薬師岳(舟岳山)
薬師岳(舟岳山)([割ヶ嶽城 周辺城郭])
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薬師岳(舟岳山)の口コミ情報
2024年02月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
薬師岳(舟岳山)は割ヶ嶽城の南南西約1.2km、鳥居川東岸(左岸)、標高819mの薬師岳山頂部に立地したとの伝承が残る狼煙台か物見台の類いです。南麓の舟岳集落中心部からの比高は180m位でしょか。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…薬師岳は独立峰、一際目立つお山なので該地の特定は容易だ。取り付きは南東麓、町道脇に建つ薬師堂からとなる。
築城年代、築城者は不明、てかそもそも論で烽火台の伝承地である。「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載があるが、信濃のお城の神も城砦として認める訳にはいかなかったのだろう、「薬師岳」と山名で書かれるのみである。但し、無視も出来ない地勢にあるのは確かで、狼煙の中継点、物見の場として活用されたとしても何ら不思議では無い。
「長野県町村誌」には「舟岳山」として記述があるが、烽火台の伝承については一言も書かれない。「薬師岳」とも呼ばれるのは、かつて山頂部に薬師堂が勧進されたからである。現在、御堂は南東麓に移され、山頂部には堂宇が残るのみである。ちなみに割ヶ嶽城の南方への展望を妨げているのがこのお山だ。
色物物件すわ…正直、今回ばかりは乗り気になれなかった。アクセス良好な色物物件なら全然OK♪なんすけど、お山は結構急峻な山稜、登る比高も平均的な山城と変わらない(割ヶ嶽城よりも高所である。)。道筋は参道でもあり流石にしっかりとしているが、九十九折れの一辺が長く設定されているのには閉口した。気持ちが後ろ向きな分、物凄くだるかった。
山頂部は東西に長い平場、それなりの面積を持つ。周囲より掘り下げられ、コの字形の土塁に囲まれた削平地が2箇所、その一つには前述の薬師堂が建っている。堂宇は一部が損壊し野生動物侵入の痕跡が残っていた。眼を閉じて心眼を活用しても山頂部に城郭遺構は見出せない。又、薬師堂の西側には「井戸」の案内板が立っているが、積雪故に何処にあるのかは最後まで判らず終い、位置の特定が出来ない井戸の存在は探索する側にとっては恐怖でしかない。
薬師岳の北西約1.4km、針ノ木には「飯山道と川東道の分岐」が控える。「川東道」は、野尻から針ノ木を抜けて、舟岳、二十塚(レア物件、旗塚が残る。)、倉井を経て千曲川西岸(左岸)の浅野に至り、浅野からはやや北行して立ヶ花で千曲川を渡り、最終的には高井郡の中野に至る。「飯山道」は、野尻から柏原を通って針ノ木を抜け、柴津、永江を経て飯山に至る。両道は古くから存在し、律令制下で整備された東山道支道に準ずる道筋へ通じる間道であったと推測され、近世には北国街道(正式名称は北国脇往還である。)へ通じる裏道でもあった。
…天正十一年(西暦1583年)三月、上杉景勝制札には、「制礼 右、信州、越國往復之人民、経横道之事、堅令停止畢、所詮自牟礼香白坂を直ニ長沼ヘ可令往還之由、仰出、被成御朱印者也、仍如件、」とあり、景勝は人民に、越後から水内郡長沼への「横道」を堅く禁じ、水内郡牟礼の香白坂を通って直に長沼に至るよう定めている。制札に書かれる「横道」は前述の「川東道」に比定され、行人に牟礼の香白坂を通る事なく長沼に至る道筋が好まれたのは、番所等で改められるのを憚っての事だと推測されている。別に悪い事してる訳じゃないけど、検問を嫌って別の橋を渡ろうとする現代人と感覚は同じなんだろう。
※写真①は南麓、舟岳集落から撮影した薬師岳の近景、物件としてはアレだけど文中にあるとおり結構な山稜だったりする。