西条陣屋
西条陣屋([中野陣屋 周辺城郭])
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西条陣屋の口コミ情報
2025年08月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、信濃のお城の神が著したおいらのバイブル、「信濃の山城と館」なんだけど、近世の物件は限り無くスルーしていて、そのメインは中世、戦国時代の物件に殆ど限られていると言ってよいと思う。
…なんだけど、神の気紛れなのか、僅かながらも所々で近世の物件もぶち込んでいる。松代城や松本城ですら無視するくせに、陣屋や屋敷には愛着が湧くのか、趣旨から外れる事が少々見受けられる。ちなみにおいらはこれ等を総じて逸脱物件と呼んでいる。
西条陣屋は中野陣屋の南西約1.0km、標高約352mの平野部平場に立地した陣屋です。更級郡稲荷山から埴科郡松代、高井郡中野を経て水内郡飯山へと抜ける近世の谷街道は陣屋の西側で鉤の手を作る。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「旧西条陣屋移築裏門」を目標に設定して下さい。この裏門(長屋門)の建つ一般住宅地の中の一角が該地である。ちなみに「西条陣屋跡」としても位置登録があるがピンの位置は陣屋の敷地外、別区画となっている。
築かれた年代は寛永元年(西暦1624年)、主な代官として、設楽長兵衛能業、設楽孫兵衛能武の名が挙がる。ちなみにこの(八王子)設楽氏だが、江戸時代に入ると各地の代官を多数輩出、少なくとも九人が数えられるんだそう。
陣屋は高井郡を領した高井野藩福島家の改易後に成立、大名、旗本等の諸私領を除いた同郡の天領を差配した一つである。廃止されたのは天和元年(西暦1681年)、慶安三年(西暦1650年)に成立していたアプリの登録城、中野陣屋に統合された。
陣屋の現況は…耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。陣屋敷地は殆どが舗装道路で囲われており纏まりが大変良い。改変著しく見るべきものは少ないが、当時の陣屋の裏門の部分が移築され、一般住宅の表門として現在再利用されているらしい。
…福島正則て言えば誰でも粗暴な脳筋キャラを想像すると思うんだけど、おいらはもっと高く評価されるべき人物だと思う。広島藩時代には検地を行いその結果を領民に披露して実高に見合った年貢の取り立てを行う等、実はリベラルな行政家としての側面を持っていたりもする。
改易された後の高井野藩時代には、新田の開発に勤しみ善政に努め、その恩徳は現在でも追慕され続けている。須坂市や中野市、上高井郡高山村で彼の事を悪く言う人は一人もいない。
さるの(元和六年、西暦1620年)壬十二月十九日、間山村(高井郡)勘右衛門との宛、瀧正太、小泉九郎右衛門、水谷又右衛門連署手形には、「以上 西條村(高井郡、即ち、後に西条陣屋が置かれた村である。)⬜︎ひらきの儀、其方へ申付候間、精を出しひらき可被申候、田畠ひらき候年より三年やすみニ申付候者也、」とあり、福島正則の老臣三名は、間山村の勘右衛門が、西條村の荒地の開墾に精を出すと述べた事を鑑みて、田畠を開いた年より三年の間は休む事を申し付け、これを手形としている。凋落したとはいえ、これが一大名が庄屋クラスの人物に与える手形の内容だとは俄かに信じ難いものがある。
若い頃には粗暴だったのかもしれないが、晩年には達観した感さえ備わる福島正則には人間としての成長が強く感じられる。エリ限第三十一弾を前にしてアレだが、同じく高井郡を一時期領した森忠政とは人として雲泥の差があると思う。
※森忠政〜実兄、長可の旧領である川中島等四郡を願って入部したが、その治政は苛政であった。検地(結果が「信濃国川中島四郡検地打立之帳」として残る。)によって石高は増大したが実高との相違が甚だしく年貢に苦しみ、検地のやり直しを求めて全領一揆が発生、忠政はこれに対しても苛烈な処断で臨んでいる。
※苛烈な処断〜真偽は不明だが、善光寺に残る「千人塚」はこの際に誅された犠牲者を弔うために造立されたとも。巨大な石塔には赤字で犠牲者の名がびっしりと刻まれている。善光寺さまを参詣する際には是非…