山田丹後守館
山田丹後守館([平沢城 周辺城郭])
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山田丹後守館の口コミ情報
2025年05月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、城めぐ界は稀有な異名を持つ多くの写真家を輩出していると思う。草写真家(越中〜竹林、藪を含む。)、キノコ写真家(相模〜タケノコを含む。時々山菜)、標柱写真家(備前〜案内板、説明板、全景を含む。)なんかは特に高名だ。
自分のフォトギャラリーを見返してみると、そろそろ、おいらもそんな大物写真家達と肩を並べる日が近いんじゃないかなと思っている。名乗る異名は耕作地写真家(武蔵〜水田、畑地、果樹園等、農道、用水路、ビニールハウスを含む。)だ。
リア攻めしているとジモティーから、「何の写真を撮っているんですか?」とか質問される事が非常に多い。疑問に思って当然、被写体はそこら辺の耕作地だからだ。以前だったら、「此処は昔、中世の武士の屋敷があった場所でして…」てな感じでまともな対応をしていたんだけど、最近じゃ面倒なんで、「畑の写真を撮ってるんすよ、日本の田園風景を海外の沢山の人に知ってもらいたくて…」みたいな感じで誤魔化している。「ひょとしてプロの写真家なのかな(使用するカメラはぼこぼこに傷が付いたコンデジ君…)。そういえば隠し切れない育ちの良さと溢れ出る知性が只者ではない…」とか思ってくれたら儲けもんだしね。
山田丹後守館は平沢城の北北西約10.2km、千曲川西岸(左岸)、標高約439mの段丘台地上平場に立地した居館です。簡単に言えば、戸狩温泉スキー場のオリオンゲレンデの東麓に当たる。10年位前、学習院初等科に入学した頃に滑った事があるけど、まさかこんな形で再び訪ねる事になろうとは…
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。但し、農事の邪魔する様な駐車の仕方だけは勘弁してくれ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは山田丹後守です。
「長野県町村誌」には「古館跡」として、「村(豊田村)の中央より丑(北北東)の方に在り。東西二十五間(約45.5m)、南北廿八間(約50.9m)の平地、東南西三方低下し塁址を存す。應仁年間(西暦1467年〜1468年)山田丹後守某潜匿の地たり〜山田某は能登国の人、其後孫越後府内の城主長尾為景に属し、北越新山城へ移住して其後を知らずと云伝ふ〜其本主の勧請、石動社(諏訪社)、伊勢社及び祈願所妙林寺今に現存す。能登国鳳至郡にも亦同く蕨野村ありと云ふ、後考を俟つ。」とある。
居館の主が信濃の人じゃないんでやる気を一気に失ってしまったんだけど、能登の長氏の一族に山田氏があったそう(山田城てお城も存在するらしい。)だから、伝承を無下に否定する事もあながち出来ないだろう。
居館の現況は…完全無欠の田地となっている。町村誌に添付された絵図を見ると豆腐みたいな微高地だが、後世、水田とするために段が設けられており旧態を失っている。又、居館地の南側には、丹後守が尊崇した神明社(伊勢社、現在は山田神社である。)が鎮座しているが、居館地が社よりも上段に位置する事には疑問を抱いてしまう。ちなみに神社に屹立する二本の老杉は樹齢約750年と推定されているので、往時の居館の有り様を知っている筈だ。
隠れ住んだ場所とはいえ、居館地の東側には、飯山から北上、温井を通って山中に入り、関田峠を越えて越後国頚城郡の板倉へ抜ける山越えの古道が通っており、実際には全然、潜めていない感じ(関田峠道は上杉謙信によって開道された軍道が始まりとも伝わるが…)…大体にして受領名を名乗っているんだから隠れる気も無いんだろう。探索の結果としては、大体3枚の水田が居館地と推定するんだけど、途端に阿保らしくなってきたのでリア攻めを早々に切り上げてしまった。
※耕作地写真家〜往時の地形の起伏を失い、一面の平坦地となった物件を城館の様に見せかけて写真を撮る事はまず不可能である。
※能登国鳳至郡にも亦同く蕨野村〜該地の小字は蕨野である。
※ただの水田の写真を撮る事がどれだけ恥ずかしい事なのかを自分に置き換えて想像してみよう。