佐久間氏館(佐久間長助居館)

佐久間氏館(佐久間長助居館)([長沼城  周辺城郭])

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佐久間氏館(佐久間長助居館)の口コミ情報

2024年07月31日 内記かずりヾ(・ε・。)


佐久間氏館(佐久間長助居館)は長沼城の北方約1.4km、浅川東岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約332mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「蓮正寺跡」を目標に設定して下さい。この寺院跡が概ねの該地となり、車も何とか捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは佐久間長助(「長野県町村誌」)だが、「寛政重修諸家譜」には見られない人物である。

元和二年(西暦1616年)十二月六日、佐久間大膳亮勝之が、長沼を中心とする一万八千石を拝領し長沼藩を立藩、佐久間家は、貞享五年(西暦1688年)五月十八日、改易となるまでの四代、七十二年間に亘って同地で存続した。大膳亮勝之は佐久間久右衛門盛次の四男で、兄には玄蕃助盛政(「賤ヶ岳の戦い」で有名だ。)、久右衛門安政、柴田三左衛門勝政がいる。当人は、柴田勝家の養子を初めとして、後には佐々成政の婿養子、成政が秀吉に服すると妻を離縁して関東へ赴き後北条氏に仕え、その滅亡後には秀吉の命で蒲生氏郷に仕えている。

三代藩主、勝豊は寛永十九年(西暦1642年)九月、三千石を舎弟、勝興(長助とも。)に分知し、勝興は赤沼に新館(赤沼知行所)を建てたが、その居館地が該地である。正保四年(西暦1647年)三月、幕府に提出された「信濃国郷村帳」には、「金箱村、上駒沢村、富竹村、下駒沢村、津野村、赤沼村」とあり、六ヶ村、二千五百石を信濃国における知行地とした。不足分は国外他所(近江国高島郡内)で補っていたと思われる。

勝興は、寛文四年(西暦1664年)に病死し、初代長沼藩藩主、勝之の三男、勝種の二男、盛遠が養子に入り、同年十二月に家督を相続したが、天和三年(西暦1683年)八月、実父である勝種は大島に流され、連座した盛遠も所領を没収され赤沼知行所は廃絶した。ちなみに同知行所は苛政で知られ、寛文十年(西暦1670年)、所内の惣百姓は幕府に越訴を以ってこれを訴えている。訴状には、高免、高役によって百姓は立ち行かないとして、十七ヵ条に及ぶ治政の非道が列挙された。勝種は幼年の盛遠に代わって知行所を差配する執政でもあった事から、これが遠流の遠因ともされている。

居館の現況は…果樹園、墓地、地区の公民館とその敷地、延命地蔵尊等となっている。居館地の旧地にあった蓮生寺も廃寺となっており、遺構は完全消滅、その敷地範囲すら定かではない。正直、個人的な話だが近世に入ってからの物件に情熱を傾けられない。「信濃の山城と館2、更埴・長野編」に掲載があるとはいえ、神本の趣旨からすれば本来ならば対象外となる筈だ。

長沼藩初代藩主、大膳亮勝之はお化け灯籠メーカー(阿保…)として有名、京都府京都市の臨済宗南禅寺派の寺院、瑞龍山南禅寺、愛知県名古屋市の熱田神宮、東京都台東区の上野東照宮の三基の大灯籠は日本三大灯籠と呼ばれるが全てこの勝之の奉納である。

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