新潟県道95号、上越飯山線の路肩に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは今井(上境)氏です。同氏は鎌倉幕府執権、北条義時に叛いた泉親衡で有名な泉氏の後裔を自称する尾崎氏の同族と伝わり、飯山とその周辺地域に割拠する泉八家を構成する一氏でもあった。但し、八家に血縁関係は無く、地縁的繋がりにより形成された武士団であったとも別に推測されている。
上境氏は上杉氏時代には外様十人衆を構成する一氏となった。永禄六年(西暦1563年)卯月廿日には、上堺彦六が他六名と共に上杉輝虎から飯山口における失態(武田勢による急進を許した。)を叱責され、今後の仕置を堅固にするよう厳に申し付けられている(明確な史料は無いが、アプリの登録城、飯山城の城番衆であったと推測する。謙信、ブチ切れて当然…)。
「長野県町村誌」には「今井城址」として、「村(常郷村)の中央道路の西傍〜今学校位置の地〜にあり。東西卅二間(約58.2m)、南北廿八間(約50.9m)、方今は畑地となる。平地方正にして、塁壁空濠尚存す、北隅に鎮守の石祠〜廃城後の建置〜あり。永禄年間(西暦1558年〜1570年)今井集(隼)人経永〜上境主馬重永の子孫と云、又上境城は要害のみにて初めより此に居住すとも言傳ふ。〜之に築き居れり。天正年間(西暦1573年〜1592年)上杉氏に属し、外様十人衆に列り、慶長三年(西暦1596年)戊戌、陸奥國會津に移り、同十二年丁未毀ちて耕地となる。」とある。
同じ平沢城のリア攻めマップにある上境城の城主、上境四郎重永の孫、隼人経永は、永禄年間(西暦1558年〜1570年)に該地の下今井に移り、在名を取って今井氏を称したとも別に伝わる。前記、町村誌の記述には、「又上境城は要害のみにて初めより此に居住すとも言傳ふ。」と注釈が付けられているが、どちらが正しいのかは今となっては知る由もない。
居館の現況は耕作地となっている。一般住宅の敷地内、裏庭にも当たる訳だが、家人も「館の山」と呼ぶ、居館地の形状をトレースした微高地がそのまま残っており、殆ど埋まり気味とはいえ、西辺と北辺には幅員のある堀形さえ確認出来る。この微高地は後世に住宅建設のために若干が削られたようだが、東面、南面の切岸は比較的に高さを保っている。居館地南側の低所には「まつば(的場)」の小名、他に「西門」、「かめだ」の小名が残る。
謂わゆる民家の裏庭なので探索の許諾を得るために突撃お宅訪問…主人は怪訝そうな顔をしてたけど、「いいよ、何にも無いけど見てってくれ。そういえば、前にもそんな人が来た事あるなぁ…あんたみたいなエターナル美少年て感じじゃなかったけど…」とのお言葉を頂く。早く話が通じてよかったぜ。田植えの忙しい時期に心良く案内してくれてありがとう。
※飯山口における失態〜謙信は諸人が在所(知行地)にあった事を問題視している。おいらが信濃の優れた要害に常に付き纏う、大勢力(上杉氏、武田氏等)による改修説を、明確な史料が無ければ否定する向きにあるのはこうした事実を根拠としている。つまりは在所の事は後でどうにでもなるんだから、地域の拠点城(飯山城)だけはしっかりと確保しておきなさいよて事だ。もはや数百人しか立て籠る事が出来ない在地土豪等の要害は大勢力を前にして戦術的価値すら失いつつある。支城の役割さえ果たし得ない存在(攻め寄せる側からすれば人数が分散してくれた方が有難いだろう。)と化してしまった。
※上境城〜奥信濃におけるA5ランクの牛肉城だ。車で横付け出来る高コスパ城なんで興味があったら是非にでも。