小島古城(砂田城・焼き場)
小島古城(砂田城・焼き場)([長沼城 周辺城郭])
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小島古城(砂田城・焼き場)の口コミ情報
2024年07月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、信濃のお城の神は信者に踏み絵を突き付ける事も度々だとどっかの口コミで書いた気がするけど、今回の口コミはそんな踏み絵物件の一つ…先月訪ねたお城なんすけど、この蒸し暑い中でのリア攻めは平城といえども容赦無し。日陰が欲しかったぜ。
小島古城(砂田城・焼き場)は長沼城の南西約2.8km、浅川東岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約337mの平野部平場に立地する居館城です。ちなみに該地は信濃のお城の神が導き出した比定地である。
該地の長野市小島を平野部平場と書いたが、往古は浅川や北八幡川の本流等、千曲川に流れ込む大小河川が創造した扇状地上の島状微高地であったとされ、地名の「小島」にその名残りを残す。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所はそこら辺でどうにでもなる。ちなみにやる気の無い方には該地の特定が難しい…
築城年代は不明、築城者は小島氏になるんだろうか。「長野県町村誌」には、「古城址」として、「村(小島村)の正北にあり、小島氏代々之に居る。応永七年(西暦1400年)九月小笠原長秀本国守護職を奉す。諸将長秀の命に随わず、更級郡布施郷に於て合戦に及ぶ、小島刑部少輔、村上満信に従ひ出陣す。天文二十二年(西暦1553年)村上義清、武田晴信と小県郡上田原に戦ふ、義清敗れて越後に走る。義清の幕下小島権之丞奮戦して死す、後廃城となる。」とある。
町村誌の記述には誤りがあるが、村上氏に従った小島氏の居館城であった事は判る。文中には、「義清の幕下小島権之丞奮戦して死す、…」とあるが、同名の五輪塔は「小島権兵衛の墓」として今も上田市下之条壱丁田に残っている。又、一族と推測される小島兵庫助は、葛尾城のリア攻めマップにある狐落城において大須賀久兵衛尉の離反がために討死した。
該地の小島は「吾妻鏡」によれば、当初は太田庄に属する郷村であり、同庄を構成する六郷、「神代、石村南、小嶋、津乃、大倉、石村」の内の一つである。太田庄地頭職、島津氏の影響下にあった地域ではあるが、小島に村上氏が進出した時期にあっては不明である。
該地は今に残る小島地区の表面条里遺構のほぼ中心に位置し、古代には善光寺と千曲川の対岸、高井郡とを結ぶ道筋、通称、「中道(なかみち)」が通過する交通の要衝だったと推測されている。即ち、中世の善光寺の東門、本堂(現在の仁王門付近である。)付近に端を発した道筋は、東行して和田(古牧)を通り、小島を経て布野(柳原)の渡しで千曲川を渡る。東和田には、「中道東」、「中道西」の地名が残り、高井郡家と水内郡家を東西に一直線で結ぶ伝路とも考察されている。更にこの小島付近では北上する別の道筋も推測されており、経路上の富竹には、「山道東」、「山道西」の地名が残る。「山道」は東山道沿いによく見える地名である事から、この道筋が往古の官道であったとも考察されている。
お城の現況は…何も言えねぇ…そもそも論で比定地だしね。地区で管理されている「焼き場」と呼ばれる田甫中の空地と隣接する果樹園がその中心地、野焼きの火葬場だったと思われるけど、この地名は近代に入ってからのものだろう。城郭遺構なんてある筈も無く、正直、何の感慨も湧いて来ない。町村誌の絵図は良い感じなんだけどねぇ…とっとと帰ろう。
一応、長野市では埋蔵文化財としての登録がある(砂田城)。但し、概ねの位置を把握しているのみと思われ、該地の特定には至っていないようだ。
※「中道(なかみち)」〜北陸新幹線の建設工事に伴う浅川扇状地遺跡群の発掘調査において、この中道の経路上に古代の道の側溝と思われる溝が検出されている。
※高井郡家、水内郡家の場所にあっては特定されていないが、前者は長者屋敷遺跡に、後者は現在の長野市県町、もしくは善光寺の周辺が推定されている。
※写真①は要るのか知らんけど東方から撮影した近景っす。
※リア攻めは殆ど通り過ぎただけの内容だけど、こり書くのにトータル4時間位…阿保なんでしょか。