荒安 仁科氏屋敷
荒安 仁科氏屋敷([葛山城 周辺城郭])
葛山城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「荒安 仁科氏屋敷」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
荒安 仁科氏屋敷の口コミ情報
2024年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今回はひょとしたら信濃国安曇郡の名族、仁科氏の惣領を継いでいたかもしれない人物が居した屋敷の口コミっす。同氏は武田信玄の名族懐柔策によって、みんな大好き五男の五郎盛信が養嗣子に入った事で知られる。その後の仁科氏は武田氏の藩屏として、特に勝頼の代には、アプリの登録城、根知城や不動山城にも在番衆を送り込む等、安曇郡、千国大道沿いの谷筋の各地域は勿論、越後国頸城郡の一部地域の差配を委ねられるまでに成長した。その陰にあって本来の仁科氏宗家は凋落、同氏の正統が武家として復権する機会は完全に失われてしまった。
荒安 仁科氏屋敷は葛山城の北方約1.1km、標高約772mの段丘台地上平場に立地した屋敷です。該地の南側を東西に走る舗装道路は戸隠道である。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「飯縄神社里宮(皇足穂命神社)」を目標に設定して下さい。この神社に至る石段の中段東側に広がる平場が該地となる。神社の駐車場は少し離れた場所に付いている。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは仁科氏です。但し、元は飯縄明神、千日大夫(代々世襲在俗の修験者である。)の冬屋敷であり、武田氏に誅されたとも伝わる仁科氏惣領、仁科右衛門大夫盛政(系図上は仁科五郎盛信の養父だ。)の嫡子、盛孝とその舎弟、盛清が飯縄山に逃れ、千日次郎の養嗣子となって該地に居したとするのが正しい。
弘治三年(西暦1557年)三月廿八日、飯縄之千日宛、武田晴信安堵状案には、「飯縄山之事、如父豊前守拘候時、不可有相違候、然而武運長久之祁念、不可致退轉者也、仍如件、」とあり、武田晴信は、飯縄権現神主、千日をして同所務を安堵している。又、元亀元年(西暦1570年)九月朔日、千日次郎大夫宛、春日弾正忠(虎綱)奉之、武田信玄寄進状案によれば、武田信玄は、千日次郎大夫に、社領の各所、合わせて四十七貫を安堵し、新たに「入山之内大宮」から壹貫三百、「南郷之内」から拾壹貫五百、「廣瀬之内」から七貫、総計十九貫八百を寄進している。
天正六年(西暦1578年)正月廿三日、武田勝頼名字状によれば、武田勝頼は飯縄社、千日次郎大夫の養孫(仁科盛清)に「仁科甚十郎」の姓名を賜っている。又、天正八年(西暦1580年)閏三月十日、千日太夫宛、跡部尾張守(勝資)奉之、武田勝頼安堵状案には、「定 飯縄御神領、先御印判被寄附之上者、自今已後、弥不可有御相違、畢竟、御当家御武運長久之御祁念、疎略不可有之趣、所被仰出也、」とあり、武田勝頼は、千日太夫に、飯縄社社領を安堵し、当家の武運長久の御祈念を粗略にしないようにと言っている。
屋敷の現況は…耕作地、果樹園、一般住宅とその敷地等となっている。敷地面積は約三百坪、厩や長屋が残っていたそうだが、太平洋戦争終結後に次第に廃墟となり、昭和六十年(西暦1985年)に取り壊されたんだそう。又、北側斜面には水神が祀られているが、その上段の耕作地が飯縄社里宮の旧地だ。
飯縄権現を篤く信仰したのは上杉謙信と武田信玄である。即ち、謙信は兜の前立に飯縄明神像を施し、朱印の文字にも選んでいる。信玄は戦勝を祈念して飯縄明神に願文を捧げたり、飯縄本尊と「飯縄法次第」を身に付けたりもした。飯縄山は中世後半に戸隠顕光寺の差配から脱し、「飯縄の法」と呼ばれる妖術めいた独自の修法を編み出した。飯縄権現(飯縄明神)は、狐に乗り、背に翼を持ち、火炎を纏った姿で表される。勇ましい御姿は、武運長久を願う武士等の関心を引き寄せ、軍神として熱狂的な支持を以て崇められていた。
※寺社放火魔として有名な武田勢だけど、信玄自身は神仏の信仰心に篤い人物だ。ちなみに信濃の寺社の由来は武田氏の兵火によって焼亡したとするものが本当に多い。
※「飯縄の法」と呼ばれた妖術めいた独自の修法を編み出した。〜原始的忍法ともされる。
※嘉永二年(西暦1849年)に刊行された「善光寺道名所図会」には、飯縄の里宮、奥の院と仁科氏の屋敷が一枚に描かれている。
※写真⑥、背景の山稜がアプリの登録城、葛山城っす。
※写真⑦、背景の山稜が同じ葛山城のリア攻めマップにある大峰城っす。
※写真⑧は飯縄社里宮の旧地を撮影したもの。