佐野堀之内館
佐野堀之内館([高梨氏城館 周辺城郭])
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佐野堀之内館の口コミ情報
2025年05月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
佐野堀之内館は高梨氏城館(中野小館)の東南東約3.1km、夜間瀬川南岸(左岸)、標高約593mの段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「旧興隆寺跡」を目標に設定して下さい。この寺院跡(耕作放棄地)が該地であり、車はそこら辺に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小島氏です。同氏は中野小館に拠った高梨氏の分流である。近世には庄屋だったらしく、松代藩にも貸付する等、富農として在地で存続、今も該地は小島氏本家の土地であり、周辺には分家を多数輩出している。
該地は高井郡須毛郷に含まれる。嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の大宮造営の際の負担を注した鎌倉幕府下知状案、「大宮御造営之目録」に、「玉垣五間 須毛、戸狩」とあるのが文書上の初見だ。
「諏訪御符禮之古書」、寛正四年(西暦1463年)癸未御射山の条には、「一 上𡑭須毛小嶋高梨伊豆守景頼御符之禮五貫六百御教書同前使曾次二郎頭役二十貫文」、文正二年(西暦1467年)丁亥五月會の条には、「一 加頭須毛小嶋左衛門尉景貞初當候両度御符禮五貫六百文使三郎御教書同前頭役二十貫文」とあり、須毛郷には、高梨氏の一族、小嶋伊豆守景頼、小嶋左衛門尉景貞があり、その知行地であった事が判る。
須毛郷には上郷と下之郷があり、本家の伊豆守景頼は上郷を知行、同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある菅の館に居し、文明年間(西暦1469年〜1487年)、舎弟の左衛門尉景貞に下之郷を分知、景貞は佐野に居館したと伝わる。つまりは佐野堀之内館とは、この景貞の居館地が始まりであり、該地には小島氏の分家が居していた訳だ。
永正十年(西暦1513年)七月には、本家の高盛が、近隣の夜交氏、中野牢人衆と謀り、宗家の高梨氏に叛いている。企ては高梨氏の被官、草間大炊助の機先を制した武略により失敗に終わり、館(菅の館)、内之町。諏訪社を焼き払われた上にその身は磔に処せられ晒された。このため事後の小島氏は分家が本流となっている。
年次不詳だが、高梨政頼時代と思われる、天文年間(西暦1532年〜1555年)、中野小館の大門普請を記した文書には、「大門次第之事 門之広サ一丈三尺(約3.9m) 一 柱一本 後小嶋殿之届…後略」とあり、小島氏は、宗家の求めに応じて、大門に使われる柱一本を負担し中野へ届けている。
小島氏は後に武田氏に出仕しているが、高梨氏の高井郡退去後には同氏の居館地であった中野小館に居していたらしい。武田氏の滅亡後、信長の横死後、高梨氏は中野に還住を果たすが、その際には居館を譲り渡し、以降、両氏の蟠りは殆ど消えたとも伝わる(小島氏はこの時に同族紋幕を用いる事を許されている。)。
居館の現況は…前述したとおり耕作放棄地となっている。隣りの果樹園で作業中の分家の方に話を聞いたら、「草刈りには来るけど農業はもうやってないんだわ。」て事らしい。改変著しく旧態は見ないが、前述のとおり該地は曹洞宗の寺院、萬松山興隆寺の旧地でもあり、「古寺屋敷」の地字が残っているんだそう。ちなみに居館地周囲の道形は堀跡を踏襲しているのかもしれない。
小島さんの本家には土蔵が3棟…分家の方に聞いたら、その全てに過去数百年分の古文書が保管されているらしい。今までも偉い先生方が閲覧を希望して訪ねて来た事があったらしいんだけど、その都度、お断りされてきたていう代物だ。なんとか世に出せないもんかな…不明な事だらけのこの地方の歴史に一筋の光明が差すと思うんだけど…おいらガチに権威ある関係機関の協力を仰いで説得に当たろうかなて考えてる。
※宗家の高梨氏に叛いている〜高梨氏の一族でありながら叛いた理由は不明だが、当時は高梨氏が惣領制からの脱却を推し進めていた時代である。
※「古寺屋敷」〜元禄十年(西暦1697年)の「佐野村検地帳」等によれば、地字は「北田堀之内古寺屋敷」であり、併せて興隆寺分とあるんだそう。
※写真⑦は「古寺屋敷」の地字が残る場所を撮影した物っす。
※写真⑧は居館地付近から撮影した湯田中温泉街、背景の山稜は小島氏と共に高梨氏に叛いた夜交氏の要害、夜交氏山城っす。登城は猛者でも厳しいけど、かずぽん、楽に登れるルートを開拓してある。
※分家のお爺ちゃんと昼飯時なのに1時間30分強を話し込んだ。「あんたの顔は覚えた。次に来る時は家で話そう。」て言ってもらえて嬉しかった。ありがとう。