鐘撞堂

鐘撞堂([内堀館  周辺城郭])

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鐘撞堂の口コミ情報

2024年10月31日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、全国108万人の煩悩抱えた鐘撞き野郎の皆さん、お待たせしやしたっ!ワクドキでしょ〜そう、今回の口コミはみんな大好き「鐘撞」地名の御登場っすっ!お城好きならその意味を知っていて当たり前の地名、城郭用語としても「桝形」と並ぶ人気ワードの一つであり、城郭検定3級の試験問題には毎年必ず選ばれている…っぽい雰囲気を醸し出しながらも実はそうではないよとの指摘もある…んだけどはっきりさせる事も難しいとのある筋による見解が発表されたらしいて噂をある人が話しているのをかずりは低空を飛ぶジェット戦闘機の真下から間接的に耳にしている。

鐘撞堂は内堀館の南西約3.3km、千曲川西岸(左岸)、鳥居川北岸(左岸)、標高368.2mの河岸段丘台地南縁上平場に立地する狼煙台の類いです。南麓の鳥居川からの比高は20m位でしょか。該地は千曲川に流れ込む鳥居川が創造した扇状地上に当たる。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南側の「大倉チェーン着脱場トイレ」を目標に設定して下さい。当然、車も捨てられる。後は適当な場所を選んで適当に該地を目指そう。大体にして誰も行かんやろ…初出以外の情報は皆無だし、これからもそうあり続けるんだろう。

築かれた年代、築いた方は不明です。該地は中世には水内郡太田庄大倉郷に属していた。南北朝時代には金澤弥名寺が同郷の地頭職であったが、島津氏が違乱を働き下地を押領し続けた郷村である。戦国時代の一時期にも同氏の差配が及んでいた事は文書から確実視されている。

当然の知識で烏滸がましいんだけど一応説明…「鐘撞」は、中世に武士等が狼煙の替わりに陣鐘等を用いて情報の伝達を行っていた場所を示唆する地名、時間帯や天候不順によって不通となり易い狼煙よりは鐘の音で報せる方が遥かに有効な場合もあった訳だ。何かに取り憑かれた様に4つ打ちを淡々と叩く雑兵を想像すると身体も自然と揺れて来るぜ。

「長野県町村誌」には、「本村(大倉村)中央字小日向にあり。東西二十間(約36.4m)、南北十間(約18.2m)創建年月不詳。一宇の鐘楼を共立し、非常の備となせしが、宝永の頃(西暦1704年〜1710年)、雷火に罹り焼失、現今水田の畔に一小丘を残すのみ。」とある。

町村誌の記述によれば、堂宇と鐘楼が共立していたとある。純粋な鐘撞の場とは異なるのかもしれない。最大の問題は創建年が不明な事…個人的には中世〜戦国時代のものではないような気がする。

現況は町村誌の記述にあるとおり田甫中の一小丘であるが、上段から見れば狭小な単なる微高地に過ぎない。これ以上特に言う事が無いや。眺めだけはすこぶる良いので鐘撞の場としては優れているんだろう。

訪問時は稲の刈入れの時期であり、多段の金色に輝く田園風景が美しかった。大倉の城山の南麓を流れ下る鳥居川から取水する大倉用水は近世に入ると改修を受けたが、元は中世から存在する井水であり、今もその恩恵を周辺地域に与え続けている。おいらは山城好きを公言しているが、これに比べれば中世の要害の発生なんて一時代における単なる一事象にしか過ぎないとさえ思えてくる。

※「鐘撞」は、中世に武士等が狼煙の替わりに陣鐘等を用いて情報の伝達を行っていた場所を示唆する地名〜この物件に関しては「鐘撞堂」の地名は存在せず、あくまで鐘撞堂跡として認識されている。

※大倉用水〜基本的に周辺地域の田地は鳥居川よりも高い段丘上にある。上流から取水してこれを灌漑しているのが同用水だ。

※人気ワードの一つ〜令和五年度かずり調べによる。偏った調査結果なので取り扱いには注意が必要だ。

※写真③、④は上段の舗装道路から撮影した近景だけど心眼で見てくらさい。

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