草間城(草間館)
草間城(草間館)([中野陣屋 周辺城郭])
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草間城(草間館)の口コミ情報
2025年08月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
草間城(草間館)中野陣屋の西南西約5.4km、篠井川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約334mの河岸台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路駐で大丈夫やろ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは草間氏です。同氏については同じ中野陣屋のリア攻めマップにある、大久保館、茶臼峯砦も併せて参照して下さい。
「長野県町村誌」には「古城址」として、「本村(草間村)の西、字堀にあり東西四十七間(約85.5m)、南北廿八間(約50.9m)、回字形をなし、平地より高き事一丈(約3m)許四面遺濠あり。今は残らず民田となる。然れどもその遺跡顕然として里俗稱して草間城と云ふ。築城年月不詳、里俗傳に鷹永(西暦1394年〜1428年)の初め、御館城(在址本郡中野町)主高梨氏の幕下草間次郎(後豊後守)信良居城す。同二十七年(西暦1420年)庚子より其子草間志摩守信具、永正三年(西暦1506年)丙寅より其子草間伊豆守信俊、天文七年(西暦1538年)戊戌より其子草間主殿之助淨養等襲て之に居す。永禄二年(西暦1559年)己未武田氏兵を擧て高梨政頼を略す。此時當城も陥られ、淨養、政頼に従ひ越後に逃れ、上杉景虎に據る。尋て長尾政景の物頭となる。武田氏本城を攻むるの際本村にある烽火臺(茶臼峯砦)及び當城に火を放つ、城郭灰燼となる。以降廃城たり」とある。
町村誌にある草間主殿之助淨養等襲は、「川中島軍記」に、永禄四年(西暦1561年)辛酉九月九日、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、「…甲州の臣、三枝新十郎と共に奮勇烈戦し、終に両士槍を串き討死すと見ゆ。」とあるんだそう。又、草間氏の世襲順序は、後に米沢藩藩士として存続した同氏の旧江戸在番、草間荘蔵が家譜から抜録したものを記したとも。
居館の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。居館跡としては優れたものの中の一つであろう。町村誌の言う微高地としての形状がそのまま残っている。突撃お宅訪問でもしない限り中に入っての探索は難しいのだが、周囲から眺めるだけでもその存在感は十分に伝わってくる。びっくりする事に門戸の部分には「草間城跡」と書かれた標柱が…嬉しい配慮には感謝しかない。ちなみに該地の小字は「堀」だが、町村誌に添付された絵図には居館地を四囲する堀がしっかりと描かれている。南面に見られる、舗装道路との間の不自然な空地は堀形であろう。
纏まりを以て改変されたのは有難い事だ。高さ一丈の面積のある微高地は、後世においても有意義に活用され続けている。ちなみに同じ中野陣屋のリア攻めマップにある立ヶ花城とは指呼の距離にある。同城の役割を鑑みれば、草間氏が主家の高梨氏に対して果たしていた役目も自然と知れるだろう。水内郡から千曲川を立ヶ花で渡り高井郡中野郷へと至る川東道の経路上に草間氏関連の城館は集中している(知行地でもある訳だが…)。
※高梨氏が惣領制からの脱却を推し進める過程において台頭したのがこの草間氏ではないかと個人的には考えている。
※居館跡としては優れたものの中の一つ〜写真見てこりが…?て思うかもしれないんだけど、居館地がその立地故に後世に辿る運命を想像してくらさいな。山城とは訳が違うのら。
※写真には撮影日時が違う物が1枚だけ含まれている。