南堀館(堀の内・小田切主水館・穂里城)

南堀館(堀の内・小田切主水館・穂里城)([横山城  周辺城郭])

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南堀館(堀の内・小田切主水館・穂里城)の口コミ情報

2024年09月11日 内記かずりヾ(・ε・。)


南堀館(堀の内・小田切主水館・穂里城)は横山城の東方約4.3km、浅川南岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約345mの平野部平場に立地した居館です。北側には長野電鉄長野線の朝陽駅が位置する駅近物件である。該地とその周辺は甲州系の姓(金丸、土屋、横田等)を名乗る方が今も多いんだそう。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。完全無血の一般住宅地である。悩むぐらいだったら軌道敷を跨ぐ必要があるが、朝陽駅の駐車場にでも捨てるのが無難…

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方ははっきりしない。里俗伝によれば、戦国時代、村上氏に従う小田切主水正之が居したとも。同名については不詳だが、「諏訪御符禮之古書」、寛正七年(西暦1469年)丙戌花會の条によれば、香坂氏が知行する近隣の和田に、同氏の代官、小田切下総貞遠があった事から、この貞遠の縁者であったとも考察されている。

明徳三年(西暦1392年)三月、高梨朝高は一門の所領を書き上げて室町幕府に注進しているが、これによれば該地の堀郷は高梨与一の知行地の一つであった。同郷は中世の六ヶ郷用水の末流域に当たり、同用水の開発主体を同名に求める事も十分に可能だろう。又、南北朝時代の末期には、既に「堀郷」と呼ばれていた事に注意されたい。少なくとも居館地がこれ以前には存在していた事を示す裏付けにはなるだろう。

冒頭で該地には甲州系の姓を名乗る方が多いて書いたが、それ故に武田氏による二次利用が推測されている。役割としては拠点城に出仕する在番衆等の、町村に比肩する屋敷地だろうか。単なる在地土豪等の居館地としては破格の規模でもある。出仕先はアプリの登録城、長沼城か。

居館の現況は…一般住宅地となっている。写真見て頂けたら解ると思うけど、兎に角、リア攻めが地獄、人や車も通るし、大体にしてこんな場所の写真を撮ってる事自体が異常者の所業だわ。一刻も早く立ち去りたかったんだけど、リア攻めに納得が出来なければ終われない損な性分でもある。結局は全ての堀跡を確認して廻る羽目に…あ、南堀館ね、縄張は二重の空堀で主郭を囲ったもの。前述のとおり居館地としての規模が大きい。城郭遺構は完全に消滅しているが、内堀、外堀の堀跡の殆どを現在の舗装道路に求める事が出来る。内堀内には、小田切大明神の石碑が建ち、その隣りには南堀館の説明板が立っている。

大正年間(西暦1912年〜1926年)まで、居館地の四隅には、春日社(南西)、山王社(東北)、諏訪社(南東)、八幡社(北西)が鎮座していたらしい。又、昭和三十年(西暦1955年)頃までは、堀と土塁の一部が残っていたとも。信濃のお城の神の聞き込みによれば、内堀の幅は約2m、冬場はスケートが出来たんだそう。引水されていたんだろうか。

※南堀館の説明板〜高さを1.5m位下げて欲しいなぁ…探しちゃったよw

※この手の物件を再訪する気は毛頭無い。リア攻めを1回で終わらせるために今回は通報されても構わないぐらいの覚悟で臨んでいる。職質されたら当然、闘う(丸め込む)つもりだったw

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