立屋城(古城)
立屋城(古城)([葛山城 周辺城郭])
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立屋城(古城)の口コミ情報
2024年10月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
信濃の城館全制覇を目指すおいらのペースが北信で停滞している。一般的に未踏の山城が多いので登城情報が基本的に皆無、何もかもが手探り状態だったりするのがその原因だ。更に言えば、激藪の城館が多い事も素因の一つ、熊笹藪、蔦藪に低雑木の密集等の混合藪はお山に入ろうとする美少年を徹底的に阻害する。この藪を何とか突破すれば…等の淡い期待はほぼ100%の確率で裏切られる。取り付きさえ判らず、城域内に辿り着ける保証が一切無い。気持ちが折れてしまい、結局は丸一日を山際で無駄にするなんて事も度々だ。今回の口コミはそんな北信の山城の一つ、上ヶ屋集落の裏山、小さなお城だからて舐めてちゃいけないぜ。
立屋城(古城)は葛山城の西北西2.2km、標高853mの山稜山頂から南方へ伸びる尾根末端部上、標高約823mの小ピークを中心に立地する要害です。東麓の長野県道453号、飯綱高原芋井線からの比高は30m位でしょか。該地の周辺は、標高1917.3mの飯縄山の南方裾野、飯綱高原が高低差のある複雑な丘陵地様地形、峡谷様地形に変わる場所でもある。ちなみに比高は低いが葛山城よりも高位標高にある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の「古沢家のイチイ」を目標に設定して下さい。北側に迫る山尾根が該地だ。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。ちなみに上水内郡小川村小根山にも同名称の要害が存在する。距離も近いので混同に注意しよう。
築城年代は不明、築城者は立屋氏と推測されている。同氏は滋野氏の一族、裾花川流域に拠った落合氏の分流とされ、在名を取って立屋氏を称した。同様の一族には、上屋氏、桜氏、鑪氏、広瀬氏があり、落合氏を惣領に葛山衆と呼ばれる武士団を構成した。
元亀元年(西暦1570年)五月朔日、立屋彦四郎宛、跡部大炊助(勝資)奉之、武田信玄安堵状案には、「本領 一七拾五貫文 櫻之内 新知行 一拾貫文 同所 已上 自㝡前参御幕下条、忠節無比類候、因玆如此被宛行候、依戦功可有御加恩旨、被仰出候者也、仍如件、」とあり、武田信玄は、立屋彦四郎に、櫻の内から本領、七十五貫文を安堵、新恩として同所から十貫文を宛行っている。
又、元亀元年(西暦1570年)九月朔日、立屋勘解由左衛門尉宛、跡部大炊助(勝資)奉之、武田信玄宛行状案によれば、立屋勘解由左衛門尉は、本領の各所、計四十三貫文を安堵された他、新知行として、「入山之内」から貳百貫文、「北郷之内」から六拾貳貫文を宛行われている。前述した彦四郎と勘解由左衛門尉の関係性については不明だ。
縄張は5郭で構成されるがコンパクトである。後世、耕作地となり細部が失われている他、縄張図における通称5郭は一般住宅とその敷地にそのまま変貌している。又、通称1郭から通称3郭までは人類の進入を阻む原生林と化しており探索自体が無意味な作業だったりもする。城下を戸隠に至る古道が通り、南麓には「立屋」の字地名が残る。
主郭部のリア攻めを諦めて帰ろうとしたら、小ピーク上には何やら白い建造物が建っている事に気が付いてしまった…突然、闘争心が湧き起こり、平均斜度70°〜75°位の崖地をよじ登る事を決断する…おいらの長所でもあり欠点でもある、確かめなきゃ気が済まない精神状態に陥ってしまった…結果として主郭を制覇する事にはなったけど、白い建物の用途は最後まで不明(倉庫様の小さな建物が2棟並んでいる。)…ちなみにこのお城、殆どが草藪と蔦藪なんで頑張れば進めるんだけど、進んだところで何すんの…得られる成果が何一つ無い。段が付いてるのは判ったんだけどねぇ…それにしても短パンと白いTシャツでの藪漕ぎは失うものが大き過ぎるわ…
※上水内郡小川村小根山にも同名称の要害が存在する〜こちらも立屋氏の要害とされる。但し、史料等乏しくはっきりさせる事が出来ないとはいえ、果たして口コミの立屋氏と同一氏族だと判断してもよいのだろうか。
※写真①は南麓から撮影した近景っす。手前に見える民家の位置が「立屋」と呼ばれる場所だ。
※写真⑧は後背地から撮影した展望、背景中央の山稜がアプリの登録城、葛山城っす。
※リア攻めは周囲から眺めるだけにしといた方が無難だ。ちなみに縄張図では無視されているが、城域は切通しの舗装道路によって分断されていると思う(西側と南側にやや広い。)。