手子塚城(城の森・諏訪森)
手子塚城(城の森・諏訪森)([内堀館 周辺城郭])
内堀館 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「手子塚城(城の森・諏訪森)」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
手子塚城(城の森・諏訪森)の口コミ情報
2024年11月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
手子塚城(城の森・諏訪森)は内堀館の南南西約2.9km、千曲川西岸(左岸)、標高約358mの河岸段丘台地上、丘陵頂部上平場を中心に立地する要害です。東麓の千曲川からの比高は35m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域内に車も捨てられる。
築城年代、築城者は不明だが、永正十年(西暦1513年)、高梨氏との対立が決定的となった島津氏が千曲川の渡し場を押さえるために築城に及んだものと考察されている。
近世の川東道に準ずる中世の古道は、野尻から針ノ木を抜けて、舟岳、二十塚(レア物件、旗塚が残る。)、倉井を経て千曲川西岸(左岸)の浅野に至り、浅野からはやや北行して立ヶ花で千曲川を渡り、最終的には高井郡の中野に至る。この道筋中、対岸の立ヶ花に通じる渡し場を押さえているのがこの手子塚城であり、中野陣屋のリア攻めマップにある立ヶ花城とは千曲川の川面を挟んで相対している。
該地は現代人の感覚だと善光寺平から飯山へ向かう際の関門の地として捉えがちだが、少なくとも戦国時代までは東西を結ぶ横道の方が重要視されていたように思う。南北朝時代の末期、高井郡に拠った高梨氏が、千曲川の対岸に当たる水内郡内、芋川庄、東条庄、若槻庄、若槻新庄等に一門の所領を保ち、野尻湖西岸、野尻の関所で関銭を徴収していた事がそれを如実に物語る。又、永正三年(西暦1508年)八月以降、越後守護代、長尾氏と従属的盟約関係にあった高梨氏にとって、こうした道筋の重要性は更に増した事であろう。
年次不詳、七月廿四日、長尾(為景)殿宛、嶋津貞忠御報には、「就爰元之時宜、急候間、今朝関河方迄進物飛脚候キ、然処、御同前御尋、畏入候、村上、香坂領中候於号小嶋田地、中野牢人相集之由、其聞得候間、時宜無心元存候処、中野家中ニ纏子細なと々風聞候間、不誠存候、雖然渡堅申付候処、去廿二日寅剋、彼牢人衆被官依中野ニ相残候者共、露色候処、依無南口通路失利、散々罷也候間、中野へ旁追懸、或者生取、又者からめられ候由申候、」との記述がある。永正十年(西暦1513年)頃の書状と推測されているが、書状全体の内容は、島津貞忠が越後守護代、長尾為景に北信濃の情勢を報じたものであり、中野牢人衆を中心とする高梨氏への叛乱の顛末を述べている。書状の中で貞忠は、村上氏、香坂氏領の小嶋田において、中野の牢人衆が人数を集めたとの風聞を耳にして心許なくしていたが、然るといえども「渡」を堅固にするよう申し付けたところ、去る廿二日寅の刻、中野に相残りし牢人衆被官は、南口無き事により利を失い、これに方々(高梨勢)が追い懸かかり、ある者は生捕り、又、搦め取られたと言っている。この時代に手子塚城が存在していたのかは不明だが、貞忠が「渡」を押さえた事により中野牢人衆等の企てが失敗に終わった事を特に印象付けて報せている。
小丘陵の頂部に主郭、それに腰郭状の副郭を持つ段付きの縄張である。「長野県町村誌」の記述によれば「三階」であったとするが、解釈によっては城域の捉え方が変わってくる。主郭には土壇が付き、現在は壇上に諏訪社が鎮座、造宮に当たって古墳の物と思しき平石の大石(天板石)が掘り起こされた事も過去にはあったらしい。城郭遺構としては、縄張図における通称2郭の南側部分に仕切り土塁様の竪土塁、城域の北端部にはL字形の土塁に小堀切が1条付く。城域北端の堀形に関しては藪で不明、冬場でも確認は難しいだろう。全体的に見れば意外にも後世の改変は少ないのかもしれない。ちなみに髻山城のリア攻めマップにある、島津氏の要害、矢筒城の縮小版といった趣きもある。
今夏、千曲川の渡し場を何箇所か廻ってみたけど、現在でも浅瀬を形成している場所が多い事に気付かされた。立ヶ花の渡し場もその内の一つ、川幅は広いものの川床の大石が露出している箇所も見受けられた。基本的に川筋に大きな変化が無ければ渡し場の位置が変わる事はないのだろう。
※貞忠が「渡」を押さえた事により、中野牢人衆の企てが失敗に終わった事を特に印象付けて報せている〜島津貞忠の長尾為景への御報を額面どおりに受け取ってはならないのではないだろうか。この書状が発給された約一月後には、越後守護、上杉定実に同心した、井上氏、海野氏、栗田氏、島津氏等は合力して関川口から越後へ攻め寄せ、為景と干戈を交えている。個人的な推測に過ぎないが、長尾氏を後ろ盾とする高梨氏の勢力伸長を看過出来ない状況にあった島津氏は、中野牢人衆等の企てを密かに援ける立場にあったのではないだろうか。この書状には何か後ろめたいものさえ感じてしまう。
※写真⑧は北方の立ヶ花橋から撮影した千曲川、向かって左側のぽこりんが立ヶ花城、右側のぽこりんが手子塚城っす。