伝・尾台若狭屋敷
伝・尾台若狭屋敷([高梨氏城館 周辺城郭])
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伝・尾台若狭屋敷の口コミ情報
2025年05月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
伝 尾台若狭屋敷は高梨氏城館(中野小館)の北東約3.9km、裏笹川西岸(右岸)、標高約540mの丘陵台地緩斜面上平場に立地したと推測される屋敷です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来んわ…車はそこら辺に捨てられるけど訪ねる人はおらんやろ…
該地は高井郡宇木に含まれる。室町時代には高梨氏の差配が及ぶ村であり、「宇木ノ左京進」なる人物が住していた事が判っている。姓名が伝わらず在名と名乗りで呼ばれるのは、高梨氏の一族、高梨姓の者だったからかもしれない。又、天正十年(西暦1582年)六月十六日、夜交左近助(頼国)が上杉景勝から宛行われた知行地の内に「うき」の名が見えるが、その始まりは隣接する夜交郷を構成する一村であったと考えられている。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは尾台若狭です。但し、あくまでも伝承に過ぎない。
「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載がある物件なんだけど、信濃のお城の神は「長野県町村誌」の記述のみを頼りにして調査したようだ。が、この町村誌の記述に問題があり過ぎる。てか、何言ってんだか解らん。
「二ヶ所。一は本村(夜間瀬村)の丑(北北東)の方、字宇木小名谷地の北の端に在り。尾台若狭と云人の屋蹤(おくしょう、意味は屋敷の跡らしい。)なり、今は耕地となる。年暦伝記不詳。後年由縁の人、墓碑を作る。其文に曰く、正徳六(西暦1716年)申年五月日、佐久郡下平村荒井丞兵衛とあり。又宅址より東の方へ一里許山中に若狭が堀たる溝あり。長凡十町(約1090m)若狭堰と号し、裏笹川に入り田用水とす。水源に小石龕あり。因に云ふ、上野伝左衛門と云者あり、字横倉の内小名上野に独住し、田成りを補理するにより、本田旱魃し苦情多きによりて。若狭が穿ちたる溝の少しく東脇に溝を堀たり。今此溝も伝左衛門堰と唱ひ、裏笹川に入る。」
これを基にして該地を特定しようとする神も凄いんだけど、結局は聞き込みから得た、裏笹川と若狭堰に挟まれた、「三間松(三軒松)」の辺りを推測地としている。但し、町村誌の記述との相違があるとも言っている。
やる気はねぇんすわ…尾台若狭は堰を開削した武士なんだろうけど、近世の人物て事になるしねぇ…江戸時代に佐久郡下平村から高井郡宇木村に来住した意味も不明だ(当時は天領であり、代官支配を受けていた。)。強いて調べれば、尾台若狭とは、佐久郡大井庄内小田井に拠った小田井氏の後裔なんだろうか。
屋敷の現況は…耕作放棄地、果樹園等となっている。周囲よりも僅かに高い微高地だけど、この微高地が屋敷地の形状を踏襲しているのかは知らん。該地には塚様の土盛り(土塁の残滓とか考えてはいけない。)が一つ…武士の住まう場所としては適地とはいえ、周辺は何処もかしこもがそうだと言える。林檎の花でも咲いていなかったらわざわざ訪ねなかったわ…
完全無欠の色物物件、屋敷地であった可能性すら簡単に否定出来る。正に神が信者に突き付ける踏み絵物件だ。「此処に来ないとあなた明日必ず死にます。」とでも煽られない限り訪ねる必要は全くありまてん。
※「宇木ノ左京進」〜地字から屋敷地がほぼ特定されているが…「宇木区誌」に掲載された部分的な地番地図から正確な位置を叩き出すのは極めて困難、今夏の宿題としよう。
※「三間松(三軒松)」の辺りを推測地としている〜この松を目標にして該地を探してみたんだけど、神の記述を真面目に読んだら既に調査時には枯れて跡形も無かったらしい。
※当時は天領〜増減を繰り返しているが、江戸時代の高井郡は幕府の公領であった時期が殆どである。アプリの登録城、中野陣屋もその代官所の一つ。ちなみに該地の宇木村は同じ高梨氏城館のリア攻めマップにある新野陣屋が管轄していた(距離的には遠くなる。)。