犬飼山城(内山城)
犬飼山城(内山城)([平沢城 周辺城郭])
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犬飼山城(内山城)の口コミ情報
2024年01月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
〜犬飼山城(内山城)攻城編〜
該地の高井郡犬飼郷は、「守矢文書」中、元徳元年(西暦1329年)、三月、鎌倉幕府下知状案、諏方上宮五月會付流鏑馬之頭、花會頭与可為同前御射山頭俣結番之事、五番五月會分の条に、「右頭、犬司(飼)南条地頭等並手(平)林地頭等、」とあり、犬飼郷南条の地頭等が御射山の右頭を定められているのが文書上の初見、郷域は北方を小菅庄、南方は毛見郷に接し、現在の飯山市犬飼一帯を北条、木島平村中村一帯を中村、南条とする三条で構成されていたと推測される。
至徳四年(西暦1387年)六月十四日、市河甲斐守(頼房)宛、二宮氏種宛行状には、「信濃国高井郡犬甘北条、同中村、依有遺所、上裁落居之間、預申候之処也、仍 之状 如件」とあり、信濃守護代、二宮氏泰の子、二宮種氏が、高井郡犬飼北条、中村の地を市河頼房に一時的に預けている事が判る。当時、同地は幕府に忠勤を励む市河氏と反守護方勢力である高梨氏との境目の後背地に当たり、幕府は兵糧料地を置いてこれ等に備えていた。
南北朝時代、犬飼郷には犬飼氏があったとされるが史料等乏しく詳細は不明、その後は浅野氏の入部を経て室町時代には高梨氏の支配が及んでいる。犬飼山城の築城はこの時期のものだろうか。高井郡と水内郡の山地に多数の要害を普請したのは後の上杉氏でもなく武田氏でもなく(悲しい事に信濃の優れた山城の一部には常に両氏の手による改修説が付き纏う。)同氏とその一族であった筈だ。
後世、一般的に過小評価されている高梨氏だが、天文十三年(西暦1544年)四月廿日、信濃國高梨殿(政頼)宛、後奈良天皇綸旨案には、「勧修寺入道大納言為御使被差下候、禁中御修理事、存別忠申付候者、可為神妙之由、天気所候也、仍執達如件、」とあり、後奈良天皇は御使に大納言、勧修寺入道(尚顕)を差し下し、禁中修理の別忠を高梨政頼に申し付けている。これを受けた政頼は禁裏修理料、銭五千疋を献進、同年七月二日、その功として従四位上に叙せられている。最盛期の同氏は武家として単独で御綸旨を受ける立場にあり、それに見合うだけの経済基盤を当時既に有していた事が窺える。単なる北信の一国人領主ではなく、幕府のみならず朝廷からも認められる存在であった訳だ。地方史では半ば常識であるこれ等背景を無視し、武田氏による北信濃経略以降の事跡ばかりが強調され、特に謂わゆる「お城好き」の間でその実力が過小視されてしまう傾向にある。高井郡と水内郡における城館の歴史を語る上で多くの失敗を生み出し続けている根本だと考える。
お城の概ねの縄張は城山山頂部と山頂からの南西尾根上に多数の堀切を設けたもの。主郭は段付きでコの字形の土塁がそれを囲む。小郭が要所で確認出来るがほぼ単郭と言ってよい。城域は長大で総延長は約1.0.km、そのため主郭部を除けば遺構の連続性は希薄である。又、堀切の多くは埋まり気味、見所は主郭の土塁と主郭部の堀切3条に限定されると思う。
展望の良さは信濃の山城の中では突出しており、眺望すれば千曲川の対岸、斑尾高原を望む事も出来る。天候が良ければ、飯山平、木島平、志久見口の動向の全てが見通せる。正直、埋まり気味の堀切に血眼になるよりは景色を楽しんだ方が正解だ。
但し、前述の見所は結構な代物なので苦労は必ず報われるだろう。そこまで藪城とも思えないので初夏に登る事も思案の内だ。熊さんの事は知らんけど、普通にトレッキングコースとして紹介されるお山でもある。ちなみに登山系アプリのログを確認したら徒歩による総移動距離は約5.2km、写真撮りまくりだが総経過時間は4時間06分だった。登って帰って来るだけだったら3時間以内で十分に収まると思う。
…「お城好き」てお城の歴史については意外にも淡白だったりする。縄張をそのまま楽しむのが正解なんだろうけど、誤った情報を基にした認識、推測が常に上書きされる状況にあり、それが一般的な定説として固定化されてしまう。おいらは常に疑ってるのさ、長々と調べた事を文中で述べて問題を提起するのはそれが理由に他ならない。
2023年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
〜犬飼山城(内山城)登城編〜
