綿内の井上氏館
綿内の井上氏館([井上城 周辺城郭])
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綿内の井上氏館の口コミ情報
2025年05月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
綿内の井上氏館は井上城の西南西約1.2km、千曲川東岸(右岸)、標高約338mの平野部平場に立地した居館です。簡単に言えば、井上城の西南麓、同じ井上城のリア攻めマップにある春山城の北麓に当たり、春山城は居館の主の要害と推測されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は隣接する、同じく位置登録がある「小内神社」の境内に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは綿内(小柳・亘理)井上氏です。同氏は清和源氏頼季流井上氏の庶流家、時代不明なるも水内郡小柳郷を最初として高井郡亘理郷へ進出した有力な一家である。
井上氏は同族の自立傾向と相まって惣領制に基づく武士団の形成が遅れていた事が指摘されているが、室町時代には惣領家を主体として綿内井上氏がその一翼を担うようになった。綿内は、善光寺平、川中島における有数の穀倉地帯でもある。
「諏訪御符禮之古書」、宝徳四年(西暦1452年)壬申の条には、「一 直(亘)里井上出羽守政満御符之禮三貫三百文御教書三貫三百代官吉田能登守高秀」、享徳三年(西暦1454年)甲戌の条には、「一 小柳五月會御符之禮三貫三百文使一貫文稲田道椿」、長禄三年(西暦1459年)己卯五月會の条には、「一 賀頭小柳井上出羽守政満御符之禮三貫三百文使一貫文御教書禮同前頭役二十貫文」、長禄三年(西暦1459年)己卯御射山の条には、「一 直(亘)里井上出羽守政満御符之禮三貫三百文御教書同前出羽守政満長禄四年(西暦1460年)卯月死去頭役二十貫」、寛正五年(西暦1464年)甲申五月會の条には、「一 流鏑馬直(亘)里井上出羽守御符之禮三貫三百文御鉾本一貫三百路銭一貫同前御教書之禮如各御符頭役二十貫」、「一 加頭小柳稲田豊後守入道道椿御符之禮五貫六百御鉾本一貫三百路銭同前御教書之禮如各御符之時也使彌五郎頭役二十一貫」、應仁三年(西暦1469年)己丑花會の条には、「一 宮頭小柳井上信濃守政満御符之禮三貫三百文御教書同前使三郎御頭役二十貫」、應仁三年己丑五月會の条には、「一 右頭直(亘)里馬場信家御符之禮三貫三百三十三文御教書使孫六頭役二十貫」、文明七年(西暦1475年)乙未花會明年御頭定には、「一 加頭花會小柳井上代官稲田筑前守満重御符禮三貫三百三十六文使曾次二郎御符上御教書禮同前三貫三百頭役二十貫」、五月會明年御頭定文明七年乙未には、「左頭直(亘)里井上信濃守政清代初代官は助二郎御符禮三貫三百三十六文使曾次二郎御符上御教書禮同前三貫三百頭役二十貫」、文明十一年(西暦1479年)己亥五月會明年御頭定には、「一 五月會加頭小柳木井上信濃守政満御符祝三貫三百三十三文使四郎殿御教書祝同前頭役二拾貫」、文明十二年(西暦1480年)庚子明年花會御頭定には、「一 加頭直(亘)里井上信濃守政満御符禮三貫三百卅三文使四郎殿頭役二拾貫」、文明十六年(西暦1484年)甲辰花會明年御頭定には、「一 前宮頭小柳代官稲田大炊助義重御符禮三貫三百孫六」、文明十七年(西暦1485年)乙己花會明年頭番役事には、「一 花會直(亘)里代官駒村犬井安行御符禮三貫三百三十三文孫六」、長享三年(西暦1489年)己酉花會明年御頭定には、「一 前宮小柳御符禮三貫三百三十三文代官梨本丹後守満國使孫六」とあり、室町時代の後期には、小柳、亘理の両郷は、井上出羽守政満が知行し、その死去後には井上信濃守政満(同名だが…後に見える政清が正しいか。)が相伝していた事が判る。又、井上姓でない個人名は使いの者を除けば代官である。
武田氏の信濃経略によって井上氏は二分、惣領家は上杉氏に随身したが、綿内井上氏は武田氏に従っている。弘治貳年(西暦1556年)六月二日、井上左衛門尉宛、武田晴信宛行状案には、「綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言、」とあり、武田晴信は、井上左衛門尉に、綿内の内から三百五拾貫文を隠居領として宛行っている。又、後を継いだのは井上出羽守満直であった事が別書状から確認出来る。
居館の現況は…耕作地、果樹園、一般住宅とその敷地等となっており、城郭遺構としては西辺と北辺に幅員のある堀形が残っている。周辺には、塵埃を捨てたと伝えられる「芥捨場」の小名、別に「化粧堰」と呼ばれる用水路も残っている。ちなみに新しい説明板が立っているが、その場所は居館敷地外、別区画となっている。
別の口コミで井上氏はおいらにとって特別な存在だと書いたけど、最も特別な存在がこの綿内井上氏だ。
※写真はそこら辺の畑地と果樹園の写真だと思って見てくらさい。生真面目なおいらは41枚撮ってるw
※今回の口コミ書いてて老眼が一挙に進行した気がする。地方史は一次史料、第一級史料との格闘だ。