夜交氏本郷館
夜交氏本郷館([高梨氏城館 周辺城郭])
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夜交氏本郷館の口コミ情報
2025年05月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
夜交氏本郷館は高梨氏城館(中野小館)の北東約2.6km、夜間瀬川東岸(右岸)、標高約493mの河岸段丘台地西縁部緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「小野沢産業」を目標に設定して下さい。この事業所が縄張図における通称2郭となっている。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは夜交氏です。同氏は中野小館に拠った中野氏の分流、鎮守府将軍、俵藤太、藤原秀郷の後裔を自称する。
戦国時代、該地は高井郡夜交郷の内であり、本郷(中心地)であった事は地名からも一目瞭然(ずばり本郷だ。)である。但し、明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて幕府に注進しているが、この中では、「一 同(高井)郡北笠原上條郷内夜交村之事」とあり、南北朝時代の末期には高井郡上條郷に属する一村に過ぎなかった。又、続く文章には、「彼所者、正平七年(西暦1362年)二月十三日、祖父経頼法名性阿、拝領畢、然而中野弥六契約、于今為給恩知行處、忽亡譜代芳恩、令向背号本主及異儀者也、有尋御沙汰、欲承安堵御成敗焉、」とあり、正平七年二月十三日に朝高の祖父、経頼が拝領した所だが、中野弥六が本主と号して今も知行しており、安堵の成敗を承りたいと言っている。「中野弥六」とは、世間瀬家に伝わる「藤原姓夜交氏系図略叙」に見られる頼秀の事であろう。
明鷹九年(西暦1500年)庚申十一月十五日、夜交六郎(景国)宛、高梨政盛安堵状には、「信州高井郡夜交甲斐守(高國)當知行之所、不残壱所、 一 下上条并新野之高とう在家 一 小たけ分西条、岩舟并上条ニ在之、 一 藤澤分并於于役等之儀者、可為前分、此他ニ能州ゆいしょの地在之、右、如親父之托、少もたがわす、軍役忠節等可被抽其劫(功)者也、仍領掌如件、」とあり、夜交氏は、中野氏の一族でありながら、景国の代には高梨氏から安堵状を受ける立場に転じている。宗家の中野氏さえ圧迫、高井郡において強勢を誇る高梨氏の被官化は決定的だ。
永正九年(西暦1512年)壬申十二月廿六日、夜交左近尉(景国)宛、高梨摂津守政盛安堵状では、新恩としての増分が一切無く、知行地についても前安堵状と全くの同内容である(高梨氏による宗家、中野氏の滅亡はこの安堵状の前後が推測されている。)。
永正十年(西暦1513年)七月には、景国が、近隣の小島氏、中野牢人衆と謀り、主家の高梨氏に叛いている。企ては高梨氏の被官、草間大炊助の機先を制した武略により失敗に終わり、景国は山中で生害したと伝わる。これ以降、永禄五年(西暦1562年)までの間、同氏は文書上から完全に姿を消す。
居館の現況は…耕作地、果樹園、空地、一般住宅地、事業所等となっており、探索が別の意味で困難な物件だ。改変著しく旧態を見ないが、南端部の幅員のある堀跡の一部が耕作地にそのまま変貌している。城域の東辺に沿う市道には市神が置かれ、その傍らには秋葉大権現と高札場の跡、近世の夜交村でも中心地であった事に間違いは無い。気になるのは、中野から本郷を通って上條郷へ通じる古道よりもやや低所に立地している事…地形に改変があるのかもしれないが参考までに…
夜交氏の居館跡は下高井郡山ノ内町夜間瀬の横倉集落内にも別に存在し、夜交氏、最初の居館地と伝わる。こちらの方も今回訪ねてみたので次回にでも紹介するかな。ちなみにこの時期の高原地域は探索していて実に気持ちが良い。緑豊かな風景に身も心も癒される。何が飛び出すかも分からない鬱蒼とした山城を訪ねるよりも遥かに有意義だと感じる。
※同(高井)郡北笠原上條郷内夜交村〜笠原は「延喜式」に載る信濃十六牧の一つ、笠原牧が置かれた地と推測されている。「吾妻鏡」、文治二年(西暦1186年)三月十二日庚寅の条、「乃貢未済庄々注文」の中に、「前略…笠原牧南条、同北条、…後略」とあり、北笠原とは笠原牧北条の旧地を意味するのかもしれない。