中俣城
中俣城([長沼城 周辺城郭])
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中俣城の口コミ情報
2024年07月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
中俣城は長沼城の南南西約3.3km、北八幡川西岸(左岸)、標高約337mの平野部平場に立地する居館城です。該地は西方から流れる北八幡川が北方へ急に向きを変える場所であり、同川が天然の堀の役割を果たしている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地の駐車場に捨てられるが何のための駐車場なのかは知らん。
築城年代は応永三十一年(西暦1424年)、築城者は井上氏とされ、城主に井上左馬助光頼の舎弟、井上遠江守の名が伝わる。
「長野県町村誌」には、「古城跡」として、「本村(柳原村)午未(南南西)の方一町にして字堀組にあり、中俣城と云ふ。本丸跡東西三十二間三尺六寸(約58.5m)、南北五十三間(約95.4m)東の方に接し、二ノ丸跡東西二十七間一尺(約49m)、南北五十間(約90m)、西北へ連続し、三ノ丸跡東西三十八間一尺(約68.7m)、南北三十三間(約59.4m)、回字形をなす。今耕宅地となる。芦立長十四間(約25.2m)、巾一間三尺(約2.7m)、水溜長三百廿一間(約577.8m)、巾一間三尺六寸(約2.9m)あり。築城年月及城主不詳。里俗伝に応永中(西暦1394年〜1427年)、井上左馬介光頼舎弟遠江守居住し、後村上氏の幕下となる、事跡不詳。弘治永禄(西暦1550年〜1570年)に至り武田氏の所有となり、其臣交代して居住すと云ふ。…慶長七年(西暦1602年)八月十日の検地帳に堀端、木の下、下馬出し等の字あり。」とある。
天正十年(西暦1582年)には、上杉氏被官、本田安房守の居城となったらしいが、後に上杉氏が会津に移封されると本田氏もこれに従い城は廃されたんだそう。
お城は三つ葉のクローバー的に3郭が隣り合う縄張、城域の北西隅は国道18号に削り取られているとはいえ、現在の舗装道路は堀形を殆ど踏襲しているらしい。遺構は完全消滅しているが、昭和の初期頃までは空堀と身の丈程の土塁が残っていたんだそう。又、縄張図における通称本丸には城山稲荷が鎮座、鳥居の前にはお城の説明板も立っている。
中俣城に隣接した西側の一帯は、正治元年(西暦1199年)、井上又太郎頼綱の子、与四郎頼重が建久四年(西暦1193年)、叡山に出家した後、明空を号して開基した柳嶋山勝善寺の旧地、同寺は磯辺六ヶ寺の一寺でもあり、数世を経た後、慶長三年(西暦1598年)、高井郡へ寺地は移動し当地での歴史を終えた。井上氏は仏門に入る者が多かったそうなので、頼重もそうした一人だったと言えるんだろう。同名は親鸞聖人直弟子六人の内の一人だが、出家年を考えると親鸞とは同世代の人物である。
一説によれば、中俣城の通称本丸には勝善寺の本坊が、通称二の丸や三の丸には五ヶ寺や寺侍の屋敷があったとも伝わり、寺地と一体となった城館であったとの想像も出来る。何れにせよ両者が無縁ではなかった事は確かだろう。
天正五年(西暦1577年)貳月十八日、勝善寺の住職、順西は、摂津石山城に籠城中の本願寺顕如光佐に金子を送り、同年三月廿五日には、有名なバトル坊主、下間刑部卿法眼頼廉がこれを謝している。又、天正六年(西暦1578年)七月十九日、順西は、武田氏家臣、今井新左衛門尉(信衡)、武藤三河守(常昭)宛に、寺領年貢を書き上げて注進している。
※今井新左衛門尉(信衡)、武藤三河守(常昭)〜生島足島神社文書中、「武藤神右衛門尉常昭起請文」には、「一自今以後、今井次郎左衛門尉与入魂致間敷候、…」、「一向後朋友之調并徒党立仕間敷事」とあり、武藤神右衛門尉常昭は、今後、今井新左衛門尉と仲良くしない。勝手に仲間を作って徒党を組んだりしない旨等を誓わされている。奉行人としての中立性を求められたのだろう。