尾張城

尾張城([横山城  周辺城郭])

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尾張城の口コミ情報

2024年09月15日 内記かずりヾ(・ε・。)


尾張城は横山城の東南東約3.8km、標高約343mの平野部平場に立地する居館城です。城域は東西に走る長野市道、古牧朝陽線に分断されている。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築城年代、築城者は不明です。「長野県町村誌」には、「本村(尾張部村)午(南)の方字村南にあり、本丸址東西五十三間(約96.4m)南北四十七間(約85.5m)、二の郭址東西六十五間(約118.2m)南北三十八間(約69.1m) 字形拾も曲尺の如し 内濠外濠馬出し回字形をなす。築城年月及城主姓名不詳。天正年間(西暦1573年〜1592年)尾張備中守住せしと云ふ。近古まで城跡其の高き事平地より七八尺に過たり、耕耘不便なるにより剔削して、今耕地となる。人々適々土を穿ち兵器の類を得ることあり。」とある。

町村誌、北尾張村の管轄沿革には、「永正中(西暦1504年〜1521年)村上顕国本郡を侵す、諸将皆降る。里俗伝に村上氏の幕下尾張部三郎之を領すと云ふ不詳。」とあり、「科野佐々礼石」には、「尾張部三郎がここに居館して、当所一村を支配していたが永禄のはじめに武田氏に降って、この屋敷を引き払った。」とあるんだそう。

該地の長野市西尾張部の大宇は、律令制下において尾張氏の部民が住していた事に由来するらしい。元来、尾張郷には尾張氏があった訳だ。同氏は永正年間に村上氏に従うが、後には武田氏に従うも凋落した…て考えるのが自然だと思う。

Googleマップのピンの位置は、城跡碑の建つ「尾張城公園」内に登録されている。信濃のお城の神の縄張図もこれを中心に城域を捉えているが、「尾張城跡」の発掘調査結果報告書によれば、主郭の中心位置は公園から北東に約0.1kmの場所に求められる(未確認だが「城」の地籍が残っているようだ。)。精査した訳ではないが、公園は明らかに主郭の敷地範囲から外れており、むしろ回字形の外郭(二の郭)に相当する部分であったと推測する。

お城の現況は…区間整理等で何もかもが平らげられてしまっており、表面調査すら不可能な物件である。西辺には近年まで明瞭な堀形が残っていたらしいが今は何も…主郭の中心位置は、Googleマップにも位置登録されている「ハイカムール城」となるが、この共同住宅が、「城(じょう)」と名付けられていた事には感動した。ちなみに前述のとおり、尾張城公園内には立派な城跡碑が建っている。但し、個人的には黒御影石の城跡碑はあらゆる場所で望んでいない(万人に見せる気が無いように思えるのさ。)。

薄いどころか何にも残っていない訳だけど、発掘調査結果報告書の発見が初回リア攻め後となってしまい、これ読んで納得がいかなくなったおいらは再訪する事に…ここで問題となったのはやっぱし主郭の位置特定、市道古牧朝陽線道路改良事業、長野市西尾張部土地区画整理事業によって、当時と現在の地図との相違が大きく発生し、現在の地図上で確認する事が非常に困難となっていた。市道の位置、建物の位置、用水路の位置等、あらゆるものが変わり果ててしまい、両地図を重ね合わせる事に相当な苦労をした。

問題を解決したのは、地図上にぎりぎり記載されていた西北方の八幡神社と北東方の真宗大谷派の寺院、光蓮寺だった。両者の位置関係から主郭の中心地を叩き出す事が出来た訳だ。神社さん、お寺さん、もやもやを解消してくれてありがちょ。

※北東方の真宗大谷派の寺院、光蓮寺〜調べてみると歴史好きにも十分訴える由緒を持つ。光蓮寺は磯部六ヶ寺の一つ、元は水内郡西久保にあった柳原山勝善寺、開基の了禅は、親鸞の弟子でもあり、長沼城のリア攻めマップにある中俣城の口コミで言及した柳嶋山勝善寺の開基、明空の実弟でもある。十一世、了順は、本山の危難を救うべく柳嶋山勝善寺の教了と共に摂津石山城に入城し討死、十二世、行心は、後に教如から蓮如の一字を賜り寺号を光蓮寺と改称した。信濃の浄土真宗寺院は顕如の石山城籠城を積極的に助けており、特に磯部六ヶ寺は様々な形で合力していた事が各種文書から確認出来る。ちなみに西久保からの寺地の移動は「川中島の戦い」を避けての事だが、当初の場所は現在地の南西側にあったとされる。正に尾張城の旧地だったとは言えないのだろうか。

※律令制下において尾張氏の部民が住していた〜後の尾張氏がこの系統に属するのかの答えは永遠に出ないだろう。

※発掘調査結果報告書はネットでダウンロード出来る。ちゃんと読んでないけど、空堀が検出された他、平安時代から中世にかけての陶器、かわらけが出まくりだったようだ。

※縄張は町村誌に添付された「尾張城跡之図」が最も判り易い。

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