さて、今回の口コミは今年の晩冬にリア攻めを諦めてしまったお城、城域に入ったものの天候の変化によって小雨が降って来た事、予想外に時間が無くなってしまった事により中断した。信濃の山城は勢いだけでは登る事が出来ないものも多い。
犬飼山城(内山城)は平沢城の北北西約2.2km、標高863.6mの城山山頂部を中心に立地する要害です。登城路入口となる南西麓の曹洞宗の寺院、稲泉寺(発掘された約二千年前の種子から群生に成功した大賀蓮で有名っす。)からの比高は490m位でしょか。ちなみに北方に聳える標高1046mの小菅山は飯縄山、戸隠山を加えて奥信濃三山と称される修験道の霊山、標高約817m地点には小菅神社の奥社が鎮座する。
行き方はGoogleマップに位置登録されている西南麓の「稲泉寺」を目標に設定して下さい。車も当然捨てられる。このお寺さんの東側が城山山頂からの南西尾根末端であり、「城山稲荷稲泉寺登山口」の標柱も立っている。城山はトレッキングコースが三方から整備されているが、山城好きは全縄張を確認するために最も辛いコースを選択する事になる筈…
が、今回おいらは、南麓山間鞍部に付く最も楽な「城山登山道巨石コース」を選択した。舗装された農道を車で進めば、距離も短縮出来る上に徒歩で登る比高を255m位に抑えられる(積雪で車両通行が不可能だったし結局は稲泉寺からこの農道を歩いている。それでも気持ち的にも体力的にも随分と楽だ。)し、コースの入口周辺には車を捨てられるスペースもある。下山は稲泉寺へ抜ける辛いコースを辿ってリア攻めを補完する。
要害としては相当な比高を持つこのお城(比高300mを越える山城は珍しいと思う。)、城域が尾根筋から外れる事は一切無いが極めて長大、約1.0kmに渡って山尾根に遺構が点在する。
山頂からの南西尾根の総延長は2.0kmを超える。兎に角、だるい。急登を強いられる部分は僅かだけど、いつまで経っても辿り着かない感じ…大体にして距離を置かないと西麓からは山頂部が見えない。
前述の「城山登山道巨石コース」を登れば城域の中段に辿り着き、「城山稲荷稲泉寺登山口」から登る道程の約半分をショートカット出来る。濃い遺構は主郭部に集中するので、全縄張の確認を諦めてこのコースを往復するのが正解なのかもしれない。但し、当日は高度を上げれば30cmを優に超える積雪量、歩みを進めれば15cm〜20cm程度が沈み込む。磯用長靴での登城は全身に抵抗と負担が掛かり、もはや単なる筋トレでしかない。
苦労対効果が悪い部類に入るのかもしれないけど、夏場に薄い城館ばかりを訪ねているおいらにとってはAクラスの山城だ。リア攻めてよりは低登山のついでに訪ねてみたと考えた方が気が楽かもしれない。事実、振り返って見る景色の方に心奪われる。こんなに展望の優れる山城に出会った事は今までで殆ど経験が無い。山麓の木島平はおろか、西方の飯山平、志久見口となる戸狩野沢温泉までを眼下に収める。この高所に要害を築いた理由も自然と知れるだろう。
おいらは東京でもハイパーセレブリティしか住む事が許されない超高級住宅街に住んでいる。よって雪国の事をよく知らないのだが、例え晴天であっても昼近くまでは重く暗いガスが垂れ込め視界不良となる事が度々なんだそう。今回も朝早くに出発したが、車道の標識すら見えない濃いガスが発生し、結局は車の中で2時間余りを待機する。登り始めると今までのガスが嘘だったかのように一瞬で消え去り青空が見え始める…天気予報で確認出来ない現地の天候がある事を思い知らされた。
…本年もつまんない口コミにお付き合いありがちょでした。皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。参考になるのかは知らんけど、おいらは文中で感想を述べる事はあってもお城に点数とかは絶対に付けないタイプ、見て来た事、感じた事をそのまま口コミしている。評価は個人に委ねられるもの。当人が実際に経験して来た事がその全て、その機会を奪う事は発信者としては不本意であり心苦しいと考える。全国に無数に点在する中世城館、1件でも多くを訪ねてその隙間を埋めていこう。おいらのベストが確定する事なんてある訳が無い。
※写真①、②は山間鞍部に付く農道で撮影したもの。②は観音様だったような気がする…
※写真③は「城山登山道巨石コース」の入口っす。判り難いけどひょろ〜とした標柱が立っている。先行する足跡はニホンジカのもの。
※写真④、⑤は登城中の展望っす。
※写真⑧は「城山稲荷稲泉寺登山口」の標柱っす。