毛野館

毛野館([内堀館  周辺城郭])

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毛野館の口コミ情報

2024年06月21日 内記かずりヾ(・ε・。)


毛野館は内堀館の北西約3.8km、斑尾川西岸(右岸)、標高約494mの丘陵地上平場に立地した居館です。現在の上水内郡飯綱町赤塩毛野に位置するが、「毛野」の大字は作物の豊かな土地、「食(け)野」を意味するんだろうか。該地の南西約0.3kmには同じ内堀館のリア攻めマップにある毛野城が位置する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地は現在、諏訪社が鎮座する高台である。但し、この場所を一応の目標としたが、毛野館は前述の毛野城と共に城館跡として色々と問題を抱えている。理由にあっては後述する。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。「長野県町村誌」は諏訪社について、「村社 社地東西十五間(約27m)南北二十三間(約41.4m)面積反別一反九畝五歩(約1901㎡)、村の中央にあり。祭神健御名方命、創建年月不詳、…」とある。又、同社の説明板によれば、「天喜四年(西暦1056年)藤原氏の末裔清水某が奥州阿部頼時の戦乱にあたり、鬼門除として、この地に社殿を建立したと伝承されている。」とあり、更には、「…広大な屋敷跡で当時は隣りの寺院も屋敷の一環と思われる、西側に土塁が築かれてあり、現在も六百余坪の水平地は相当な豪族の屋敷跡と思われる。」とある…

…町村誌の記述はともかくとして説明板の記述が難解だ。諏訪社が鬼門除けとして建立されたとあるが、何処の鬼門に当たるのかが書かれていない。ごく狭い範囲から地域を跨ぐような広域までが推測出来てしまう。同社の位置を中世武士の屋敷跡であろうとするのは「三水村誌」も同様だが、説明板、村誌の双方何れもその根拠を示していない。そもそも論で諏訪社の建立年が平安時代中期にまで遡るのだから、武士の屋敷地との共存が成立しない。鬼門除けとして建立された同社に社地の移動があるとも考え難く、この場所に毛野館を求めるのは少々無理がありそうだ。

諏訪社を単純に毛野館の鬼門除けだったと考えれば、居館地の位置をある程度の範囲で推測出来る。つまりは同社から南西の一帯となり、毛野城を西限、南限とする高台がその敷地範囲ではなかったろうか。信濃のお城の神に準じて毛野城と毛野館を別に捉え、リア攻めマップのスポット登録でもそれに倣ったが、本来は同一物件として扱われるべき存在ではないだろうか。

…てな訳なんで、諏訪社をリア攻めしてもしょうもない感じなんだけど、信濃のお城の神は疑問を呈しながらも同社を中心に話を進めているのでこれに従う事にした。高台の中の微高地に鎮座する神社である…としか言いようがないけど、居館地としても確かに適地であり、神社の遺構とはいえしっかりとした土塁が確認出来る。

後世、寺社と化した城館は、本来ならリア攻めの際にあれこれ悩まなくて済む物件、今回は色んな事を頭に入れる前に探索してしまい、後々になって一筋縄ではいかない物件である事に気付かされた。件数控えてると疎かになりがちだけど、やっぱし事前情報て大切だなぁ…ちなみに毛野城についても問題があるて文中で述べたけど、そちらについては毛野城の口コミを参照して下さいまし。

※写真①、②は要るのか知らんけど近景っす。但し、文中で述べたようにむしろ写真向かって左側の一帯が本来の毛野館、居館地である可能性が高い。

※写真中、目立つ赤い屋根の建物が諏訪社の東側に建つ浄土真宗本願寺派の寺院、勝教寺っす。諏方社の説明板によれば、「…隣りの寺院も屋敷の一環と思われる、」とあるのだが…ちなみに飯綱町は浄土真宗のお寺さんが滅茶苦茶多い。

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