毛野城(城の腰)
毛野城(城の腰)([内堀館 周辺城郭])
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毛野城(城の腰)の口コミ情報
2024年06月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
毛野城(城の腰)は内堀館の北西約3.9km、斑尾川西岸(右岸)、標高約494mの丘陵地上に立地する要害です。南麓の舗装道路からの比高は10m位でしょか。該地の北東約0.3kmには同じ内堀館のリア攻めマップにある毛野館が位置する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、この場所を一応の目標としたが、毛野城は前述の毛野館と共に城砦跡として色々と問題を抱えている。理由にあっては後述する。
築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「東西三十間(約54m)、南北二十間(約36m)、平地より一層高くして南方に土階あり、慶安中(西暦1648年〜1651年)領主松平遠江守(飯山藩松平家初代、忠倶)、検地の際耕地となる。里俗伝に古毛野某居城の墟と云ふ。事跡不詳。」とある。城主とされる毛野某については全く不明だ。
毛野城の名称は信濃のお城の神が仮称したもの。本来の該地は「城の腰」と呼ばれる場所であり、信濃ではよく小字として残っている地名だ。示唆するものは中世城館の左右の地であり、城館の主郭部を示すものではない。
即ち、該地は主郭部を中心とする城域の端部を表しており、町村誌が言う「城の腰」、信濃のお城の神が言う毛野城とは、本来の城域の一部分にしか過ぎない可能性が極めて高い。
該地の北東には同じ内堀館のリア攻めマップにある毛野館が位置すると前置きしたが、毛野館の位置は平安時代中期から諏訪社が鎮座する高台であり、これを中世武士の居館地とするのは不審である。同社の説明板によれば、社殿は鬼門除けとして建立されたとある事から、単純に考えれば居館地は同社の南西に位置すると考えるのが自然である。即ち、同社と「城の腰」の中間点が想像出来る場所となり、毛野城と毛野館が本来は同一物件であるとの推測に至る。一般的に毛野館とは別に捉えられる毛野城だが、これに従えば毛野館の外郭を構成する一部分に過ぎないと考えられる。
毛野城を単独で見れば、丘陵地上の高まりであり、その西側には幅員のある堀形が確認出来る。堀形は高まりを主郭部として捉えるのが不自然な程に大きなもので、やはり城域は北東方を中心にして広がりを持っていたと考えるのが自然だと思う。これに従えば、高まりは土塁の残欠、もしくは櫓台の類いであろうか。何れにせよ改変著しく城域を判定するのは困難ではあるが、同城の現況が個人的には毛野城と毛野館が同一物件であると推測するに十分な判断材料となった。
城歴が伝えられておらず、城主は深掘り出来無い毛野某さん、口コミも楽に終わらせよかなと思ってたけど、色々と考察してたら結果を無視する事が出来なくなった。興味を持つ人がいるのか知らんけど、併せて毛野館の口コミも見て頂けたらより理解が進むかもしれん。
※写真⑥は該地を含む上水内郡飯綱町赤塩を撮影したもの。中世には赤塩郷と呼ばれた郷村であり、戦国時代には薩摩島津氏の後裔が知行地の一所とした時期もある(島津淡路守忠直、後には上杉氏の会津移封に従っている。考えてみれば転封て過酷な処断だと思う。今となっては帰農する武士の気持ちがよく理解出来る。)。素敵な風景だなぁ…都会の喧騒と人混みには戻りたくないや(最近は人混みを避けるために遠回りさえ辞さないようになってきたw)。ちなみに背景の山稜は北信五岳の一山、標高2053mの黒姫山、信濃富士とも呼ばれている。頼まれても登らんけど。